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貴方はこの質問論理的に答えられますか?

飛行横は、鉄道の駅の対応物として空港をもつことになった。空港は飛行横の通過する空間と地表の接点として生じてきた。 しかし都市のさなかに入ってきた駅とちがって、空港は都市と結び付けられながら、たいてい都市からはるかに離れたところに ある。空港の建築はもはや都市建築ではなかった。空港にいると、われわれは砂漠のなかに立ったように、なにもない索漠たる 荒野のなかにいるのである。その名の示している都市を見ることはほとんどない。どちらの方角に都市があるのかきさえ分からな い。異様に孤立した場所なのである。だが現代という時代に顔をあたえている建築があるとすると、それは都市にある劇場でも、 美術館でも、官庁建築でもなく、空港ではなかろうか。そのことは空港があたらしい経験の場であり、同時に都市にあたらしい 変化をもたらすケイキであることを意味する。 空港での経験とはなにか。それは主として主体と他者の関係である。 しかしその前に空港建築について多少触れておいた方がいい。世界の大都市の空港の多くは、都市からさらに速くに移転して 改善が進み、金属とガラスを主たる素材とした、かなり巨大なハイテク建築として横たわっている。そのデザインがどうあろう と、結局は、出入国のチェック、飛行横への搭乗と降機、飛行機自体の離着陸、その整備などを中心とした、徹底的に合理化されたプログラムの現実化という機能では同じである。それだけの機能は満たさねばならないが、それ以上はなにも必要がない。 多くは空問のデザイン、レストラン、免税店などを多数用意して、なんとか居心地をよくしようとしているが、建築物のなかで もっとも機械に近い印象は免れない。われわれは、たとえば荷物が、コンピューターによってどう自動的に仕分けられていくか など、舞台裏を覗くことはないが、それでいてやはり機械のように機能する仕組みのなかを、きわめて厳密に決められた方針に したがって、自動的に行動させられていることには気がついでしまうのである。 空港での経験は、孤独の軽みとも、自由とも、完全に拘束された状態ともいえる。いくつかの経験が重なっているのだ。われ われの出会うのは見知らぬ人びとばかりである。 トランジットの長い待ち時間、たまたま隣に腰掛けた他の国の人びととそ のとき限りではあるが会話を交わす。しかも彼または彼女の旅が彼らの人生のどんな瞬間なのか、どんな目的でどこへ行くのか については詮索もしないし、まったく無関心でいられるのである。彼らは彼らなのである。完全な他者性。こうしてたまたま道 ですれ違う以上の他者、言葉も違う人びとと、双方の知っている言葉で交差してみるのである。多分、二度と会うことはなかろ う。われわれは、自分の慣れ親しんでいる世界とは異質な世界との接触を繰り返し経験する。彼らのことを私は知らない ー だが知らないとはどういうことか。 われわれは二つの経験をしている。ひとつは他者と主体についての経験である。他者はわれわれの日に透明な存在なのか、あ るいは反対にまったく不透明な存在なのかと絶え間なく自分に問いかけながら、こうした他者との接触を反復しているのである。 それは主体の経験にはねかえってくる。というのはわれわれ自身の方も、そのとさ自分がなにものであるかを主張しないばかりか、 自分の職業も、社会で占めている役割も諸関係もまったく無意味になる。ほとんど裸になっているのである。孤独かつ自由にな るとは、だれからも見られないことではなく、社会性をはぎとった裸の人間になってしまうことかもしれない。 第二の大きな経験として、われわれは異様な権力空間を経験しているのである。ここは一体どんな場所なのか。われわれはパ スポートを見せて国外に出ている。もちろんわれわれはパスポートを検査され、普通、国内にいるときには感じない国籍をあら ためて実感している。 パスポート・コントロールを通ったあとの人間の経験は、これまで味わったことのない政治空間の経 験なのである。空港は、どこにも属していないように見えて、その実、こうした自由を無化する権力の空間なのである。そこは どこでもないのに、イゼンとして権力の管理下にあるのを感じないではいられない。国家から解放されてまったくの自由であ るようでいながら、われわれはこのときほど、われわれをカンシする権力の働きのなかに拘束されていることはない。われわ れになにができるのか。ただ持つだけであり、一定の場所以外には踏み込むこともできない。いかなる自由も奪われ、権力に閉 じ込められている存在なのである。だが一体、だれの権力なのか。それは完全に国家に属しているとはいえず、だれのものでもない権力であり、いわばゼロの権力といっていいようなものなのである。たしかにそこにはまだ僅かながら ネーション・ス テートが残っている。 またネ-ションは、こうしたゼロとのどんな関係のなかにあるのであろうか。言い換えるなら空港とは、ゼロに限りなく近い空間である。われわれは主体と他者にかんしても、権力にかんしても、ゼロを掠めるように経験しているのである。われわれはこの主体と権力の関係を追求する必要に迫られるのである。一方でかつて ミッシェル・フーコーが論じてみせたように、主体を産出した権力をようやく理解すると同時に、権力の生み出すフーコー 的な主体化の論理をこぼれる主体の可能性をほんやりと感じているのである。フーコーの権力翰が近代社会の形成にかかわると すれば、 いま見ている主体は、近代社会をはみだしている。それがどんな社会かを言うことはできないが、主体がゼロである ことを感じることは、なんらかの兆候であった。飛行機の旅で唯一実感するのは、時差による異常によってほじめて知る身体で ある。われわれは身体を、今や、巨大な地球規模の空間と時間の間際で味わう経験との関係でコウサツしなければならなくなっ たのである。 空港とはこうしてゼロを経験する、これまでは現実にはなかった空間である。ところがこのゼロは、生産力とまでは言わない ものの、ある種の生産力、変容の能力をもっているのである。 飛行機による旅の簡略化によって、多くの人びとの旅が変質していった。都市は直接的でないにしても、きわめて容易に他の 都市と接続するようになっていったのである。こうした世界の都市をあたらしい関係に編成しなおす力の根底にあるものを問い 詰めれば、空港で感じ取っているゼロと同じものではなかろうか。そこになんらかの実体的な力の源泉を想定しても見つからな い。つまりこれまで 普遍空間と呼んできた理念とは、こうした意味でのゼロに近いのではないのか。そしてそのゼロの生み だす余剰に、われわれは身体や主体のありようを見いだそうとしているのではないのか。 あらゆる空港が都市と異様に速いことも、これと関係がある。それは今のところ、都市と航路の接点であり、都市への交通機関を整備する必要があり、直接に都市の構造に割って入らないまでも、都市の付属施放と考えられている。しかし日常の生活か ら離れたエアポートつまりゼロの空間を介してしか、都市がもはや他の都市との関係をもちえなくなったことは、都市が現在の 姿のままでも連合してあたらしい集合をつくることになっていく可能性を示している。したがってこれまでなら、都市と都市のあいだの田舎、農村、地方都市、さらに無人地帯としてあったものも、こうした連合のなかにホウガンされることになる。こ れは都市的なものから想定される都市というより、すでに ポスト・アーバン社会という集合体であって、その意味では都市 はもはや都市ではありえない時代が近づいている。 飛行機の旅では、ある都市から都市への移動において、「領土」の経験が失われてしまった。鉄道がいやでも国境を通過し、 したがって版図を知覚するのにたいして、飛行機の旅にはそれがない。確定した領土こそ国民団家の基盤であり、現在のわれわ れが惰性的にもっている都市の概念の底に、まだネーション・ステートが潜在していることを考えると、空港を経由する旅は、 布かち、いわば政治的、歴史的基盤を取り除く経験ではないか。想像的意識のなかでは、国家よりも上にいくつかの都市が 集合した状態を世界として知覚しはじめる感受性が育ちつつあるのは、こうしたエアポートの経験のせいではないのか。 いまや都市はその自立性以上に、世界化の力に動かされているが、その力が端的に表現できているのはエアポートのゼロの空 にほかならないのである。 この文章をよんだのですが、非常に読みにくく何を言っているのかまったく理解できません。できれば、ようやくと筆者のいいたいことを教えてほしいです。 問題 それは主体の経験に跳ね返ってくるとあるが、その具体的な説明として最も適切なものを選べ。 1空港における未知なる他者がどのような同一性を有しているかを探る反復的な接触は、一過性のゆえに互いの無関心に収束し、主体は自己の同一性の拘泥する必要から解放されるということ。 2空間で出会う人間の同一性は意味を持たないものであり、またその同一性は関心の対象でないため、そのような他者との接触は主体を社会的な役割から離脱した存在に還元してしまうということ。 問題 時差による以上によってはじめる身体とあるが、このことの言い換えになっている表現を本文から十字以内で抜出しで答えよ。 問題 現代という時代に顔を与えているという、筆者の空港についての考え方とは対照的な空港の意味つけが述べられた部分を七字で抜出しで答えよ。 かなりハイレベルな文章です。どなたか問題の解説お願いします

