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aki2180の回答

  • aki2180
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回答No.2

追記です。 4. ここでの「裏腹」の使用法は、日本語として正しくないように見受けられます。おそらく、「そんな宗介たちの日常の一方では」という意味で使ったのだと思いますが、そのような使用法は、辞書にはありませんよね...。このように日本人も、日本語の使用法を間違えることがたくさんあります。

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    今回の選挙の焦点の一つに原発問題があります。 反原発派の人達は首相官邸周辺や日本各地で反原発、脱原発の抗議行動を積極的に行っています。 中には俳優の山本太郎氏の様に、本業を捨て、反原発運動にのめり込む人まで出てきました。 私は、このような反原発運動をしている人達をみて、『はたして、このような事をして何か意味があるのか?』と疑問を感じずにはいられません。 私は、本州の西の方に住んでいるのですが、地図上で見ると、私の地元から一番近い原発が四国の伊方原発です。 その次に近いのが九州の玄海原発で、その次とまたその次に近いのが、韓国の古里原発と月城原発です。 例え、日本の反原発派の人達の願いが叶い、日本中の原発が廃止されたとしても、隣国に原発がある以上、けして日本中が放射能に怯える事のない安全な日常生活をおくれる事にはならないのは明らかです。 日本人が日本国内でいくら反原発の声を張り上げても、周辺国の原発を廃止させる事などできませんし、周辺国は、現在稼働している原発の他にも新たな原発を作ろうとしています。 日本人の反原発の活動家がいくらがんばっても、原発新設計画を止めさせる事も出来ないでしょう。 その前に、日本人の反原発活動家は周辺国に対しても、『原発やめろ!!』などと抗議しているのでしょうか? 事情通のみなさん、日本人が日本国内だけでしている反原発運動に意味はあるのでしょうか? もしかして、反原発派の人達って、ガラパゴスですか!?

  • 国語の質問(難)

    飛行横は、鉄道の駅の対応物として空港をもつことになった。空港は飛行横の通過する空間と地表の接点として生じてきた。 しかし都市のさなかに入ってきた駅とちがって、空港は都市と結び付けられながら、たいてい都市からはるかに離れたところに ある。空港の建築はもはや都市建築ではなかった。空港にいると、われわれは砂漠のなかに立ったように、なにもない索漠たる 荒野のなかにいるのである。その名の示している都市を見ることはほとんどない。どちらの方角に都市があるのかきさえ分からな い。異様に孤立した場所なのである。だが現代という時代に顔をあたえている建築があるとすると、それは都市にある劇場でも、 美術館でも、官庁建築でもなく、空港ではなかろうか。そのことは空港があたらしい経験の場であり、同時に都市にあたらしい 変化をもたらすケイキであることを意味する。 空港での経験とはなにか。それは主として主体と他者の関係である。 しかしその前に空港建築について多少触れておいた方がいい。世界の大都市の空港の多くは、都市からさらに速くに移転して 改善が進み、金属とガラスを主たる素材とした、かなり巨大なハイテク建築として横たわっている。そのデザインがどうあろう と、結局は、出入国のチェック、飛行横への搭乗と降機、飛行機自体の離着陸、その整備などを中心とした、徹底的に合理化されたプログラムの現実化という機能では同じである。それだけの機能は満たさねばならないが、それ以上はなにも必要がない。 多くは空問のデザイン、レストラン、免税店などを多数用意して、なんとか居心地をよくしようとしているが、建築物のなかで もっとも機械に近い印象は免れない。われわれは、たとえば荷物が、コンピューターによってどう自動的に仕分けられていくか など、舞台裏を覗くことはないが、それでいてやはり機械のように機能する仕組みのなかを、きわめて厳密に決められた方針に したがって、自動的に行動させられていることには気がついでしまうのである。 空港での経験は、孤独の軽みとも、自由とも、完全に拘束された状態ともいえる。