- ベストアンサー
我思う、故に我有り(デカルト)への根本的疑問
世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器官には何ら問題が無い事が判明した。そして生命維持装置にかけて栄養補給すれば延命させることが可能と結論した。母親は延命を望んだ。そのようにして子供は10歳になった。 さて、彼は自分の手や足が「そこ」にあることを知ることが出来るでしょうか?それどころか外に世界があることを知り得るでしょうか?また、自分自身を知っているのでしょうか?彼の精神はあるのでしょうか?無論、脳は医学的に見て損傷はなく、栄養補給も絶えず受けつづけたとします。彼は「見る」ことも「聞く」ことも「触る」ことも「味わう」ことも「嗅ぐ」ことも経験出来ないので、夢を「見る」ことも「聞く」ことも・・・~も出来ないでしょう。 そういうことから、「我思う」為には外界の刺激が必要であって、「我有り」の方は根本にはなり得ないように思うのですが、いかがですか?長い質問でした。
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
関連するQ&A
- 心肺脳の機能が全て停止すると死・・・ですよね?
脳が機能を失います。 呼吸なども止まってしまいますが、人工心肺機で延命している状態です。 この機械をはずしてしまうと「脳死」ですよね? それでは逆に、 何らかの原因で心肺機能が停止して、呼吸は止まってしまいます。脳はまだ機能を失っていません。 放置していれば脳が酸欠で脳まで死亡(=心肺脳の機能停止)、つまりは死んでしまいますよね。 なので人工心肺機能を使って延命しています。・・・(1) 脳が生きているので、上記の「脳死」と違い、蘇生の可能性はあると思います。 そこで質問です。脳死に対し、脳は生きていて心肺機能だけ失って延命治療を行っている人((1))は、通常意識は不明ですか? また、(1)の状態を脳死に対して何と言いますか?植物状態(差別用語でしたら申し訳ありません)とは異なるのでしょうか。 ものすごい初心者(無知)ですので、子供にするように簡単な言葉で説明していただけましたら、嬉しいです。 回答のほどよろしくお願い致します。
- ベストアンサー
- 医療
- 本当の世界はどうなっているのか?
世界とは、人間(生物など)が外界の情報(光、音、温度、物理的刺激、臭いなど)を感覚器で受け取り、その信号を元に脳が作り出したものでしかありません。 としたら、例えば、世界に光(電磁波)は存在しても色など存在しないのです、空気の振動である音波は存在しても、音など存在しないのです、一体、本当の世界はどのようになっているのでしょうか? 本当の世界は、無でしょうか?
- ベストアンサー
- 科学
- ベルクソンは何によって表象が可能になると考えたのか
ベルクソンは、「意識的知覚、つまり表象は脳で行われる」という言説を否定しました。 なぜなら、物質的宇宙を、その一部である神経の分子運動の表象によって、表象出来るとすることは不条理である、とのこと。 では、いったい何によって表象が可能になっているとベルクソンは考えているのでしょうか。 感覚器官でしょうか。 脳に蓄えられた記憶が感覚器官に達したときにイメージを伴って再認される、表象されると考えたのでしょうか。しかしこれも感覚器官という物質世界の宇宙の一部によって、物質宇宙が表象されることになってしまいます。だからきっと違うのでしょう。 てんでわかりません。よろしくお願いします。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 素朴な疑問を思いつきました。
こんばんわm(_ _)m 脳を少しも傷つけないで冷凍し、解凍できる技術があれば、1000年後の世界も見れますか? それとも自我や意識は、機能していてこそ存在できるものなんですか? つまり『記憶』とは動きなのか? それとも一度シナプスの働きなんかを止めても『記憶』は記憶されたままでいられるのか? 宜しくおねがいしますm(_ _)m
- ベストアンサー
- 生物学
- 延命治療の意味と社会における延命治療の扱いについて