  • luut
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質問者が選んだベストアンサー

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  • hakobulu
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回答No.9

#8です。 一部記述の順序を修正します。 × 「透明な存在なのか不透明な存在なのか」というのは、 確固とした個性を持った一個人であるのか、あたかも透明人間であるかのような無個性な存在であるのか、といったような意味。 ○「透明な存在なのか不透明な存在なのか」というのは、 あたかも透明人間であるかのような無個性な存在であるのか、(あるいは)確固とした個性を持った一個人であるのか、といったような意味。

その他の回答 (8)

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.8

問題1 それは主体の経験に跳ね返ってくるとあるが、その具体的な説明として最も適切なものを選べ。 <解答> 2空港で出会う人間の同一性は意味を持たないものであり、またその同一性は関心の対象でないため、そのような他者との接触は主体を社会的な役割から離脱した存在に還元してしまうということ。 <解説> まず、設問文の「それ」とは何かを考えると、直前の内容である、 「他者はわれわれの目に透明な存在なのか、あるいは反対にまったく不透明な存在なのかと絶え間なく自分に問いかけながら、こうした他者との接触を反復していること」 であることがわかります。 「透明な存在なのか不透明な存在なのか」というのは、 確固とした個性を持った一個人であるのか、あたかも透明人間であるかのような無個性な存在であるのか、といったような意味。 そして、「完全な他者性」という言葉が文中にあるように、われわれは透明な人間として他者を感じているのだと筆者は述べていることになるでしょう。 視線が他者に向けられていることになりますが、それは他者だけの問題ではなく自分である主体にも同様の問題があることになる、というのが「それは主体の経験に跳ね返ってくる」の意味です。 そして、 「というのはわれわれ自身の方も、そのとき自分がなにものであるかを主張しないばかりか、 自分の職業も、社会で占めている役割も諸関係もまったく無意味になる。ほとんど裸になっているのである」 とその内容を説明しています。 つまり、他者が透明な存在であるように、そのように認識する主体としての自分もまた透明な(無個性の)存在なのだ、と言っていることになります。 透明・無個性とは、通常われわれが持っている様々な社会的な役割など、たとえば○会社の社長・○さんの父・A高校の先生・Bの友人などなど、その人がその人である社会的根拠といったような事柄は一切無意味なものとして認識される、ということです。 「その人がその人である社会的根拠」とは、自己同一性いわゆるアイデンティティと呼ばれるもので、これが解答文の「同一性」とほぼ同じ意味と考えてよいでしょう。 さらに、 「自分の職業も、社会で占めている役割も諸関係もまったく無意味になる。⇒空港で出会う人間の同一性は意味を持たない」 「ほとんど裸になっている⇒主体を社会的な役割から離脱した存在に還元してしまう」 などを対照させても、2が正解であることがわかります。 問題2 時差による異常によってはじめて知る身体とあるが、このことの言い換えになっている表現を本文から十字以内で抜出しで答えよ。 <解答> 主体がゼロであること <解説> 続く文章が「~のである」で終わっているので、 「時差による異常によってほじめて知る身体であること」 の理由説明であることがわかります。 「われわれは身体を、今や、巨大な地球規模の空間と時間の間際で味わう経験との関係でコウサツしなければならなくなったのである。」 という内容です。 筆者は「地球規模の空間と時間の間際で味わう経験との関係」によって「時差による異常が発生する」と考えていることになります。 では、「地球規模の空間と時間の間際で味わう経験」とは何かと言えば、時差による異常を発生させるような経験、つまり、(当然日付変更線を超えて)地域を移動したにも拘わらず時間は進んでいない、といったような経験を指すことになるでしょう。 続く「空港とはこうしてゼロを経験する、これまでは現実にはなかった空間である」という記述から、 「地域を移動したにも拘わらず時間は進んでいない」といったような経験、つまり、 「時差による異常が発生するような経験」を経験をゼロの経験、と呼んでいることがわかります。 空間的に自分は移動したのだが時間的には変化が起こっておらず、つまり時間的には出発点に立ち戻ってしまったわけで、移動したという自分の経験は無かったも同然であるという認識も可能になる。 (空間的な)変化はあるのに(時間的な)変化は無い。 このような主体としての自分とは一体何であるのか、という原点に立ち返らざるを得ない、といった意味でのゼロなのでしょう。 よって、「時差による異常によってほじめて知る身体」とは「主体がゼロであること」を指していることになります。 問題3 現代という時代に顔を与えているという、筆者の空港についての考え方とは対照的な空港の意味つけが述べられた部分を七字で抜出しで答えよ。 <解答> 都市の付属施放 <解説> 「顔を与える」とは、代表的な価値を与えるといった意味になります。 対照的な意味としては空港を重要視していない表現を探せば良いので、「都市の付属施設」が最も適当でしょう。 「顔を与える」と「付属施設」の出現箇所が離れているので、じっくり読む必要がありますが、他の2問に比べて難しくはないでしょう。   

luut
質問者

お礼

解説有難う御座います。

  • rkd4050
  • ベストアンサー率60% (112/184)
回答No.7

 あ。問3は七字きっちりですか。それなら「都市の付属施設」しかないですね。誤字脱字が多いので見落としていた。七字以内だと変な候補がいくつか出てきてしまうので、七字ちょうどで間違いないでしょう。 「時代に顔を与えている」の反対は「時代に顔を与えていない」で、それを「(単なる)都市の付属施設」とする回答ですか。字数制限の関係で他に余地がないですが、すっきりしないやり口ではありますね。まあ、それが現国の問題というものなのですが。意地悪な問題を作らないと、みんな正解しますからね。  となると、要約も修正する必要がありますね。 「都市の日常とは遠く離れた空港が都市の所属物とみなされることによって、同じく都市と離れた田舎や地方都市、無人地帯までもを巻き込んだ、新たな集合が生まれる可能性を秘めている」  ではなく、 「都市の日常とは遠く離れた空港を介してしか都市間の関係を持ち得なくなったことは、都市と都市との間(つまり空港と都市の間)にある田舎や地方都市、無人地帯までもを含んだ、新たな集合が生まれる可能性を秘めている」  とするべきでしょう。

noname#208901
noname#208901
回答No.6

#4です。 最後の答え修正しておきながら間違えました。 都市の付属施設ですね。付属設備ではありません。 問1の回答で、私は1としました。他の方はみな2と してますね。で、私も2にしたくなってきました。 ずるいですが理由があります。 それは主体の経験にはねかえってくる。 そのときの、「それ」に目が言ってませんでした。 え。確か私自分で問題よく読んでって言ったのに^^ それとは、~の接触のことですね。なのに 自分の回答では、そういうことを否定するような 文章にしてしまいました。 したがって後からでかっこ悪すぎますが、2 の方に80%票INです。 訂正ついでに2.! みなさん許してください。 これで1番が正解だったりして^^