いくつかの経験が重なっているのだ。われ われの出会うのは見知らぬ人びとばかりである。 トランジットの長い待ち時間、たまたま隣に腰掛けた他の国の人びととそ のとき限りではあるが会話を交わす。しかも彼または彼女の旅が彼らの人生のどんな瞬間なのか、どんな目的でどこへ行くのか については詮索もしないし、まったく無関心でいられるのである。彼らは彼らなのである。完全な他者性。こうしてたまたま道 ですれ違う以上の他者、言葉も違う人びとと、双方の知っている言葉で交差してみるのである。多分、二度と会うことはなかろ う。われわれは、自分の慣れ親しんでいる世界とは異質な世界との接触を繰り返し経験する。彼らのことを私は知らない ー だが知らないとはどういうことか。 われわれは二つの経験をしている。ひとつは他者と主体についての経験である。他者はわれわれの日に透明な存在なのか、あ るいは反対にまったく不透明な存在なのかと絶え間なく自分に問いかけながら、こうした他者との接触を反復しているのである。 それは主体の経験にはねかえってくる。というのはわれわれ自身の方も、そのとさ自分がなにものであるかを主張しないばかりか、 自分の職業も、社会で占めている役割も諸関係もまったく無意味になる。ほとんど裸になっているのである。孤独かつ自由にな るとは、だれからも見られないことではなく、社会性をはぎとった裸の人間になってしまうことかもしれない。 第二の大きな経験として、われわれは異様な権力空間を経験しているのである。ここは一体どんな場所なのか。われわれはパ スポートを見せて国外に出ている。もちろんわれわれはパスポートを検査され、普通、国内にいるときには感じない国籍をあら ためて実感している。 パスポート・コントロールを通ったあとの人間の経験は、これまで味わったことのない政治空間の経 験なのである。空港は、どこにも属していないように見えて、その実、こうした自由を無化する権力の空間なのである。そこは どこでもないのに、イゼンとして権力の管理下にあるのを感じないではいられない。国家から解放されてまったくの自由であ るようでいながら、われわれはこのときほど、われわれをカンシする権力の働きのなかに拘束されていることはない。われわ れになにができるのか。ただ持つだけであり、一定の場所以外には踏み込むこともできない。いかなる自由も奪われ、権力に閉 じ込められている存在なのである。だが一体、だれの権力なのか。それは完全に国家に属しているとはいえず、だれのものでもない権力であり、いわばゼロの権力といっていいようなものなのである。たしかにそこにはまだ僅かながら ネーション・ス テートが残っている。 またネ-ションは、こうしたゼロとのどんな関係のなかにあるのであろうか。言い換えるなら空港とは、ゼロに限りなく近い空間である。われわれは主体と他者にかんしても、権力にかんしても、ゼロを掠めるように経験しているのである。われわれはこの主体と権力の関係を追求する必要に迫られるのである。一方でかつて ミッシェル・フーコーが論じてみせたように、主体を産出した権力をようやく理解すると同時に、権力の生み出すフーコー 的な主体化の論理をこぼれる主体の可能性をほんやりと感じているのである。フーコーの権力翰が近代社会の形成にかかわると すれば、 いま見ている主体は、近代社会をはみだしている。それがどんな社会かを言うことはできないが、主体がゼロである ことを感じることは、なんらかの兆候であった。飛行機の旅で唯一実感するのは、時差による異常によってほじめて知る身体で ある。われわれは身体を、今や、巨大な地球規模の空間と時間の間際で味わう経験との関係でコウサツしなければならなくなっ たのである。 空港とはこうしてゼロを経験する、これまでは現実にはなかった空間である。ところがこのゼロは、生産力とまでは言わない ものの、ある種の生産力、変容の能力をもっているのである。 飛行機による旅の簡略化によって、多くの人びとの旅が変質していった。都市は直接的でないにしても、きわめて容易に他の 都市と接続するようになっていったのである。こうした世界の都市をあたらしい関係に編成しなおす力の根底にあるものを問い 詰めれば、空港で感じ取っているゼロと同じものではなかろうか。そこになんらかの実体的な力の源泉を想定しても見つからな い。つまりこれまで 普遍空間と呼んできた理念とは、こうした意味でのゼロに近いのではないのか。