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宰相殿の空弁当
毛利秀元は智勇に秀でた武将だったようですが、関ヶ原の際、いくら下にいる吉川広家が内通していて動かないからといって、輝元の名代として毛利本体を率いる秀元が本気で動こうと思えば吉川も抗しきれずに動けて勝敗も変わったのではないかと思うのですが、秀元は本気で戦う意思はなかったのでしょうか? ご意見をお聞かせ下さい。
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徳川の広家への内応工作については、秀元は全く知らなかったと言うのが通説です。毛利秀元は吉川広家より18歳も年下です。実際の所は良く分かりませんが、広家に対する遠慮の気持ちは当然あったでしょう。「広家が家康に内通している」なんて秀元は夢にも思いませんから。 東軍は、毛利が布陣している高地の下を通り過ぎて西軍を攻撃しています。秀元が「今こそ東軍の背後を突くべし。100%勝てる!」と山の麓にいる広家に使者を送ります。 それに対し 「殿(輝元)は毛利軍が戦闘加入する際は慎重にと言っておられた」 「ワシが見るとまだ戦機が熟していない。秀元殿はまだお若い」 などと適当なことを使者が返答し、変だなあ。。。と考えながら時が過ぎていったのでしょう。南宮山を使者が上り下りするのにも時間がかかります。 質問者様が言われるとおり、秀元が広家を無視して進撃命令を発し、毛利本隊(2万人弱?)が山を下ったとすれば、吉川隊(その数分の1)が本隊を妨げることはなかったでしょう。吉川の横の安国寺隊は兵力1000人程度でしょうが、毛利本隊と呼応して動いたはずです。吉川隊も動かざるを得なかったでしょう。山を駆け下りた毛利全軍(2万5千人くらい)が東軍の後衛である池田輝政隊と浅野幸長隊(合わせて兵力1万人以下)を粉砕し、家康旗本に迫るのは明らかです。その時点で長宗我部隊も戦闘加入して東軍の退路を遮断します。東軍は長久手の合戦の羽柴軍と同様に全滅するしかありません。戦術を少しでも知る者が戦況を見れば瞬時で分かることです。 仮に秀元の家老か誰かが吉川の内通を知っていて「吉川様は内府からの工作を受けています」と秀元に耳打ちすれば、激怒した秀元は上記のように進撃命令を下したでしょう。史実ではそうなりませんでした。「秀元が年長の広家に遠慮したから」と考えれば納得できます。 「毛利が動かない」可能性に賭けた家康の勝利です。私が家康の立場であれば、怖くて南宮山の下を通過できません。どんなに強い部隊でも、腹背に敵を受ければ必敗ですから。関ヶ原の敗戦後、私が秀元であったら、毛利を徳川に売り渡したに等しい広家と刺し違える所ですが。。。そういう話は伝わっていないですね。
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