  • phj
  • ベストアンサー率52% (2344/4489)
回答No.5

問題1の答えは、 2空間で出会う人間の同一性は意味を持たないものであり、またその同一性は関心の対象でないため、そのような他者との接触は主体を社会的な役割から離脱した存在に還元してしまうということ。 参照文章 「ひとつは他者と主体についての経験である。他者はわれわれの日に透明な存在なのか、あるいは反対にまったく不透明な存在なのかと絶え間なく自分に問いかけながら、こうした他者との接触を反復しているのである。それは主体の経験にはねかえってくる。というのはわれわれ自身の方も、そのとき自分がなにものであるかを主張しないばかりか、自分の職業も、社会で占めている役割も諸関係もまったく無意味になる。ほとんど裸になっているのである。孤独かつ自由になるとは、だれからも見られないことではなく、社会性をはぎとった裸の人間になってしまうことかもしれない。」 「社会性をはぎとった裸の人間になってしまう」=「主体を社会的な役割から離脱した存在に還元してしまう」という部分が同じことを表しているので、答えは2 問題 時差による異常によってはじめて知る身体とあるが、このことの言い換えになっている表現を本文から十字以内で抜出しで答えよ。 答え「主体がゼロであること」 時差により、日常では感じることの出来ない違和感(通常ならありえない時間と空間の分断)は「知覚する人間」という主体に対して強制力を生じ、主体がどこであろうとも「主体」でありながら、時間的・空間的接続は飛行機によって断たれる、という「わたしはここにいるのに、誰でもない(そこにいる人々は誰も私を知らない)」という意味を「はじめて知る身体」=「主体がゼロ」という表現で表している。 *詳細は全文解説で、、 問題 現代という時代に顔を与えているという、筆者の空港についての考え方とは対照的な空港の意味つけが述べられた部分を七字で抜出しで答えよ。 答え「都市の付属施放」 筆者は「エアポートのゼロの空」と捕らえ時間的・空間的・政治的・経済的など人間の知覚として与えられるテーマ(またはテーゼ)の特異点として存在すると考えている。しかし、一般的に空港は、場所が都市から離れた場所にあったとしても都市の一機能であり、駅や高層ビルなどと同様に「当然に存在しうる、都市の付帯設備、と認識されている」ということ。 全文解説 この文章は、空港を人間生活・または人間の知覚、という範囲において今までの駅やその他のものと比べて「特異」であると考えている。 文章の初段において筆者は「空港は都市と結び付けられながら、たいてい都市からはるかに離れたところにある。」と書くことで「都市機能の一つ、近代から現代への都市及び社会の発展において必要な都市機能であるのに、都市とは切り離された場所に切り離された建物して存在している」と表現している。 その空港は同時に「人間の知覚」にも影響を及ぼし、日常ならいつも使う駅の駅員・帰りの通るコンビニの店員・近くに住む恩師・隣のうるさいおばちゃん、など「自分を知っている」=「相手のことも知っている」という相互の主体がまったく切り離された「完全に他人な主体同士」が集合している場所だという(通常、人間の集合・集団とは社会のことを言うが、空港での集合は社会ではない) また、社会ではない集合の集まりである空港においても、社会の機能として存在する「権力」を感じることができるという矛盾を筆者は指摘する。  パスポート・コントロールをすぎればそこは「どこでの国でもない」はずなのに、出国したはずの国家(文中ではネーション)の意思と権力感じ、また事実出国した場所も空港内であり、自由意志でどこかに行くことは出来ない「権力に閉じ込められている」状態を経験するのである。 ゆえに「空港」とは己(主体としての自分)が「誰でもない存在」になるところであり、権力の主体がその権力の外に出た主体たちをそこはかとなく拘束している「権力の微妙な空白地帯」であり、空港そのもの(空港の建物やそのデザインと機能が)主体たちに「あらかじめ空港のプログラムに沿った行動」を促すことで、人間という主体が持つ「自由意志」が剥奪される異様な空間である、とこのことを「ゼロに限りなく近い空間」という表現で筆者は説いていく。 しかし「ゼロに限りなく近い空間」であるがゆえに、主体の(人間の)知覚も研ぎ澄まされ影響を受けざるを得ない。筆者はこれを「空港とはこうしてゼロを経験する、これまでは現実にはなかった空間である。ところがこのゼロは、生産力とまでは言わないものの、ある種の生産力、変容の能力をもっているのである。」と表現している。 最後に「ゼロの経験」が人間社会に与えつつある影響を筆者は考えていく。 そして筆者は、「あらゆる空港が都市と異様に遠いこと」を引き合いに出し「都市がもはや(空港を介してしか)他の都市との関係をもちえなくなったこと」を挙げて、都市そのものの拡張と、都市と空港の間にある、郊外・農村・無人地帯などが「大都市圏」として包括されていくことを想定していく。 また筆者は「空港と飛行機の旅というは「ある都市から都市への移動において、「領土」の経験が失われて」しまう経験であり、国家(文中ではネーション)という意識を空港で感じたそこはかとない「ゼロ感」とともに、国家無き「都市の集合体」としての人類社会の変容への感受性に期待を寄せる。 つまり「いまや都市はその自立性以上に、世界化の力に動かされているが、その力が端的に表現できているのはエアポートのゼロの空にほかならないのである」 というのは、空港のもつ特異性(相対的なゼロ化)と都市の一機能でありながら遠い場所にある空港という「都市機能の拡張(大都市圏化)」、さらには飛行機という点と点を結ぶ体験が領土も、鉄道などで感じる時間と空間の知覚も取り去り、世界中の都市が「都市そのものの社会機能や自立性」から離脱し、国家を飛び越えて「世界」という枠組みに取り込まれつつあるのではないか、というのが、筆者の一番言いたい事なのである。 予備知識として「都市」というのはもともと「周辺を含むことで機能する主体」であったわけで、それが空港と飛行機により、まるで東京・ニューヨーク・ロンドンとドアツードアのような錯覚を起こしかねない現在の技術は、間にある地方都市も海も国境も飛び越えて、国家の意識を希薄にしつつ人々が(つまり各主体が)「国家よりも上にいくつかの都市が集合した状態を世界として知覚しはじめ」ているのではないか、というのが筆者の言いたいことです。