延命治療の意味とか具体的にどの医療が延命治療になるのか、 公的な機関や法律で明確に定義されているのか、それとも、 医師や医学の専門家の団体の会議などで明確に定義されていますか? そのような定義があるのでしたらどこを見ればわかりますか、 WebサイトのURLなどわかりますか? もし公的な機関や専門家の会議などで定義されていない場合、 発言してる人によって延命治療の意味は違うということですか? 下記の行為は専門家や一般市民の多数派の認識として延命治療とみなされていますか。 *脳死者に人工呼吸器を付ける。 *老衰の末期の人に人工呼吸器を付ける、人工的に水分や栄養を補給する。 *ガンや他の病気の末期の人に人工呼吸器を付ける、人工的に水分や栄養を補給する。 *臓器の機能不全でそのままでは死ぬ人に、臓器移植をするか人工器具を付ける。 *治癒が見込めるガン、心臓病、脳卒中、肺炎、感染症に治癒のための治療をする。 *治癒が見込めないガン、心臓病、脳卒中、肺炎、感染症、認知症に進行を遅らせる治療をする。 *植物状態や寝たきりの人に水分や栄養を補給し、排泄物を処理し、体位交換をする。 新聞やテレビの報道では、延命治療(特に胃ろう)に対する批判一色です。 ここまで批判一色だと、戦前戦中の戦意高揚・戦争扇動報道のように、 何らかの意図があるのかと感じます、何か隠されてる目的があるのでしょうか。 新聞やテレビの報道では、外国では上記のような医療や介護は一切やらない。 外国では上記のような延命行為は無意味で無駄で社会迷惑と認識されてる。 外国では植物状態や寝たきりや胃ろうの人は一人たりとも存在しない。 だから、日本もそうすべきだと宣伝されてるのですが、 そのような報道が宣伝してることは外国では事実なんでしょうか? 一人たりとも存在しないなどと言い切ってるところが、 過剰な宣伝表現を多用するプロパガンダのように思えます。 日本を新聞やテレビ放送が主張しているような国に変えられる可能性はどのくらいありますか。
- 締切済み
- 医療
- とうとうわたくしはこの世の真実を解明した
とうとうわたくしはこの世の真実を解明いたしました。この世と言うのは実は存在しないのであって、まったくの夢以外何ものでもないという事ですね。 この世界を知覚できるのは肉体に備わっている感覚器官であって、もし感覚器官と言うものがこの世のすべての生物に備わっていなければ、この世は知覚できませんので存在しないという事です。私たちの太陽系にしても、その周りを回っている惑星など、中でも最大の惑星である木星やその他の惑星などすべては、私たちの感覚器官の視覚で見る限りは堅牢たる現実としてそびえ立っていますが、視覚がなければ知覚できないので存在していないということになりますね。感覚器官が備わっている肉体と言う乗り物に乗ることによってバーチャルリアリティーであるこの世の世界を知覚できるということです。このようなことについてもし皆様に独自のご意見がおありならばお聞かせ願たくよろしくお願い申し上げます。 補足 現在のコンピューターによるゴーグルをつけてのバーチャルリアリティーはかなり進みだしてきていると思いますが、肉体に備わっている感覚器官と言うゴーグルによるバーチャルリアリティーは神が作ったものなので完璧なVRですね。これから先も進むであろうと思われるコンピューターによる人間が作るバーチャルリアリティは、神が創造された完璧なる感覚器官によるバーチャルリアリティーには当然ですが近づくことはできないでしょう。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 生物とは神様が設計したロボットなのですか?
例えば動物などは、脳、目や耳などの感覚器官、心臓や肝臓などの各臓器、 循環器系、消化器官など各機能があり、相互に上手く機能しあって個体を 維持しているわけですが、よくもこれだけ複雑なシステムが自然に出来上がった ものだと不思議です。高度な知能を持つ何者かが設計したとしか思えません。 自然まかせで、本当にこのような複雑なシステムができあがるものなのでしょうか?
- ベストアンサー
- 生物学
- 意識の謎 : 人間各個体はそれぞれ独立しているのに何故同じ世界を見るのか
. *** 言語の相違と認識の同一性 *** 私たち生き物が外界を認識をする時、外界から視覚器官に到達した光量や光強度などを生体電位に変換した後には、神経線維を走る 信号強度やシナプス間での神経ホルモンの濃度や受容感度には個体差があるので、そのような過程を経て外界イメージが形成される なら、それは独立した各個体によって成されるので、認識される外界像や外界印象はそれぞれ違ったものになるように思えます。 さらに、人間が認識する対象のそれに適当な意味を付けて言語化する時、日本語や外国語あるいは日本各地の方言のような相違があ りますが、これは独立している人間各個人の思考機能の差異や多様性によって生じたと考えられます。 それならば外界認識において、他者は私の見る世界と同じものを見ている、という素朴な了解は何を根拠にしているのでしょうか。 あるいは何故、各個人間の外界像には多様性が無くて言語には多様性があるのでしょうか。
- ベストアンサー
- 心理学・社会学
- どうして目は頭部にあるの?
