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聖書についてあなたの解釈を教えてください。

benderの回答

  • bender
  • ベストアンサー率45% (108/236)
回答No.29

丁寧なお返事を書いていただいてありがとうございます。 C.S. Lewis については、彼の書いた "Mere Christianity" という 本の序文で、彼自身が英国国教会の信徒であると書いているのを 読んだように思います。残念ながら、その本の内容については 要約を書けるほど詳しく思い出せないのですが、興味深く読んだ ことを覚えています。この本は「キリスト教の精髄」という題で 売られているようです。 > 第二の律法の『隣人を愛する』と『隣人とは誰のことか』… 例えば、ルカによる福音書10章25-37節「善いサマリア人」を 読むと、隣人とは限られた人を指すのでは「ない」ように私は 感じます。 とはいうものの、No.28 の方が鋭く指摘されておられるように、 言うのは簡単なのですが、自分で実行するのはかなり億劫だし、 一時的に頑張ってもどうせ失敗するわけですから、正直、そういう のは無駄な努力か偽善だと思っていました。ところが、まあ、 それでも希望をもって誠実に生きる人たちに私はその後会って しまい、私としてはかなり驚いたのですが、この人たちについて いえば、他人に対して寛容であったりするわけで、そういうのは 魅力的な生き方であるように思いました。 ただ聖書の内容については荒唐無稽だと思っていたのですが、 この人達はそれでも親切に接してくださったので、私としては 聖書の内容が信者以外には差別的だとは思い難かったです。 > この箇所の解釈によって、第二の律法の『隣人を愛する』と… 難しいことは分からないのですが、隣人を愛することは、おそらく 神様が自分を愛していることを理解することと関係があるように 思うのですが、いかがでしょうか? 余談ですが、例えば、箴言23:13については、ご存知かもしれません が、エフェソの信徒への手紙6:4、コロサイの信徒への手紙3:21 の ような箇所もあるようです。

nicodemo
質問者

お礼

benderさん、回答、ありがとうございます。 >隣人を愛することは、おそらく >神様が自分を愛していることを理解することと関係があるように >思うのですが、いかがでしょうか? 私も、そのように感じます。 最初の回答で教えてくださったように、第一の律法の理解なくして、第二の律法を実行することは出来ないのでしょうね。  神を愛し、崇拝できないものは、隣人を認めることも、愛すこともできない。という事だと思います。  書いてしまえば簡単ですが、例えば管理職は「職場の弱者にどう接するか。」など、弱者の定義によってはとても難しい問題です。 >エフェソの信徒への手紙6:4、コロサイの信徒への手紙3:21  この辺の箇所は、当時のキリスト教がイエスの教えを曲げていなかったのか?などと議論の種になるところですが、私はとても好きな場所です。  クリスチャンとしての使命に燃えるパウロや、信仰に硬いテモテの心情が伝わってくる素敵な箇所です。  文字通りそのまま捉えることは、ともすれば危険な事ですが、彼らの心情に留意して、注意深く読み解けば現代においても福音となると思います。 回答、ありがとうございました。

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