noname#208901
noname#208901
回答No.4

全体のエッセンス。 新しい「都市」とは、「空」にある。 無数の国々が、空港を介して結びつき、その上で人々は、{無意識ながらも) 社会というものを成り立たせようとしている。「空」には国境はない。誰が治めて いるのかもわからない。社会的な役割もない。社会自体がない。 そうした「ゼロ」の空間に我々は生きている。しかし我々がその「空」から 「陸」に帰る時、権力の元にいることに気づかされる。その空港の場にこそ、 わずかに「ネーション・ステート」を感じるのだ。 そうした「空」という場所を介して、どんなに離れた国であれど、 「空港」により接続されてしまえば、そこには「連合」ができ 上がる可能性が生まれてくる。逆に言えば、「空港」を介して しか、他の都市と結びつけなくなっているのであるから、 その間に橋を築いたりすることなく、そのままの姿で お互いが「連合」の関係にあるという可能性も生まれてくる。 エアポートの発展のために、「領土」という概念は薄れてきている。 鉄道は、嫌がおうにも、国境を超えるということを知覚させられた ものではあるが空にはそれがない。 「国民国家の基盤」は、「確定した領土」によってこそ 成り立つものであるが、それがために 空港はそれを取り除く作用をもつものではないか。 新しい世界が出来上がるとすれば、その舞台となるのは、 「空」の舞台と同じ感覚に支配された場所にこそ、成立 するのではないだろうか。 問1 「それは主体にそのまま跳ね返ってくる」とあるが 問題文をよく読んでください。難しいですねぇ。 1も2もなんか正解に見えちゃいますし。 ここで問題文の中に、同一性という言葉が使われています。 これは本文にはない言葉です。どういう意味かというと、 「完全な他者性」つまり、「他者性」に対比されている言葉 です。 また、自分の目にとって、「透明」か「不透明」か。同一だと 「透明」だし、他者だと「不透明」です。同一かどうかを 反復して確認していると筆者は述べています。 これはおわかりですよね?自分と(完全に)同一だと、 透き通って見える。と表現しているのです。つまり それほど明らかにわかる。(完全に)他者だと不透明です。 これを言い当てているのが、問題1番の最初の文章ですね。 これ自体に間違いはありません。 次に大切なのは、人間の同一性は、意味を持たないのか 持つのか。持たないとすれば2番が正解を含んでいます。 しかしこれは違うと思います。なぜなら、同一性を持つから、 自分の目にとって「透明」か「不透明」かを反復して調べよう とするからですね。 またこういう文章もあります。自分の職業も、社会で占めている 役割も諸関係もまったく無意味になる。ほとんど裸になっているの である。それ自体は意味があるのだが、一過性のもの、すぐに 居なくなる存在であるから、他者との関係なんてどうでもいいもん だということです。 そして、他者との関係なんてどうでもいいということは、すなわち、 自分から自分というものを他者に伝えることも、意味がないという ことになり、これが「自分に跳ね返ってくる」ということの意味です。 これを言い当てているのは1だと思うのですが、正直 心が30%以上2にも残っています。逃げの回答ですね。 ただ、同一性は関心の対象ではない。と、最初から結果を言いきって いるところに疑問を感じます。同一性自体に意味があるのだけれど 結果としてそれを知ろうとする行動に意味がない。あるとわかっても すぐに別れる運命なのだから。だから無関心なのだと。 そして、他者との接触が自分を社会から離脱した状態に還元 するのではなくて、その、空港という空間自体がそういう状態 にさせてしまっているのです。 ただ、難しくさせているのが、自分に跳ね返ってくるという表現と、 接触が、私を還元するという表現とマッチしているように感じる ことですね。なるほど、接触しようとした、しかし、社会的な地位や 立場なんてなんも意味がないんだな。と思った。だから完全に 間違いだともいえそうにない。 もし2番が正解だったらすいません。私は1番だと思います。 問2 「時差による異常によってはじめて知る身体」の言い換え ですね。筆者はその前に、「主体がゼロであることを感じる」しかし 唯一そうでないのは、↑の時差の異常を体が始めて知る時だ。」 と言っています。 つまり、時差による異常によって初めて知る身体とは、主体が ゼロでないこと。を言い換えていると言えます。 それに当たる文章を探すことが答えだと思います。 候補は、「ゼロの生み出す余剰」ですね。 文章を進めていくと、これに当たります。 なぜなら、まず「ゼロ」の空間があります。ここでは 人間は主体と言う者を感じることができません。 それは「空」にいる自分のことですよね? でも、時差による異常によって初めて知る身体が、 それの例外であると。」 これが主体が感じる異質です。つまり、ゼロではない ものですね。 他にも、ゼロの生み出す余剰に、我々は、身体や主体の 在り方を見出そうとしているのではないか? 言い換えれば、ゼロというものがあり、そこで時差による 異常を知る。それにより主体があると初めて感じる。 つまり、ゼロによって生み出された余剰です。 多分の回答2 「ゼロの生み出す余剰」 問3「現代という時代に顔を与えている」つまり、 それが筆者の意見だと、空港でした。そして 対照的な意味づけではあるにしても、それは 空港の意味付けで、空港と対比されている鉄道が 答えではない事はあきらかです。 筆者にとっては、空港とは、「空」自主性をゼロにする 橋渡しであり、各国の間接である。非常に重要な ものであり、新時代の社会の礎であり、表現は 不適切かもしれませんが、何となくそういうことをいって いますね。 しかし、そうでない空港と言うのは、単なる都市の 一機能としての空港でしたよね? そして、ゼロに極めて近い場所の、反対、最もゼロから 遠い場所としての空港です。 すなわち、「都市の付属施放」です。これって 放は設之間違いではないでしょうか? そうだとすると、都市の付属設備です。 少なくとも理解に近づけるための一撃を与えることは できたのではないでしょうか。もしいい反応がお返し いただければとてもうれしい限りです。では 頑張ってください。

  • rkd4050
  • ベストアンサー率60% (112/184)
回答No.3

問1 答2 「主体の経験にはねかえってくる」の説明は、直後の「というのは」から始まる。その部分を要約すれば「社会性をはぎ取られて裸の人間になる」と書かれている。  選択肢1と2の違いは、「自己の同一性の拘泥する必要から解放される」のか、「主体を社会的な役割から離脱した存在に還元してしまう」のかの差。  選択肢1の「拘泥する必要から解放される」に対応する内容はどこにも書かれていないので、消去法で2が正解(国語の試験用語で言う「過剰」タイプ。余計なことを書きすぎているため間違い)。 問2 答「主体がゼロであること」  問題の前後を読めば「主体が近代社会をはみ出している=主体がゼロであることを感じる=時差による異常によってはじめて知る身体」と言い換えられているのがわかる。あとはこの辺から十文字以内で抜き出せるものを探す。  言い換え問題なので、答えを代入してまあまあ自然な文になればいい。「飛行機の旅で唯一実感するのは、主体がゼロであることである」となる。「ある」が二回続くので文章としては不格好だが、意味の通る文章になることが確認できる。自由に書いていいなら「主体が近代社会をはみ出していること」とでも答えたいところ。 問3 答「索漠たる荒野」 「現代という時代に顔をあたえている」の直前に「だが」と付いているのに注目。つまり、直前の文章に答えがある、ということ。  読んでみると「空港は砂漠のように孤立している」といった意味のことが書かれている。あとは7文字以内でそれを一口に表現できる言葉を探すだけ。  これらの問いに答えるだけなら、全部読む必要はありません。部分的に理解すればOK。  内容の要約は以下の通り。  空港は、都市間を素早く結び、かつ都市から離れている場所にあるがゆえに、人から地位や職業といった社会性をはぎ取り、国家の権力の所在を失わせる力がある。  また、都市間の移動を簡略化することによって都市間の関係を再編成し、都市の日常とは遠く離れた空港が都市の所属物とみなされることによって、同じく都市と離れた田舎や地方都市、無人地帯までもを巻き込んだ、新たな集合が生まれる可能性を秘めている。  空港の影響によって、都市は世界化への力に動かされているのである。  まあつまり、空港はお国柄や民族性、権力の所在を無化する力があると同時に、国家間のお付き合いとは別の次元で、遠く離れた都市どうし、もしくは都市とその周辺との関係を変化させる力がある、と言っているわけです。