そしてそのゼロの生み だす余剰に、われわれは身体や主体のありようを見いだそうとしているのではないのか。 あらゆる空港が都市と異様に速いことも、これと関係がある。それは今のところ、都市と航路の接点であり、都市への交通機関を整備する必要があり、直接に都市の構造に割って入らないまでも、都市の付属施放と考えられている。しかし日常の生活か ら離れたエアポートつまりゼロの空間を介してしか、都市がもはや他の都市との関係をもちえなくなったことは、都市が現在の 姿のままでも連合してあたらしい集合をつくることになっていく可能性を示している。したがってこれまでなら、都市と都市のあいだの田舎、農村、地方都市、さらに無人地帯としてあったものも、こうした連合のなかにホウガンされることになる。こ れは都市的なものから想定される都市というより、すでに ポスト・アーバン社会という集合体であって、その意味では都市 はもはや都市ではありえない時代が近づいている。 飛行機の旅では、ある都市から都市への移動において、「領土」の経験が失われてしまった。鉄道がいやでも国境を通過し、 したがって版図を知覚するのにたいして、飛行機の旅にはそれがない。確定した領土こそ国民団家の基盤であり、現在のわれわ れが惰性的にもっている都市の概念の底に、まだネーション・ステートが潜在していることを考えると、空港を経由する旅は、 布かち、いわば政治的、歴史的基盤を取り除く経験ではないか。想像的意識のなかでは、国家よりも上にいくつかの都市が 集合した状態を世界として知覚しはじめる感受性が育ちつつあるのは、こうしたエアポートの経験のせいではないのか。 いまや都市はその自立性以上に、世界化の力に動かされているが、その力が端的に表現できているのはエアポートのゼロの空 にほかならないのである。 この文章をよんだのですが、非常に読みにくく何を言っているのかまったく理解できません。できれば、ようやくと筆者のいいたいことを教えてほしいです。 問題 それは主体の経験に跳ね返ってくるとあるが、その具体的な説明として最も適切なものを選べ。 1空港における未知なる他者がどのような同一性を有しているかを探る反復的な接触は、一過性のゆえに互いの無関心に収束し、主体は自己の同一性の拘泥する必要から解放されるということ。 2空間で出会う人間の同一性は意味を持たないものであり、またその同一性は関心の対象でないため、そのような他者との接触は主体を社会的な役割から離脱した存在に還元してしまうということ。 問題 時差による以上によってはじめる身体とあるが、このことの言い換えになっている表現を本文から十字以内で抜出しで答えよ。 問題 現代という時代に顔を与えているという、筆者の空港についての考え方とは対照的な空港の意味つけが述べられた部分を七字で抜出しで答えよ。 かなりハイレベルな文章です。どなたか問題の解説お願いします

  • 名をはせた悪党は、なぜみな同じ考えをするのですか

    大きな野望を持った悪党というのは、言うこと成すこと、なぜここまで似るのでしょうか。 ・地域の統一を目的に実効支配を試みる ・脱退者や批判者を処刑する ・政治工作や暴力で弾圧する ・宗教用語というオブラートで包んで、犯罪行為を正当化する ・実質犯罪組織なのに、協力者が非常に多い  (それだけその国が汚れているということ) 具体的にはこんな感じです。 【イスラム国】 貧困、差別、不正が起きないように、正しきイスラムの心を持った戦士が地域を支配する。我々が世界を支配したとき、本当の世界平和が訪れる。 との思想のもと、侵略、略奪を繰り返している。 ISISの支援者は多く、年間数億円もの資金がISISのもとに集まっている。 【オウム真理教】 麻原尊師は空中浮遊もでき精神世界とつながり、日本を極楽浄土に変える力を持つ偉大なる聖職者である。 だから、脱会者や批判者は、ポア(強制的に転生させる=殺害)する必要がある。 との思想のもと、ユートピア実現のために、サリンを日本全土にまいて信者以外を全員ポアする計画があった。 【創価学会】 世界で唯一正しい創価学会は、邪悪な教団、政党を打ち倒す必要がある。 日蓮大聖人のご遺志に従って、日本を創価王国にすることが、正しき仏教徒の務めである。 日蓮大聖人が残した御書のとおり、脱退者や批判者は地獄で苦しむとのこと、我々の手で、学会の邪魔をする者を一人残らず地獄送りにする。 