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関が原合戦後の島津

九州の諸大名らに西軍に加担した島津攻めの準備をさせておきながら、なぜ徳川家康は島津を一気に攻め滅ぼさなかったのでしょうか?減封さえしないのは手緩いのでは?

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  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.3

 小説などを読んでの集大成ですので、どこかでご覧になったかもしれませんが、順不動に。 (1) すでに徳川との内通が成立していた。 (2) 薩摩軍は殿様が出てきておらず実際ほとんど動いておらず、さらに「島津には東軍と戦う意志はなかった」という弁明があり、信じたふりができた。 (3) 関ヶ原からの撤退戦で見せた島津の強さが、家康をして征服の難しさをを認識させた。 (4) 島津は九州統一直前に、豊臣軍によって九州の隅に押し込められて豊臣に恨みを持っている(親・徳川の)はずだから、西軍残党を牽制させるのに都合が良い。  加えて、いわくありげに島津を許すと、西軍側は疑心暗鬼に陥るだろう。 (5) 島津は、吉良など高家などと同様、鎌倉以来の名家だ。 (6) 日本の一番隅っこにどんな人間がいても大勢に影響がない。 (7) 琉球を支配下に置かせ、中国などからクレームがあった場合に責任を押しつけて、それから潰しても遅くない。

noname#154784
質問者

お礼

どれもありそうですね。 一つの理由だけじゃなくてこの中の幾つかの複合理由とか、もしかしたら全部が合わさった理由かもしれないとか、いろいろと考えられますね。 参考になりました。 回答ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.6

関ヶ原が終わり大名の配置転換が終わったにしても、まだ毛利家もありチョウソカベの一族や家臣も多くが生き残っています。もし徳川本隊が島津と戦争を始めたら、後ろで毛利を中心に反乱が起きる可能性が多分にあります。加藤清正も高い確率で島津につきます。 また九州諸大名に軍役を命じようにも、はっきり言って島津領以外の九州は関ヶ原時に荒れたうえ大名の配置転換がありましたので、まず負けます。島津単独のほうが他の九州諸大名より強いです。 もし島津を攻略しようと思ったら、まず毛利を攻略しそれから島津となりますが、防長2カ国という処分を一度下した毛利を何の理由もなく(というか難癖付けて)また攻め潰そうとしたら、さすがにこれでは減封処分を下した残りの大名から信用を失って一斉に反乱がおきるでしょう。 さらに言えることは、おそらく徳川家には財政的に、九州遠征を強行する財政・兵糧がありません。関ヶ原は福島正則が清州に持つ豊臣家の兵糧米で戦いましたが、九州遠征をする兵糧のあてはどこにもないでしょう。 これらの状況のどこまでを島津が把握してたかわかりませんが、徳川が薩摩まで攻め込める状況ではないのを島津は読んで徹底抗戦の意思を示し、家康はあきらめたわけです。