noname#154391
noname#154391
回答No.2

http://okwave.jp/qa/q7187144.html ↑この質問に対する回答であってるかと。

  • yvfr
  • ベストアンサー率17% (144/815)
回答No.1

「飛行横」という言葉の意味がわからない ググってもヒットしないし

luut
質問者

補足

飛行機です。かなりハイレベルな質問ですから、難しいとおもいますが、答えてほしいです

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    飛行横は、鉄道の駅の対応物として空港をもつことになった。空港は飛行横の通過する空間と地表の接点として生じてきた。 しかし都市のさなかに入ってきた駅とちがって、空港は都市と結び付けられながら、たいてい都市からはるかに離れたところに ある。空港の建築はもはや都市建築ではなかった。空港にいると、われわれは砂漠のなかに立ったように、なにもない索漠たる 荒野のなかにいるのである。その名の示している都市を見ることはほとんどない。どちらの方角に都市があるのかきさえ分からな い。異様に孤立した場所なのである。だが現代という時代に顔をあたえている建築があるとすると、それは都市にある劇場でも、 美術館でも、官庁建築でもなく、空港ではなかろうか。そのことは空港があたらしい経験の場であり、同時に都市にあたらしい 変化をもたらすケイキであることを意味する。 空港での経験とはなにか。それは主として主体と他者の関係である。 しかしその前に空港建築について多少触れておいた方がいい。世界の大都市の空港の多くは、都市からさらに速くに移転して 改善が進み、金属とガラスを主たる素材とした、かなり巨大なハイテク建築として横たわっている。そのデザインがどうあろう と、結局は、出入国のチェック、飛行横への搭乗と降機、飛行機自体の離着陸、その整備などを中心とした、徹底的に合理化されたプログラムの現実化という機能では同じである。それだけの機能は満たさねばならないが、それ以上はなにも必要がない。 多くは空問のデザイン、レストラン、免税店などを多数用意して、なんとか居心地をよくしようとしているが、建築物のなかで もっとも機械に近い印象は免れない。われわれは、たとえば荷物が、コンピューターによってどう自動的に仕分けられていくか など、舞台裏を覗くことはないが、それでいてやはり機械のように機能する仕組みのなかを、きわめて厳密に決められた方針に したがって、自動的に行動させられていることには気がついでしまうのである。 空港での経験は、孤独の軽みとも、自由とも、完全に拘束された状態ともいえる。いくつかの経験が重なっているのだ。われ われの出会うのは見知らぬ人びとばかりである。 トランジットの長い待ち時間、たまたま隣に腰掛けた他の国の人びととそ のとき限りではあるが会話を交わす。しかも彼または彼女の旅が彼らの人生のどんな瞬間なのか、どんな目的でどこへ行くのか については詮索もしないし、まったく無関心でいられるのである。彼らは彼らなのである。完全な他者性。こうしてたまたま道 ですれ違う以上の他者、言葉も違う人びとと、双方の知っている言葉で交差してみるのである。多分、二度と会うことはなかろ う。われわれは、自分の慣れ親しんでいる世界とは異質な世界との接触を繰り返し経験する。彼らのことを私は知らない ー だが知らないとはどういうことか。 われわれは二つの経験をしている。ひとつは他者と主体についての経験である。他者はわれわれの日に透明な存在なのか、あ るいは反対にまったく不透明な存在なのかと絶え間なく自分に問いかけながら、こうした他者との接触を反復しているのである。 それは主体の経験にはねかえってくる。というのはわれわれ自身の方も、そのとさ自分がなにものであるかを主張しないばかりか、 自分の職業も、社会で占めている役割も諸関係もまったく無意味になる。ほとんど裸になっているのである。孤独かつ自由にな るとは、だれからも見られないことではなく、社会性をはぎとった裸の人間になってしまうことかもしれない。 第二の大きな経験として、われわれは異様な権力空間を経験しているのである。ここは一体どんな場所なのか。われわれはパ スポートを見せて国外に出ている。もちろんわれわれはパスポートを検査され、普通、国内にいるときには感じない国籍をあら ためて実感している。 パスポート・コントロールを通ったあとの人間の経験は、これまで味わったことのない政治空間の経 験なのである。空港は、どこにも属していないように見えて、その実、こうした自由を無化する権力の空間なのである。そこは どこでもないのに、イゼンとして権力の管理下にあるのを感じないではいられない。国家から解放されてまったくの自由であ るようでいながら、われわれはこのときほど、われわれをカンシする権力の働きのなかに拘束されていることはない。われわ れになにができるのか。ただ持つだけであり、一定の場所以外には踏み込むこともできない。いかなる自由も奪われ、権力に閉 じ込められている存在なのである。だが一体、だれの権力なのか。それは完全に国家に属しているとはいえず、だれのものでもない権力であり、いわばゼロの権力といっていいようなものなのである。たしかにそこにはまだ僅かながら ネーション・ス テートが残っている。 またネ-ションは、こうしたゼロとのどんな関係のなかにあるのであろうか。言い換えるなら空港とは、ゼロに限りなく近い空間である。われわれは主体と他者にかんしても、権力にかんしても、ゼロを掠めるように経験しているのである。われわれはこの主体と権力の関係を追求する必要に迫られるのである。一方でかつて ミッシェル・フーコーが論じてみせたように、主体を産出した権力をようやく理解すると同時に、権力の生み出すフーコー 的な主体化の論理をこぼれる主体の可能性をほんやりと感じているのである。フーコーの権力翰が近代社会の形成にかかわると すれば、 いま見ている主体は、近代社会をはみだしている。それがどんな社会かを言うことはできないが、主体がゼロである ことを感じることは、なんらかの兆候であった。飛行機の旅で唯一実感するのは、時差による異常によってほじめて知る身体で ある。われわれは身体を、今や、巨大な地球規模の空間と時間の間際で味わう経験との関係でコウサツしなければならなくなっ たのである。 空港とはこうしてゼロを経験する、これまでは現実にはなかった空間である。ところがこのゼロは、生産力とまでは言わない ものの、ある種の生産力、変容の能力をもっているのである。 飛行機による旅の簡略化によって、多くの人びとの旅が変質していった。都市は直接的でないにしても、きわめて容易に他の 都市と接続するようになっていったのである。こうした世界の都市をあたらしい関係に編成しなおす力の根底にあるものを問い 詰めれば、空港で感じ取っているゼロと同じものではなかろうか。そこになんらかの実体的な力の源泉を想定しても見つからな い。つまりこれまで 普遍空間と呼んできた理念とは、こうした意味でのゼロに近いのではないのか。そしてそのゼロの生み だす余剰に、われわれは身体や主体のありようを見いだそうとしているのではないのか。 あらゆる空港が都市と異様に速いことも、これと関係がある。それは今のところ、都市と航路の接点であり、都市への交通機関を整備する必要があり、直接に都市の構造に割って入らないまでも、都市の付属施放と考えられている。しかし日常の生活か ら離れたエアポートつまりゼロの空間を介してしか、都市がもはや他の都市との関係をもちえなくなったことは、都市が現在の 姿のままでも連合してあたらしい集合をつくることになっていく可能性を示している。したがってこれまでなら、都市と都市のあいだの田舎、農村、地方都市、さらに無人地帯としてあったものも、こうした連合のなかにホウガンされることになる。こ れは都市的なものから想定される都市というより、すでに ポスト・アーバン社会という集合体であって、その意味では都市 はもはや都市ではありえない時代が近づいている。 飛行機の旅では、ある都市から都市への移動において、「領土」の経験が失われてしまった。鉄道がいやでも国境を通過し、 したがって版図を知覚するのにたいして、飛行機の旅にはそれがない。確定した領土こそ国民団家の基盤であり、現在のわれわ れが惰性的にもっている都市の概念の底に、まだネーション・ステートが潜在していることを考えると、空港を経由する旅は、 布かち、いわば政治的、歴史的基盤を取り除く経験ではないか。想像的意識のなかでは、国家よりも上にいくつかの都市が 集合した状態を世界として知覚しはじめる感受性が育ちつつあるのは、こうしたエアポートの経験のせいではないのか。 いまや都市はその自立性以上に、世界化の力に動かされているが、その力が端的に表現できているのはエアポートのゼロの空 にほかならないのである。 この文章をよんだのですが、非常に読みにくく何を言っているのかまったく理解できません。できれば、ようやくと筆者のいいたいことを教えてほしいです。 問題 それは主体の経験に跳ね返ってくるとあるが、その具体的な説明として最も適切なものを選べ。 1空港における未知なる他者がどのような同一性を有しているかを探る反復的な接触は、一過性のゆえに互いの無関心に収束し、主体は自己の同一性の拘泥する必要から解放されるということ。 2空間で出会う人間の同一性は意味を持たないものであり、またその同一性は関心の対象でないため、そのような他者との接触は主体を社会的な役割から離脱した存在に還元してしまうということ。 問題 時差による以上によってはじめる身体とあるが、このことの言い換えになっている表現を本文から十字以内で抜出しで答えよ。 問題 現代という時代に顔を与えているという、筆者の空港についての考え方とは対照的な空港の意味つけが述べられた部分を七字で抜出しで答えよ。 かなりハイレベルな文章です。どなたか問題の解説お願いします