との思想を掲げ、池田大作氏(最高責任者)は信者を鼓舞。公の場で、「脱会者を自殺に追い込め」「仏敵の悪口を言いふらすことが君(公明党議員)の務めだ」「憎き坊主は針金で結わえて、ハンマーでぶん殴れ」と発言した記録が残っている。 (創価学会の指導例1) 公明福井県会議員・福井一成氏が池田氏が総講頭資格喪失後も本山参詣を続けることに対し、止めるよう森岡正昭副会長ら幹部が執拗に迫る。 (福井氏が創価と対立関係にあるお寺に参拝することに池田と副会長が抗議) 次女が昨年暮れに脱会していたことから、嫌がらせが激化。副会長らは会館に呼び寄せ吊るし上げた。 1.日顕の悪口を言って歩くことが君の目的だ。ただちに実行せよ。 2.脱会した者が自殺するまで追い詰めろ、それが池田先生の指令だ・・・ と強烈に詰め寄った。 氏が副会長に『脱会した娘を自殺に追い詰めろということですか?』と聞き直すと『そのとおりだよ』と答えた。 http://www.soka-news.jp/jiken.html (指導例2) 元創価学会教学部長 原島嵩氏が、「創価学会(池田大作)は、批判者を徹底的に痛めつけるよう指導していた」と暴露本「誰も書かなかった 池田大作創価学会の真実」(2002年7月25日初版)で告発した。 『池田は、創価学会を批判する者に対して、これを徹底的に痛めつけることを青年たちに教えました。 昭和三十三年の四月、戸田会長の死の直前に起きた池田による僧侶リンチ事件も宗門への見せしめであり、青年たちの教訓として起こしたものです。』 (事例3) 元公明党委員長 矢野絢也(著) 「黒い手帳裁判全記録」 「黒い手帳」 『創価学会の監視・尾行のノウハウは、昨日や今日築かれたものではない。 すでに述べた竹入義勝元委員会や山崎正友元弁護士に対する常軌を逸したパッシングのなかで、監視や尾行が日常的に行われ、その他、反学会者や脱退者に対しても監視や尾行が繰り返されてきたと聞いている。 ちなみに創価学会の組織のなかで、特に脱会者や学会批判者に対する監視・尾行などの役割を担っているのが「広宣部」と呼ばれるところとされる。 監視、尾行、嫌がらせ、ゆえなき誹謗中傷などの違法行為は学会のお家芸ともいえるほど、常套手段化している。 私の知る編集者も、公明党・創価学会がらみの書籍を担当した途端、正体不明のグループによって尾行や嫌がらせを受けたという。』 (事例4) 元公明党参議院議員 福本潤一 「創価学会・公明党 カネと品位」 『藤原(公明党議員)氏の暗殺計画があった(邪魔な部下を殺害する計画)と、2008年に発売された月刊誌『文藝春秋』8月号に、元公明党委員長の矢野絢也氏が手記に書いています。 親しかった公明党関係者が私の事務所にきて、応接間のソファで、「殺しもあるからな」という怖い言葉を吐いて帰っていかれたこともありましたが、私は政治家としての政治決断をしたのであって、心変わりすることはありませんでした。 ただ「殺しもあるからな」という言葉が頭にこびりついておりました。4月の統一地方選の時に伊藤一長(いとうかずなが)長崎市市長が選挙期間中に銃で暗殺されたばかりでした。私も防弾チョッキにあたるものを身に着けて選挙カーでの街頭演説をしました。」 (事例5) ベンジャミン・フルフォード(米経済誌フォーブス編集長) 「ケダ先生の世界 青い目の記者がみた創価学会」 『SGIの初代理事長、ジョージ・ウィリアム時代の話だ。彼の周囲に『特別警備隊』と呼ばれる男性会員から構成された グループがあったウィリアムス自身もそれを持っていた。 そして、彼らは武器を持っていた。サンタモニカのワールドカルチャーセンターには、本当に武器庫があったという。私にとっては、とても恐ろしいことだ。 SGIはフロリダに『トレーニングセンター』を持っている。ここが何に使われているか、私には分からなかった。それにしても、武器は何に使われていたのだろうか。仏教の訓えを守るために、銃を所持していたのだろうか。 (中略) 山崎元弁護士は、常に尾行されているという。彼と一緒に外を歩くと、たしかに不審な男がつけてくる。 「あの人は、私を尾行しています」 山崎がそう言うので、私がその男に、 「あなたは、尾行しているのですか?」 と、誰何したら逃げてしまった。』 ※幹部の著書はこちらで読めます。 