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フーコーの社会分析は現代にも通じるのでは?

フーコーの言った、社会の隅々にある微細な権力ですか?そういうのって現代でも社会のあらゆるところにあふれていると思いませんか? なんで多くの人が、大して面白くもないような仕事に一生懸命になれるのか時々分からなくなります。 よほどユニークな仕事をするベンチャー企業とか社会企業家の人とか別として・・・ 「監獄の誕生」の中に、「規律・訓練」という章があったのがすごく印象的だったのですが、多くの人が気付かないまま目に見えない権力に飼いならされて訓練されて、対して意義もないつまらないことを当たり前と受け止めながら行動している・・・そう思うことはありませんか? そういう権力があるとして、だれがその権力を行使してるんですかね?なぜ多くの人が、そういう権力に反抗しよう!みたいな声を上げたりしないんでしょうか?

みんなの回答

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.4

ご指摘の通りフーコーの社会分析は現在においても正しいと思います。会社であろうが公務員であろうが失業者であろうが 共産国家だろうが なんらかの権力の監視はあると思います。生きている限り 監視されているのです。嫌な会社をやめても 監視されているのです。これを踏まえ いろいろ考え 多くの人は 現状に反抗していないと思います。質問者さんもいろいろ考えて欲しいのですが どうか暴力革命とか自殺とかの極端な方策はとらないで欲しいと思います。

noname#133759
noname#133759
回答No.3

それと言い忘れましたけど、ここのカテゴリーでもミクロの権力関係があります。劣勢な認識力(解釈)が優勢な認識力(解釈)に呑みこまれていくようですよ。

noname#133759
noname#133759
回答No.2

権力は、人間関係とか、社会の構造の特性だという考え方だから、そういう意味では親族関係や経済の交換関係などの社会構造が存在する限りはこの人間社会から逃走するしか対処法はなさそう。

回答No.1

監視カメラもがそれを促していますよね。

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