noname#154784
質問者

お礼

なるほど。 凄いのは島津の強かさというか読みの深さでしょうか。 参考になりました。 回答ありがとうございました。

回答No.5

 関ヶ原の合戦は、家康苦心の政権奪取の賭けでした。 秀吉亡き後、政治は5大老5奉行制で行っていて、家康は 筆頭大老であっても、秀吉の子秀頼がいるため豊臣の家来筋の 枠にはめられていました。政権奪取の大義名分は戦争です。 色々、血気盛んな大名に謀反の疑いありなど因縁をふっかけて、 上杉が 来るなら来い とけんかを受けて立ったのが起こりで、 家康とて100%勝てるかは確信の無い戦いでした。  西軍が籠城戦を望んだのを、野戦に持ち込み、結果小早川の裏切り、 毛利軍の不参戦(吉川広家)などで勝敗が決定的になった時、島津軍は 戦場離脱に際し、後退せず敵軍の中を突破して、多くの犠牲を払って 親分島津義弘を無事帰国させました。のちの論功行賞で、島津の処分は 議論されましたが、帰国後島津は、家康が攻めて来ることを想定して 守備を固めたこと、また薩摩の兵は最強であり、無理攻めをすれば 犠牲が多いことなど、また島津と家康の外交交渉で本領安堵となりました。  家康としては豊臣から政権を奪うのが目的で、まだこの頃は法的に その資格がないので、島津に関わって目的が潰えたら元も子もなくなるので 家臣の意見で島津を許したと聞き及んでいます。  秀吉は家臣に褒美を与える時、自分の所領を与え、そこから決まった分の 石高を差し出させていました。秀吉の本領は摂津、河内、和泉の65万石で あとは家来筋からの上納で何百万石を保っていたのですが、関ヶ原戦後の 論功行賞で家康はそこに目を付け、豊臣への上納部分を東軍の武将に与え 秀頼をただの摂河泉65万石の大名に落としてしまいました。  豊臣氏はプライドが高いので徳川政権樹立後も目障りで、このガンが 島津を見えなくさせていたのかも。  はるかのち、本州の端(長州)と日本の端(薩摩)が徳川を倒すという 歴史ドラマは、関ヶ原の負け組が復讐を果たした事実です。  でもあの時島津を潰していたら、と思う幕臣はいないでしょう。 篤姫の輿入れもあったし、関係は良好だったでしょう。  本領安堵で手を打った家康の処置が正しかったと思います。

noname#154784
質問者

お礼

なるほど。 参考になるお話ありがとうございます。 いろいろ考えさせられますね。 回答ありがとうございました。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.4

減封する意味がない。家康にとっての最重要の命題は、豊臣家の勢力を弱め江戸幕府の基盤を磐石にするといったことでした。西日本での家康の支持基盤は、はなはだ脆弱なものでしたから、味方に取り込んだほうがよほど有利です。島津には家康に敵対する意志などなく、薩摩が余りにも遠隔地すぎて中央政局の動向を把握するのが遅れて、東軍に合流できなかっただけ。遠隔地すぎるのは家康にとっても同様ですから、本軍を率いて薩摩まで遠征することなどできません。討つと言うなら、九州の諸大名に命じる他ありませんが、島津に勝てる保証などない。逆に九州の諸大名が島津に同情して、島津についてしまったら眼も当てられない。関ヶ原の合戦は、三成憎しの豊臣温故の諸大名が家康側について、西軍内部への切り崩し工作がうまくいったから東軍は勝てたわけです。三成は敵が多かった。しかし島津はそうではない。島津は豊臣政権には参画していませんから。

noname#154784
質問者

お礼

なるほど。 とても参考になりました。 回答ありがとうございました。

回答No.2

有りそうな話が下記に出ています。 http://ncode.syosetu.com/n0231b/179/

noname#154784
質問者

お礼

ほんとに有りそな話ですね。 参考になりました。 回答ありがとうございました。

  • Verhalten
  • ベストアンサー率17% (36/201)
回答No.1

一説には 明との貿易船が薩摩沖で襲撃に合った事が原因と言われています。 明船が襲撃に遭いました。 明とは秀吉の朝鮮征伐から関係は相当悪化しており、明との関係悪化を恐れたと言う物です。 私的には、 将軍が発行した朱印状を持った船が国内を安全に航海出来ない事は 幕府の威厳に関わる大問題であったと考えています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%8D%B0%E7%8A%B6 すなわち、○○藩の貿易船が薩摩沖で沈められる事を最も恐れていたと言う物です。 秀吉が家康に何とか臣下の礼を遂げてくれと懇願しますが、 こんどは逆に 家康が島津にと懇願します。 秀吉は室町以来の名家を潰すのは惜しいと島津家を笑って許します。 今度は家康が許します。

noname#154784
質問者

お礼

なるほど。貿易の問題ですか。全然知りませんでした。 参考になりました。 回答ありがとうございました。

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