  • 難解な文章2

    飛行横は、鉄道の駅の対応物として空港をもつことになった。空港は飛行横の通過する空間と地表の接点として生じてきた。 しかし都市のさなかに入ってきた駅とちがって、空港は都市と結び付けられながら、たいてい都市からはるかに離れたところに ある。空港の建築はもはや都市建築ではなかった。空港にいると、われわれは砂漠のなかに立ったように、なにもない索漠たる 荒野のなかにいるのである。その名の示している都市を見ることはほとんどない。どちらの方角に都市があるのかきさえ分からな い。異様に孤立した場所なのである。だが現代という時代に顔をあたえている建築があるとすると、それは都市にある劇場でも、 美術館でも、官庁建築でもなく、空港ではなかろうか。そのことは空港があたらしい経験の場であり、同時に都市にあたらしい 変化をもたらすケイキであることを意味する。 空港での経験とはなにか。それは主として主体と他者の関係である。 しかしその前に空港建築について多少触れておいた方がいい。世界の大都市の空港の多くは、都市からさらに速くに移転して 改善が進み、金属とガラスを主たる素材とした、かなり巨大なハイテク建築として横たわっている。そのデザインがどうあろう と、結局は、出入国のチェック、飛行横への搭乗と降機、飛行機自体の離着陸、その整備などを中心とした、徹底的に合理化されたプログラムの現実化という機能では同じである。それだけの機能は満たさねばならないが、それ以上はなにも必要がない。 多くは空問のデザイン、レストラン、免税店などを多数用意して、なんとか居心地をよくしようとしているが、建築物のなかで もっとも機械に近い印象は免れない。われわれは、たとえば荷物が、コンピューターによってどう自動的に仕分けられていくか など、舞台裏を覗くことはないが、それでいてやはり機械のように機能する仕組みのなかを、きわめて厳密に決められた方針に したがって、自動的に行動させられていることには気がついでしまうのである。 空港での経験は、孤独の軽みとも、自由とも、完全に拘束された状態ともいえる。いくつかの経験が重なっているのだ。われ われの出会うのは見知らぬ人びとばかりである。 トランジットの長い待ち時間、たまたま隣に腰掛けた他の国の人びととそ のとき限りではあるが会話を交わす。しかも彼または彼女の旅が彼らの人生のどんな瞬間なのか、どんな目的でどこへ行くのか については詮索もしないし、まったく無関心でいられるのである。彼らは彼らなのである。完全な他者性。こうしてたまたま道 ですれ違う以上の他者、言葉も違う人びとと、双方の知っている言葉で交差してみるのである。多分、二度と会うことはなかろ う。われわれは、自分の慣れ親しんでいる世界とは異質な世界との接触を繰り返し経験する。彼らのことを私は知らない ー だが知らないとはどういうことか。 われわれは二つの経験をしている。ひとつは他者と主体についての経験である。他者はわれわれの日に透明な存在なのか、あ るいは反対にまったく不透明な存在なのかと絶え間なく自分に問いかけながら、こうした他者との接触を反復しているのである。 それは主体の経験にはねかえってくる。というのはわれわれ自身の方も、そのとさ自分がなにものであるかを主張しないばかりか、 自分の職業も、社会で占めている役割も諸関係もまったく無意味になる。ほとんど裸になっているのである。孤独かつ自由にな るとは、だれからも見られないことではなく、社会性をはぎとった裸の人間になってしまうことかもしれない。 第二の大きな経験として、われわれは異様な権力空間を経験しているのである。ここは一体どんな場所なのか。われわれはパ スポートを見せて国外に出ている。もちろんわれわれはパスポートを検査され、普通、国内にいるときには感じない国籍をあら ためて実感している。 パスポート・コントロールを通ったあとの人間の経験は、これまで味わったことのない政治空間の経 験なのである。空港は、どこにも属していないように見えて、その実、こうした自由を無化する権力の空間なのである。そこは どこでもないのに、イゼンとして権力の管理下にあるのを感じないではいられない。国家から解放されてまったくの自由であ るようでいながら、われわれはこのときほど、われわれをカンシする権力の働きのなかに拘束されていることはない。われわ れになにができるのか。ただ持つだけであり、一定の場所以外には踏み込むこともできない。いかなる自由も奪われ、権力に閉 じ込められている存在なのである。だが一体、だれの権力なのか。それは完全に国家に属しているとはいえず、だれのものでもない権力であり、いわばゼロの権力といっていいようなものなのである。たしかにそこにはまだ僅かながら ネーション・ス テートが残っている。 またネ-ションは、こうしたゼロとのどんな関係のなかにあるのであろうか。言い換えるなら空港とは、ゼロに限りなく近い空間である。われわれは主体と他者にかんしても、権力にかんしても、ゼロを掠めるように経験しているのである。われわれはこの主体と権力の関係を追求する必要に迫られるのである。一方でかつて ミッシェル・フーコーが論じてみせたように、主体を産出した権力をようやく理解すると同時に、権力の生み出すフーコー 的な主体化の論理をこぼれる主体の可能性をほんやりと感じているのである。フーコーの権力翰が近代社会の形成にかかわると すれば、 いま見ている主体は、近代社会をはみだしている。それがどんな社会かを言うことはできないが、主体がゼロである ことを感じることは、なんらかの兆候であった。飛行機の旅で唯一実感するのは、時差による異常によってほじめて知る身体で ある。われわれは身体を、今や、巨大な地球規模の空間と時間の間際で味わう経験との関係でコウサツしなければならなくなっ たのである。 空港とはこうしてゼロを経験する、これまでは現実にはなかった空間である。ところがこのゼロは、生産力とまでは言わない ものの、ある種の生産力、変容の能力をもっているのである。 飛行機による旅の簡略化によって、多くの人びとの旅が変質していった。都市は直接的でないにしても、きわめて容易に他の 都市と接続するようになっていったのである。こうした世界の都市をあたらしい関係に編成しなおす力の根底にあるものを問い 詰めれば、空港で感じ取っているゼロと同じものではなかろうか。そこになんらかの実体的な力の源泉を想定しても見つからな い。つまりこれまで 普遍空間と呼んできた理念とは、こうした意味でのゼロに近いのではないのか。そしてそのゼロの生み だす余剰に、われわれは身体や主体のありようを見いだそうとしているのではないのか。 あらゆる空港が都市と異様に速いことも、これと関係がある。それは今のところ、都市と航路の接点であり、都市への交通機関を整備する必要があり、直接に都市の構造に割って入らないまでも、都市の付属施放と考えられている。しかし日常の生活か ら離れたエアポートつまりゼロの空間を介してしか、都市がもはや他の都市との関係をもちえなくなったことは、都市が現在の 姿のままでも連合してあたらしい集合をつくることになっていく可能性を示している。したがってこれまでなら、都市と都市のあいだの田舎、農村、地方都市、さらに無人地帯としてあったものも、こうした連合のなかにホウガンされることになる。こ れは都市的なものから想定される都市というより、すでに ポスト・アーバン社会という集合体であって、その意味では都市 はもはや都市ではありえない時代が近づいている。 飛行機の旅では、ある都市から都市への移動において、「領土」の経験が失われてしまった。鉄道がいやでも国境を通過し、 したがって版図を知覚するのにたいして、飛行機の旅にはそれがない。確定した領土こそ国民団家の基盤であり、現在のわれわ れが惰性的にもっている都市の概念の底に、まだネーション・ステートが潜在していることを考えると、空港を経由する旅は、 布かち、いわば政治的、歴史的基盤を取り除く経験ではないか。想像的意識のなかでは、国家よりも上にいくつかの都市が 集合した状態を世界として知覚しはじめる感受性が育ちつつあるのは、こうしたエアポートの経験のせいではないのか。 いまや都市はその自立性以上に、世界化の力に動かされているが、その力が端的に表現できているのはエアポートのゼロの空 にほかならないのである。 この文章をよんだのですが、非常に読みにくく何を言っているのかまったく理解できません。できれば、ようやくと筆者のいいたいことを教えてほしいです。

