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我思う、故に我有り(デカルト)への根本的疑問

yamachan62の回答

回答No.8

 「我思う、故に我有り」というのは、単に自分の存在の根本を意識と考える、という流儀ではないのですか。ここでの例で言えば、「我思わない、故に我なし」で、同じくデカルトのままですが・・・・。  デカルト的流儀に疑問を呈したければ、例えば、意識以前の情報処理機能、行動機能が、神経科学の世界などで明らかになっていますが、そういうことでは駄目なんですか?robkingさんが提出されている子どもの例では、意識はないけど、様々な機能が個体として進行しているので、それが存在ともなっているということになります。  そもそも、感覚がある、感覚がない、の区別が非常に難しい問題だと思いますが、それよりも、こういう問題設定というのは、何のために行われているんでしょう。哲学をやっている方なら、論理の恣意性や限界もご存じのはずですが。  非難しているわけではありませんので、教えていただければ幸いです。

robking
質問者

補足

「我思う、故に我有り」ついて、私が問題視したのは、その「我」の部分でありまして、その論理構造ではありません(あれ、違うかな?)。存在論的証明を例にとりますと、 神は完全である 完全には「存在」を含む 故に神は存在する というような三段論法と同じように「我あり」というわけにはいきません。そこで「我」そのものを改めて考えなければならんと思ったのです。上のものはあくまで古典的な三段ですから、現代論理では通用しません。形式論理では「存在」を扱えないからです。そのうえで「我思う、故に我あり(存在す)」や「我思わない、故に我無し(存在しない)」は共に「真」であるようですが、「存在」の意味合いがもっと超越的であるために論理として成り立たないのです。それは単に確信に過ぎないという訳です。「思う」も「我」も同様です。従ってこれは論理的なテーマとは無関係だと考えます。彼の命題は、私を含めた無数の人々の確信なのであって、「論理命題」とはいえません。何かこんな事を言っていると「神」を信じたくなる誘惑に負けそうです。 >> デカルト的流儀に疑問を呈したければ、例えば、意識以前の情報処理機能、行動機能が、神経科学の世界などで明らかになっていますが、そういうことでは駄目なんですか?robkingさんが提出されている子どもの例では、意識はないけど、様々な機能が個体として進行しているので、それが存在ともなっているということになります。 それは私の問題の意図と違います。彼は「存在している」ことにしても差し支えありません。また、世界が存在していても構いません。つまりそこに世界があるのに彼は自分自身を知らない。ということです。 ところで、意識以前の情報処理能力、行動機能などは、定義からいって「有限機械」と同様です。もしこれらの機能がもとで「意識以前」を設定するのならば、自分の意識が「あるメカニズムによって与えられる」のであって、根本事象とは言えません。ですから「ある存在物があり、関係論的構造があり、故に我有り」の構図をとることになります。 この問題を何故作ったかというと、自分の為です。不思議に思ったのです。で、よくわからないので皆さんに知恵を頂こうと思ったのです。そしてこういう問題が好きなだけです。私はロック音楽が好きですが、「血が沸騰するような過激なナンバーを教えてくれ」というのと動機の質は変わりません。そしてあるCDを教えてもらって「いや違うんだよ、俺が求めているのは」とかそういう展開があるのは不思議なことではありません。私が知りたいと思うことを聞いて、さまざまな見解や反論を垣間見ようと思ったんです。でも「意識とはなにか」って聞くわけにもいきませんので、具体的な設問をしたのです。 例の子供の、わたしにとっての物理的なイメージは、こうなります。 彼は何も感じない、空間も感じない(知らない)、時間も感じない(変化を知らない)。だから自分を知らない。 単なるイメージです。流してください。 私にとって、論理は非常に重要です。ただ、どこまで適用し得るかは現時点では推し量りかねます。論理学は発展途上でもあるからです。この発展の中に哲学的な展望がひらけてくるのかどうか、楽しみです。私自身不勉強なのはいうまでもありません。 有難う御座いました。

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