http://cultbokumetsukonzetsu.web.fc2.com/04.html **************** 創価学会幹部が出版した「社長会記録」や「私は創価学会のスパイだった」という本には、創価学会の外郭企業の社長と池田氏が懇談したときの発言集が掲載されています。 創価学会は、この本の出版停止を求めて訴えを起しますが、裁判所で記載が事実であると認められたため、訴えは却下され、かえって著書の価値を上げる結果となりました。 それでは池田大作先生の発言集をご覧あれ。 『創価学会を離れて公明党はありえない。 もし創価学会を離れた独自の公明党があるとすれば、それは既存政党となんら変わることのない存在。 創価学会と公明党は永久に一心同体の関係。』 (池田会長全集 より) 「竹入に、今まで以上に王仏冥合。政教一致でゆけ、と云おうか。(中略)ざまあ見ろ、と云うには10年かかるな、でもやろうよ」 (第34回社長会=昭和45年5月5日) 「天下を取れることが少し私には見えて来た 。天下を取らない党なら、やる必要はない。私が控えているから心配するな」 昭和51年11月16日 「目立たないように枝を伸ばし、産業界に網の目を張りめぐらして、最後に総合商社を作って決戦だ。(中略)中曽根康弘は心配ない、こちらの小僧だ。総理大臣になりたいと云っていたので、よしよしと云っておいた。ケネディきどりだ、坊やだ」 (第6回社長会=昭和42年11月25日) 「威張りくさりやがってねェ、ほんとにブン殴って(笑い)、あのー、まぁ日顕(※日蓮正宗管長・阿部日顕上人)なんか、その(イヤな奴の)代表だっていうんだ。ほんな、針金でゆわえて、あの頭、トンカチでぶっ叩いてね。」 (青年部幹部会での池田大作発言・平成四年十二月十三日) 「青年よ、仏敵を打ち砕け。厳罰で野垂れ死ぬまで攻め抜け。」 聖教新聞より 「脱会者は自殺に追い込め」 古川利明(著) 『シンジケートとしての創価学会=公明党』より 「口八丁。手八丁でよ、なんでもうまくやるんだ。社会(党)だって方便を使っている。共産(党)だって目的のためなら皆な謀略じゃないか。一般社会だって利益のためならあらゆる手段を使う。うちは信心を守るため、学会を守るためだ」 (扶養研修所での指導=昭和51年6月1日) 「学会っ子は名前もいらない、金もいらない、身体もいらない、奴隷のように学会につかえよ。それが御本尊様につかえる事だ」 (昭和46年7月8日・社長会記録) http://erigonomi.net/pisces.html http://www.soka-news.jp/ https://torideorg.web.fc2.com/ https://ameblo.jp/worldwordpress/entry-12058738834.html

  • これってパワハラですか?かなり困ってます。(長文です)

    業界・職種未経験で転職して先月から新しい会社に入りました。規模は10人以下です。直属の上司(女性)から色々なことを言われて困ってます。 こんなことは、どこでも日常茶飯事でしょうが自分が被害者(?)となったのが初めてなので困惑もしてます。自分の性格が繊細なのも分かっていますが・・・。小規模ですので異動もできません。社長にも言いましたが具体的な対策も立ててくれません。 その上司が定年もしくは転職するまでガマンするか自分が転職という選択しか無いと思ってます。 以下は、ここ最近自分が受けたこと(一部)ですが、これってパワハラってやつなんでしょうか? もしそうだったら上司や会社に対しての対策とかはどうしたらいいんでしょうか。 正直なところ短期間での再転職はしたくないと思っていますが心身に影響が出てきているので何か良い案がありましたら、お願いします。 ・度々ちょっとしたことで指導・教育を超えた発言をされる。 ・他にも不快に思っている人物多数。 ・業務上の指導ほぼ無し。できないと恫喝。 ・業務に関係の無い不快な発言多数。 ・業務に支障がでてきている。例:恐怖心を感じる為、自分の力を発揮できない。 ・ミーティングは個人的な叱責等で終わることが多いのでミーティングの意味が無い。 ・とても不快に思っており出社に恐怖心を感じる。 7月28日 13:00~15:00頃まで。 個別ミーティングにて。 神経が細いので他者と比べて(神経が)弱い等。また26日に病院に行った件に関して「逃げるな」・「ストレスを感じてる場合じゃない」と言われる。他にも多数の人格否定発言。2時間にわたり拘束される。マネジメント放棄的な発言も。できるのに「サボっている」とも。サボってはいないが今の状況だと力を発揮するのが難しい環境。また、あまりにも理不尽な発言も多数。何も言い出せないような状況。一方的な恫喝及び叱責。