  • フーコーは 人間は権力人だと見たのですか

     【Q‐1】 かつての実存主義で言うように 権力ないし権力関係というのは 社会生活において一般的に見られるものであって それは 基本的に言って 人間関係における視線の上下関係のことを言うと捉えてよいのでしょうか?  【Q‐2】 もしそうだとして このように 視線をそそぐ・受けるという関係が たとえば西欧中世では《羊飼いと羊の関係》のごとくであったと考えられるが これは そういう《認識の装置》が 大きく言って《物語》として 人びとに共有されたことを意味する。これで よいでしょうか?  【Q‐3】 この《認識の装置》としての物語は いわば 権力関係の素であるように思われるのですが それは どこから来るのでしょうか? たとえば 《構造》から来る。もしくは社会の総体的な《構造》じたいが そういうものである。ということでしょうか?  【Q‐4】 このような構造ないし物語が どの時代にも はたらいて その意味で一定の文明をかたちづくっているとするのならば 人間は 権力関係人ないし権力人(――これを ホモ・何と言えばよいでしょう――)であると規定したと捉えてよいのでしょうか?  【Q‐5】 もしすべてこのようであるとすれば そのときには フーコーは そのように自分の紡いだ《権力人物語》を 人間と社会とに あらたな認識の装置としてのごとく おおいかぶせようとした。としか捉えられないのですが じっさいのところは どうなのでしょう?  おおしえください。  【Q‐6】 わたしの見るところ どうも 《構造》を 人間の意志の与り知らない《無主体の過程》であると捉える前提があって 簡単に言ってしまえば この前提が わざわいしているように思えるのですが どうでしょう?

  • マルクス主義

     ミシェル・フーコーの権力論に対する一般的批判として、マルクス主義的には「抵抗」の説明ができない、というものがあります。一方で、彼らの「抵抗」が曖昧であるというフーコーの批判があります。  確かにその曖昧さは致命的であり、すくいようのないものです。しかし、私はフーコの権力論では、今の社会の具体的な事件など、権力の具体的な場を何も説明できないように思えてしまうのです。つまり、経験的に応用できないということです。  ドゥルーズはこの議論を発展させました。しかし、彼の議論も認知的には優れますが、同じように具体性をもたないというか、ある種、記号のような言葉を用いて、現実を「説明できないもの」としてごまかしているように思えるのです。  みなさまはこれを聞いてどう思われるでしょうか?ご意見をください。

  • フーコーの社会分析は現代にも通じるのでは?

    フーコーの言った、社会の隅々にある微細な権力ですか?そういうのって現代でも社会のあらゆるところにあふれていると思いませんか? なんで多くの人が、大して面白くもないような仕事に一生懸命になれるのか時々分からなくなります。 よほどユニークな仕事をするベンチャー企業とか社会企業家の人とか別として・・・ 「監獄の誕生」の中に、「規律・訓練」という章があったのがすごく印象的だったのですが、多くの人が気付かないまま目に見えない権力に飼いならされて訓練されて、対して意義もないつまらないことを当たり前と受け止めながら行動している・・・そう思うことはありませんか? そういう権力があるとして、だれがその権力を行使してるんですかね?なぜ多くの人が、そういう権力に反抗しよう!みたいな声を上げたりしないんでしょうか?

  • 就職をせず大学を卒業すること

    僕は建築を勉強してるのですが就職をせず1年間世界を旅しようか迷ってます。全世界の有名建築を肌で感じてデザインや空間を学ぼうとおもってます。親はそんなことせずに就職しろといいますが今は世界を知りたい気持ちでいっぱいです。院に行きながら留学とかは逃げなのでしたくありません。なにかアドバイスを頂きたいです

  • 国語の質問(難)

