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絶対的な考えと、相対的は考えはどちらがいいと思いますか?

so_easyの回答

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  • so_easy
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回答No.2

質問者様は現在お悩み中のようですが、老婆心により気になりましたことをいくつか指摘させて頂きます。 私ももっと若い頃、似たような悩みを抱えていたことがあったので、参考までに・・。 まず、あなたの言う「相対的考え」についてですが、 果たしてあなたは本当に相対的に物事を考えているのでしょうか? 「物事に絶対は無い」と絶対的に思っていませんか? あなたの言いたいような相対的考え方というものは決して目的意識や成長の意味を無くしてしまうものではないはずです。 むしろ柔軟に物事を捉え、自分自身の存在価値を見つめ、本当に自分にとって価値のある成長を遂げることが出来る考え方だと思います。 また、絶対的考えというのはとても秩序立った素晴らしいものであります。 しかし、「絶対」と決め込んでいる分こちらの方がかえって「目的」「成長」に関しては分が悪いのではないでしょうか? 仮に結論を出すとすると双方は相反するものでは無いということが言えると思います。 相対的なものの中に絶対が存在する。 つまり、相対的考えの元に導きだした絶対性というものはあり得るということです。 逆もまた然り。 決して対義語では無いということです。 あなたはどうもお父上の考えに反抗するがために、 相対的というより「反絶対的」の様な物事の捉え方を身につけたのではないかと思います。 >両者は考え方が真逆なのでよくケンカになります。 とある様に、あなたとお父上は同じ次元にいますよね? ベクトルが反対向いているだけで。 別の次元にいるのであればそれは「別のもの」「違うもの」であり、「逆」という表現にはならないはずです。 今悩んでいるのはたぶんそのことに気付き始めたからではないでしょうか? ハタチ前後というのはそういうお年頃なのでしょう。 ホントの意味での自我の形成がなされる頃です。 きっとお父上もその時分は大変悩まれたことでしょう。 そして「絶対的考え」が固まっていったのではないでしょうか? あなたも悩んだ末に自分自身の法則を導きだして、お父上のような考えに至るやもしれません。 悩むからこそ人間は成長して行くものだと思います。 そしてそれぞれの時点での考え方はそのときどきで移り行くものでもあります。 考える葦です。 大いに悩んで下さい。 それでは。。

stateof---
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「物事に絶対は無い」と絶対的に思っていませんか? 思っていましたww そのセイで物事に行き詰まると、 よく自分に対する言い訳として使っていた気がします… 「物事に絶対はないんだ。 "できない"ことが絶対的に悪いことではない。 ソノ一つの物事ができなくたって、 俺の人生においてなんの影響があるものか! きっと俺に向いているモノが他にあるハズだ!!」 という感じに。 親父はこんな自分に対して 『一事が万事』 とよく言います。 >相対的というより「反絶対的」の様な物事の捉え方を身につけたのではないかと思います。 これは、なるほど!と思いました。 この考え方はとても新鮮です! この驚きを例えるならば、 平面体が立方体になったカンジですね(笑) これを基に日々の生活をもう一度考え直してみます。 >同じ次元にいる コレは説明がややこしいです(困) 確かに自分と父親は考え方が別次元にいると思います。 しかしそれでも同じ次元に属してしまうのは、 2つの理由があります。 (1)「考え方が違う」という理由で 肉親の父親を他人のように別の次元に切り離していいものか? という後ろめたさから。 (2)親父は絶対的な考えをするので、 親父が自分に対して話をしているとき、 自分が親父にしている態度で 『お前は~~だと思っているに違いない』 と勝手に決め付けます。 そして、↑の考えを発展させて自分を非難するので 「ちょっと待ってよ?(怒)」 と同じ次元に踏み入ります。 -------------------------- 他人なら"可哀相な人"として割り切るようにしますが、 毎日顔を合わせる親父にやられると自分はストレスがたまるだけでいいことがありません。 こういうワケで答えの出ないケンカによく至りますwww

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