  • 国語の質問(難)

    現代の都市に暮らす人びとの心は、都市の建物、雑踏、シッソウしたり渋滞したりする自動鮮、ショウ・ウィンドウや街旅 のテレビ・スクリーンに映し出される映像、郊外住宅地の風景、携帯電話の小きなディスプレイ上の文字列、小さなイヤフォン から流れつづけるリズムやビートといったものたちのなかにトウエイされ、表象されている。それだけではない。そこに暮ら す人びとの心的生活が、そうした事物に規定され、それらを通じて現れ、それらなしにはまったく別棟のものになるであろうと いう意味で、それらの事物は、そこに暮らす人びとの心の一部なのだ。 物質が見る夢、物が抱く感情、メディアのなかの記号やイメージとともに明滅する心や感情が、都市や社会のなかで私達 を捉え、私(たち)によって生きられる。私たちが見てきたのは、そのような場としての都市や社会ではなかっただろうか。 物質が夢を見る。あるいは、心が物の中に、あるいはものを通じて現れる。こうした一見すると奇妙な物言いは、ヴアルター・ベンヤミンやマーシャル・マクルハーン、ミシェルフーコーの思考を通過したあとの社会学的思考にとっては、必ずし も奇異なことではない。 、′ たとえば都市をめぐるベンヤミンのテクストでは、商品や室内、パサージユやその内外をイロドるモードといった、十九 世紀から二十世紀はじめの都市空間に見出される端的にモノである存在群は、そこに人びとの意識が表象されるだけでなく、そ れ自体が集合的な心的現象であるかのように取り扱われる。 芸術家が作る建物からエンジニアが作る建物へ。絵画から写真へ。これらは建築やイメージを「精神」から解放していくかの ように見える。だが、実際、そのようなテクノロジーとともに現れたパサージユやプルジョワジーの室内、博能会やパノラマと いった事物が示すのは、それらの事物を生み出した人びとの意識や欲望である。そしてそれらは、単に人びとの意識や欲望を表わしているだけで ではない。そのようなテクノロジーに支えられた事物はまた、積極的に人びとの意識や欲望を駆動し、作り出す ものであり、その意味で入びとの意識や欲望の一部をなしてもいるのである。 マクルーハンは、「メディアはメッセージ」という警句的教現によって、種々のテクノロジーが社会のなかに生み出す行為や 関係のペース、スケール、パターンへの注目をカンキしただけではない。彼はまた、みずからの警句をさらにもじった「メデ ィアはマッサージ」という言葉で、そうしたテクノロジーが生み出すペース、スケール、パターンが人びとの意識や感覚に働き かけ、たとえば「活字人間」や「テレビ人間」のような、特定の思考や感覚の形式を備えた人間類型を生みだすことに注目した。 マクルーハンによれば、メディアとはそもそも「人間の拡張」を可能にするものである。活字人間やテレビ人間にとって、活字 やテレビ、そしてそれらが可能にする意味や表現やイメージの空間は、人間に外在するものでほない。それらは拡張きれた人間 の一部なのである。同じことは、鉄道、高速道路と自動車、高層ビルといった〝メディア〝についても言えるだろう。現代の都 市に暮らす私たちほ、〝鉄道人間″や〝自動車人間〝高速道路人間〝や〝高層ビル人間〝であり、私たちの意識や思考、精神は、そうした〝拡張された身体″と相関した存在でしかありえない。 また、フーコ-が監獄の誕生で示したことの一つは、監獄や教室、兵舎のような物的施設の空間内の配置が特定の運用規 則と組み合わされることで、その内部に位置づけられる人びとのなかに、「不断に自分を監視し、管理する自分」という という特異 心的メカニズムを生み出すと同時に、そのような心的メカニズムに支えられた身体間の相互関連のなかの存在へと、人間を形成 していくということであった。「身体の監獄たる精神」という監獄誕生のなかの言葉は、身体に内在する多様な運動性が精神を蝶番にして規律・訓練されていくことを示しているのだが、その精神は人びとの身体のなかにだけあるのではない。監 獄の建物に、そして教室や兵舎の建物にそうした精神が宿り、身体を攻囲しているのである。 