子供に質問されました。 ↓ 脳は情報処理器官であり、目や耳のような感覚器官のそばにあって外部からの情報を処理する必要あり。 目や耳と脳が離れていると情報伝達に時間を要するし、神経が切断された場合に修復困難。 目や耳はなるべく前方や高い位置にあった方が情報収集性が高まる。 よって脳も身体の前方や高い位置に置かれる。 こんなもんでしょうか。 補足あればお願いします。
- ベストアンサー
- 生物学
- 細胞の大きさと共通の祖先
1・「細胞は顕微鏡で見ないと見られないほど小さい。細胞の大きさには限度がある。それはなぜか?」 2・「生物は共通の祖先から進化したと考えられているが、その客観的根拠を3つ以上挙げ説明しなさい」 この問題について調べています。1の問題の答えは、細胞の容積が大きすぎると栄養や、ガスやイオン、老廃物を周囲とやりとりするための表面積が不足してしまうから。 2の問題の答えは、内部構造の異なる器官が、表面上よく似たものになり、それが同じ機能を果たす相似器官が見つかったこと、同じような内部構造の器官が全く異なる機能を実現している相同器官が見つかったこと、現在の生物は共通の遺伝コードを用いていることから、生物は共通の祖先から進化したと考えられている。 自分で調べてみたところ、これが答えと思うのですが、あっているでしょうか?この問題を解く参考になるところがありましたら、是非教えて下さい。
- ベストアンサー
- 生物学
- B5の用紙をA4に拡大印刷すると、A4いっぱいにきれいに印刷されず、余白ができたり印刷が切れてしまう。
- お使いの環境についての詳細情報が不足しています。パソコンまたはスマートフォンのOSや接続方法、関連するソフト・アプリ、電話回線の種類などを教えてください。
- 質問内容に関連するFAQのタイトルやURLは後ほど記入いただく必要はありません。
補足
凄い・・・、待ってました。こういうのを。本当に長文ご苦労様です。質問した甲斐がありました。得るものが多かったです。質問に対してこれほどご理解頂けるとは・・・。私よりも質問の意味を解っていらっしゃいます。 非常に難解でクラクラしますが、思うところを述べます。 確かに私の思考モデルには設定が色々散りばめられていて、外的世界という前提やまたそれらの階層について勝手に指定した部分があります。つまり「彼の精神という存在と、その外側に客体としての世界があり、客体は精神を超越するから、精神は客体から生ずる」というように意味の無い主張になる、ということですよね?こうなる決まりがあるからこうなるのだと。問題に無理があることは、少なくとも現象学的な認識を踏まえるとなれば認めざるを得ません。なぜなら私の問題設定とは、主観的存在と客観的存在とを分離するような構造を無前提で与えたことが明らかであるからです。つまり私の問はただトートロジーを複雑に記したに過ぎない・・・。この点に付きましてはこれで宜しいでしょうか? デカルトの懐疑については、私はこれを誤解していたつもりは無く、私にとっての「我」にしてもそれは自明です(私は我があると信じるしかありません)。しかし私がいいたいのは(子供の例えで言うと)、存在物の存在了解が出来ないから存在物はない、いうことではなく、そもそも存在了解が出来なければ「認識主体」では無いのでは?ということです。例の子供の場合には「認識主体」そのものの存在了解が出来るのかという話なのです。逆に、存在了解するものこそ認識主体と考えられますので、その認識主体というものが、他の事象と一切の関連を持つことなく、己のみで存在し得ないだろうと思ったのです。仮定として彼に「認識主体」(定義不能ですが)のみを与えるとして、彼が何を想像するのかとなると、奇妙になります。彼に認識主体のみがあるとすれば、認識主体は、何かを認識するでしょうか?そして認識主体はそれ自身を認識し得るでしょうか?私は何も認識しないだろうと考えます。そのような認識主体は「ある」と仮定しても「ない」ことと同様だと思えてなりません。なぜなら認識主体がそれ自身を対象概念化するような手続きを含んでいないからです。何も認識できない認識主体は、認識主体たり得ないということです。 以上のような考えから、主観とは現象存在諸々の関係概念の一部であるか、またはあくまで補完的役割を担うものであって、その存在の独立性は保障できない、と思ったのです。ただ、上の例では外的世界が存在する仮定が採られており,もしこれが事実ならば認識主体は独立ではない、ということを主張したかった訳です。言わば主観と客観についての分離不可能性を述べたものです。 私事で恐縮ですが、私は「意識」が科学的なレベルで解明されるのだと信じています。それは主観や客観などを含む関係概念が定式化された上で導かれるというイメージです。ですけど、単なる思い込みなので突っ込まないでください。こういう指針で私がこれまで考えてきた結果の産物であるということです。 アプリオリな思惟については、これを当てはめていいのか迷いますが、数理論理的な実体の総合(曖昧な言葉です)をイメージしておりまして、それと関連している何か(曖昧ですね)としてその存在(アプリオリな思惟)を信じています。しかしそのような思惟は実体的存在から分離できない概念と考えています。つまり、人はいなくても思惟体系はあるが、ある実体存在なければ思惟はないと信じています。そして思惟の生じない実体存在の体系はないという考えです。平たく言えば、ここに自分の思考がある限り世界は存在するか、または、ここに世界が存在する限り思考は存在する、ということです。古典的かもしれませんが・・・。あくまでこれは私個人の信仰に過ぎませんので、この件に関しましてはあまり分析的にならないように願います。 この教えてGOOを知るようになって日が浅いのですが、面白いし為になりますね。特にフッサールの現象学への興味が持てたことには非常に感謝するしだいです。以前の補足でも述べてあるように、私の考え(オリジナルと言い張るつもりは一切有りません)は20世紀以降の形式論理学の発展における数理哲学的解釈が元になっておりまして、自我意識理解の為のヒントが数理や物理学に隠されているのではないかという動機から始まったものです。特に興味深いのは数学者ペンローズの見解でありまして、多大な影響を受けました。 自分で書いておいて注意するのもなんですが、ここでは「意識とは何か」という議題には触れないようにしましょう。問題がどんどん拡大してきりがありません。 有難うございました。