    現代の都市に暮らす人びとの心は、都市の建物、雑踏、シッソウしたり渋滞したりする自動鮮、ショウ・ウィンドウや街旅 のテレビ・スクリーンに映し出される映像、郊外住宅地の風景、携帯電話の小きなディスプレイ上の文字列、小さなイヤフォン から流れつづけるリズムやビートといったものたちのなかにトウエイされ、表象されている。それだけではない。そこに暮ら す人びとの心的生活が、そうした事物に規定され、それらを通じて現れ、それらなしにはまったく別棟のものになるであろうと いう意味で、それらの事物は、そこに暮らす人びとの心の一部なのだ。 物質が見る夢、物が抱く感情、メディアのなかの記号やイメージとともに明滅する心や感情が、都市や社会のなかで私達 を捉え、私(たち)によって生きられる。私たちが見てきたのは、そのような場としての都市や社会ではなかっただろうか。 物質が夢を見る。あるいは、心が物の中に、あるいはものを通じて現れる。こうした一見すると奇妙な物言いは、ヴアルター・ベンヤミンやマーシャル・マクルハーン、ミシェルフーコーの思考を通過したあとの社会学的思考にとっては、必ずし も奇異なことではない。 、′ たとえば都市をめぐるベンヤミンのテクストでは、商品や室内、パサージユやその内外をイロドるモードといった、十九 世紀から二十世紀はじめの都市空間に見出される端的にモノである存在群は、そこに人びとの意識が表象されるだけでなく、そ れ自体が集合的な心的現象であるかのように取り扱われる。 芸術家が作る建物からエンジニアが作る建物へ。絵画から写真へ。これらは建築やイメージを「精神」から解放していくかの ように見える。だが、実際、そのようなテクノロジーとともに現れたパサージユやプルジョワジーの室内、博能会やパノラマと いった事物が示すのは、それらの事物を生み出した人びとの意識や欲望である。そしてそれらは、単に人びとの意識や欲望を表わしているだけで ではない。そのようなテクノロジーに支えられた事物はまた、積極的に人びとの意識や欲望を駆動し、作り出す ものであり、その意味で入びとの意識や欲望の一部をなしてもいるのである。 マクルーハンは、「メディアはメッセージ」という警句的教現によって、種々のテクノロジーが社会のなかに生み出す行為や 関係のペース、スケール、パターンへの注目をカンキしただけではない。彼はまた、みずからの警句をさらにもじった「メデ ィアはマッサージ」という言葉で、そうしたテクノロジーが生み出すペース、スケール、パターンが人びとの意識や感覚に働き かけ、たとえば「活字人間」や「テレビ人間」のような、特定の思考や感覚の形式を備えた人間類型を生みだすことに注目した。 マクルーハンによれば、メディアとはそもそも「人間の拡張」を可能にするものである。活字人間やテレビ人間にとって、活字 やテレビ、そしてそれらが可能にする意味や表現やイメージの空間は、人間に外在するものでほない。それらは拡張きれた人間 の一部なのである。同じことは、鉄道、高速道路と自動車、高層ビルといった〝メディア〝についても言えるだろう。現代の都 市に暮らす私たちほ、〝鉄道人間″や〝自動車人間〝高速道路人間〝や〝高層ビル人間〝であり、私たちの意識や思考、精神は、そうした〝拡張された身体″と相関した存在でしかありえない。 また、フーコ-が監獄の誕生で示したことの一つは、監獄や教室、兵舎のような物的施設の空間内の配置が特定の運用規 則と組み合わされることで、その内部に位置づけられる人びとのなかに、「不断に自分を監視し、管理する自分」という という特異 心的メカニズムを生み出すと同時に、そのような心的メカニズムに支えられた身体間の相互関連のなかの存在へと、人間を形成 していくということであった。「身体の監獄たる精神」という監獄誕生のなかの言葉は、身体に内在する多様な運動性が精神を蝶番にして規律・訓練されていくことを示しているのだが、その精神は人びとの身体のなかにだけあるのではない。監 獄の建物に、そして教室や兵舎の建物にそうした精神が宿り、身体を攻囲しているのである。 十九芸世紀以降の都市と社会を特徴づけていることの一つは、こうした物質的であると同時に社会的な世界のなかに、高速交通や高速通信を可能にするメディアに媒介された、それまでに存在しない「場」や「地形」が生み出されていったとい うことである。 たとえば、鉄道敷設は、その沿線の空間を線状に結び付けていっただけではない。以前であれば五感によって経験されて いた移動する途中の空間が、そこでは車窓の外を飛び去っていく「風景」という像として経験されると同時に、「移動する車内」と という新たな場と、居眠りや読書、とりとめのないおしゃべりや、車内の中吊り広告をほんやり眺めるといった、新たな行為や経験の様式を作り出す。して、そのような行為や経験を通じて、鉄道路線で結ばれた駅の数珠状の鎖列を軸として国土や地域や都市をイメージする空間了解の形式が共有されていく。と同時に、通勤や通学、業務のための移動などの活動を、鉄道の運行時間にしたがって管理・調整するという、時間的・空間的な行動の管理も、日常生活を送るための必要な技術として浸透 く。それは、社会化された機械装置を軸とするものへと社会的な空間や時間が編成されて、そのような機械装置とそれに媒介さ れた空間・時間のなかで、身体の集合的な活動が編成されていくということ、それを通じて新たな質や構造をもった「場」や「社会の地形」が、社会生活の物質的な基盤であり、かつまた時空間上の広がりをもったイメージとして、成立していったというこ とである。私たちが知っている「都心」や「郊外」という場は、物質性とイメージと、そこでの人びとの行為や問係のスイコ ウを通じて編成された社会の地形のなかに現れるのであり、そのような地形のなかで固有の実定性を与えられるのである。また、映画のうな映像メディアや、電話やテレビのような電気的な通信メディア、グラビア化した雑誌のようなプリント、メディアの普及と浸透は、地理的な場とは異なる言語やイメージの伝達の場を、聴覚や視覚という物理的かつ身体的な位相で存在することを可能にすることで、新しい社会的な環境を形成していくものだった。こうしたメディアは、文字や絵画を媒体とするそれ以前のメディアに媒介された環境とは異なる遠近感、身体感覚、現前性をもつ場を、社会の中に切り開いていく。そこでは、ひとびとにとって有意味な社会の広がりが、みずからの身体の近傍に経験される広がりだけでなく、種種のメディアを通じて拡張され、自己や生活の理想的なイメージメディアもメディアを通じて日々降り注ぐファッショナブルな幻像のなかに求められるようになる。そして「経験」「結びつき」「理想的」といった言葉が意味するものも、かつてそれらの言葉が意味していたものとは異なるものへと変貌する。それはつまり、「世界」や「社会」に対する人々の了解と想像の形式が変わるということ、端的にいって「世界」や「社会」のあり方が変わってしまうということだ。都市の「境界」という伝統的には地理的空間上に見いだされる存在すら、そこではメディア媒介的な現実の位相において思考され、経験されるのである。私たちが生きる世界は、十九世紀以降に出現したこうした諸メディアが切り開く新たな物質性の次元も、その素材として取り込むとこに成立している。 映画スタジオにおいては、器械装置が現実の奥深くまで侵入しており、その程度たるや、現実の純粋な姿、器械装置という異物から解放された姿のように見えるものはある特殊な処理の産物、つまりその目的のために特別にセットされたカメラで撮影したものを、同種の他の撮影フィルムとモンタージュした結果なのである。器械装置から解放された現実の姿は、ここでそのもっとも人工的な姿となった。なまの現実の光景は、技術の国の青い花となった。ここで述べられているのは、映画というテクノロジーのなかでは、器械装置が現実の構成に深く浸透しており、最も自然に見えるものこそが器械的な技術や処理を通じて現れてくるということだ。そして、映画というテクノロジーとその表現が、大衆的な娯楽を通じてひとびとの日常的な環境の一部になっていくとき、映画をつうじて現れてくるさまざまな映像は、ひとびとにとっての現実の一部を構成していくようになることができるだろう。このとき、そうした技術に深く支えられた技術の国では、なまの現実なるものは伝説の青い花のような、決して手の届かないロマン主義的な憧れの対称という位置を、技術化された環境のなかで、夢みられるものとしてあてがわれることになる。 問題1 それらの事物は、そこに暮らす心の一部なのだとあるが、そのように言える理由として、最も適切なものを選べ。 1人々の欲望から生み出された都市の事物は、一方で人々が抱く欲望の多様性を奪う拘束となるから。 2都市の事物は、そこで暮らす人々の心の反映であるとともに、人々の欲望を現出させるものであるから。 どちらが正しいか解説お願いします。

  • 「乾いた空間」

    「乾いた空間」  日本語を勉強中の中国人です。下記の文章に意味がわからない言葉があります。教えていただけないでしょうか。 「篠原一男は、日本の伝統をいかに現代の建築に実体化していくかという課題から出発し、象徴や装飾といった、中性的な乾いた空間をつくることで外の世界とのつながりを断ち切り、ひとつの建物のなかで完結した世界をつくっている。住宅という小さな限られた世界ではあるが、都市と対峙することでつくられた空間ともいえる。」  「乾いた空間」はどういう意味でしょうか。  また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 空間システムとは?

    私は工学部(建設・建築系)の学生です。 先日、大学の建築の授業で「空間システムを説明することができる人はいますか?」との問に答える事ができませんでした。 後々自分自身で考えたら、【空間のモノとモノを結ぶ機能的なモノ】という結論に至ったのですが、これで合っているのか分からないので、皆さんの意見が聞きたいと思い、投稿しました。よろしくお願いします。 私が考える例 空間のモノとモノを結ぶ機能的なモノ:  都市と都市を結ぶ「道路」,部屋の空間を結ぶ「廊下」,家と社会を結ぶ「庭」

  • 海外一人旅経験のある女性の方へ質問です!

    海外一人旅経験のある女性の方へ質問です! 今まで行った国、都市の中で、一番一人旅しやすい、と思ったのはどこですか? 私が思う、一人旅しやすいところというのは、 *電車などの交通網か発達していて、市内観光や空港・ホテル移動などもしやすい。 *夜ごはんなど一人でも入りやすいお店が多い(フードコートなど)。 *治安が比較的よく、女性一人でも歩きやすい。 などの条件をふまえたところです。 皆様が一人旅した中で、いちばんこれらの条件にあうなあ、と思うのはどこですか? 私も今まで何度か一人旅したのですが、いちばん上記条件にあうところは、香港、ロンドン あたりかな、と思っています。 今度また一人旅をする予定なので、皆様のご意見を参考にしたいと思いました。 (あくまで参考ですので、皆様が行かれたところの中で、で結構です。) よろしくお願いします。