十九芸世紀以降の都市と社会を特徴づけていることの一つは、こうした物質的であると同時に社会的な世界のなかに、高速交通や高速通信を可能にするメディアに媒介された、それまでに存在しない「場」や「地形」が生み出されていったとい うことである。 たとえば、鉄道敷設は、その沿線の空間を線状に結び付けていっただけではない。以前であれば五感によって経験されて いた移動する途中の空間が、そこでは車窓の外を飛び去っていく「風景」という像として経験されると同時に、「移動する車内」と という新たな場と、居眠りや読書、とりとめのないおしゃべりや、車内の中吊り広告をほんやり眺めるといった、新たな行為や経験の様式を作り出す。して、そのような行為や経験を通じて、鉄道路線で結ばれた駅の数珠状の鎖列を軸として国土や地域や都市をイメージする空間了解の形式が共有されていく。と同時に、通勤や通学、業務のための移動などの活動を、鉄道の運行時間にしたがって管理・調整するという、時間的・空間的な行動の管理も、日常生活を送るための必要な技術として浸透 く。それは、社会化された機械装置を軸とするものへと社会的な空間や時間が編成されて、そのような機械装置とそれに媒介さ れた空間・時間のなかで、身体の集合的な活動が編成されていくということ、それを通じて新たな質や構造をもった「場」や「社会の地形」が、社会生活の物質的な基盤であり、かつまた時空間上の広がりをもったイメージとして、成立していったというこ とである。私たちが知っている「都心」や「郊外」という場は、物質性とイメージと、そこでの人びとの行為や問係のスイコ ウを通じて編成された社会の地形のなかに現れるのであり、そのような地形のなかで固有の実定性を与えられるのである。また、映画のうな映像メディアや、電話やテレビのような電気的な通信メディア、グラビア化した雑誌のようなプリント、メディアの普及と浸透は、地理的な場とは異なる言語やイメージの伝達の場を、聴覚や視覚という物理的かつ身体的な位相で存在することを可能にすることで、新しい社会的な環境を形成していくものだった。こうしたメディアは、文字や絵画を媒体とするそれ以前のメディアに媒介された環境とは異なる遠近感、身体感覚、現前性をもつ場を、社会の中に切り開いていく。そこでは、ひとびとにとって有意味な社会の広がりが、みずからの身体の近傍に経験される広がりだけでなく、種種のメディアを通じて拡張され、自己や生活の理想的なイメージメディアもメディアを通じて日々降り注ぐファッショナブルな幻像のなかに求められるようになる。そして「経験」「結びつき」「理想的」といった言葉が意味するものも、かつてそれらの言葉が意味していたものとは異なるものへと変貌する。それはつまり、「世界」や「社会」に対する人々の了解と想像の形式が変わるということ、端的にいって「世界」や「社会」のあり方が変わってしまうということだ。都市の「境界」という伝統的には地理的空間上に見いだされる存在すら、そこではメディア媒介的な現実の位相において思考され、経験されるのである。私たちが生きる世界は、十九世紀以降に出現したこうした諸メディアが切り開く新たな物質性の次元も、その素材として取り込むとこに成立している。 映画スタジオにおいては、器械装置が現実の奥深くまで侵入しており、その程度たるや、現実の純粋な姿、器械装置という異物から解放された姿のように見えるものはある特殊な処理の産物、つまりその目的のために特別にセットされたカメラで撮影したものを、同種の他の撮影フィルムとモンタージュした結果なのである。器械装置から解放された現実の姿は、ここでそのもっとも人工的な姿となった。なまの現実の光景は、技術の国の青い花となった。ここで述べられているのは、映画というテクノロジーのなかでは、器械装置が現実の構成に深く浸透しており、最も自然に見えるものこそが器械的な技術や処理を通じて現れてくるということだ。そして、映画というテクノロジーとその表現が、大衆的な娯楽を通じてひとびとの日常的な環境の一部になっていくとき、映画をつうじて現れてくるさまざまな映像は、ひとびとにとっての現実の一部を構成していくようになることができるだろう。このとき、そうした技術に深く支えられた技術の国では、なまの現実なるものは伝説の青い花のような、決して手の届かないロマン主義的な憧れの対称という位置を、技術化された環境のなかで、夢みられるものとしてあてがわれることになる。 問題1 それらの事物は、そこに暮らす心の一部なのだとあるが、そのように言える理由として、最も適切なものを選べ。 1人々の欲望から生み出された都市の事物は、一方で人々が抱く欲望の多様性を奪う拘束となるから。 2都市の事物は、そこで暮らす人々の心の反映であるとともに、人々の欲望を現出させるものであるから。 どちらが正しいか解説お願いします。

  • 灼眼のシャナってコンテンツについて

    なんか今アニメをやっていますが。 昔もやっていて、3回目でしょうか?数えていないけど、その程度ですか。 原作がSFイラスト付文字本(ライトノベルなんて言葉は小説を愚弄すると思っていますので使いません) 10年位継続していて、800万部程度売れていると言うことで、そこそこの人気があるのかなとは思います。 私の生活や人生には1nmも影響のないどうでもいいコンテンツなんですが、いくら調べても意味がわからないので、詳しい方がいましたら教えてください。 wikiは読みましたが 世界設定 本作では現実と同様の性質をもつ「この世」と架空の異世界“紅世”(ぐぜ)とが設定され、物語は日本の架空の都市である御崎市を中心に展開する。“紅世”から渡り来た住人“紅世の徒(ぐぜのともがら)”は、人知れずこの世に存在するための根源的なエネルギー“存在の力”を人間から奪う(喰らう)。喰われた人間は元々いなかった事になり、人間を喰らうことで得た“存在の力”を使って“徒”は本来起こるはずのない出来事を引き起こす(自在式・自在法の利用)。“徒”の中でも強い力を持つ“王”たちの一部は、こうして生まれた存在の欠落や矛盾が世界のバランスを崩し、いつか決定的な破滅が起きることを危惧して人間と契約を交わし、フレイムヘイズと呼ばれる異能力者を生み出すことで、人を喰らう“徒”を討ち、この世と“紅世”のバランスを保とうと、戦いを繰り広げている。 あらすじ 御崎市で平凡な日常を過ごしていた高校生の坂井悠二は“燐子”(りんね)と呼ばれる怪物の出現と共に非日常の世界に巻き込まれ、名も無き少女と出逢った。その名も無き少女は、人知れず人を喰らう異世界人“紅世の徒”を探し討滅するフレイムヘイズの1人。彼女は、悠二が自覚のないまま死んでいることを告げ、訳あって“紅世の徒”から狙われるようになった悠二を護る様になる。そんな彼女に悠二は、彼女の大太刀『贄殿遮那(にえとののしゃな)』から「シャナ」という名前をつける。2人は反発しながらも、少しずつ惹かれ合っていく。 日本語なのか、全然理解できません。要は、なんか怪物が出てきて、ツルペタのロリコンヒロインとハーレム状態の主人公が戦うって言うのは理解できますが、いまいち間違っているかなと。 まず1つ目 この作品をわかりやすく日本語で簡潔にどんなものなのか教えてください(当方センター国語は180点程度は取れる国語の学力ありました、昔ですが) 3行程度でお願いします。 世界設定と登場人物の性質とかです。 2つ目 敵が仮想の町に現れては悪さするということですが、その目的はなんでしょうか? 田舎町一つ占領して、なんか得する事あるんでしょうか? 他の町には行かないのでしょうか? あと、襲うならなんか学校行っているらしいので、授業中に襲えば、学生に多大な被害も出るし、効果的と思いますが、なぜか放課後とか夜とかしか戦っていないようです。 寝込みでも襲えばいいと思うんですが。 敵にも営業時間あるんでしょうか? 「夜中なんて残業手当でないからヤダ」とか、週休2日はほしいとか。 アメリカとかイギリスには出ないのでしょうか? ヒロインが相手するんですから、ヒロインがいない場所で侵略計画進めれば簡単だと思うんですが。 それとも裏設定で世界各地にこういうヒロインと同じ少女がいて、同じように男を連れまわして戦っているのでしょうか? でもアマゾンの奥地とか、サハラ砂漠とかに拠点作れば、誰も邪魔しませんよね? 非常にどうでもいいことですが、人気作品の秘密が知りたいので、よろしくお願いします。 売れている作品なら、それなりの設定なりちゃんとあると思うのですが。 ただ、知りたいだけで作品を買うとか、アニメ見るとかはありません。 まぁネットに転がっている作品のエロCGをオカズに使うことはあるかもしれませんが、ツルペタは趣味じゃないんですよね。 よろしくお願いします。