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絶対的な考えと、相対的は考えはどちらがいいと思いますか?

これまで自分は相対的な考えで生きてきました。 "ソレはソレ、アレはアレ" という考え方や、 "物事に絶対はない" という考え方が有名ですよねww 自分は20歳なんですが、 親父は逆に絶対的な考えをしている人です。 よく言われる『昔かたぎ』って言葉が当てはまるような 職人っぽい会社員やってます。 「~~とはこういうモノだ。 だから××しなくてはならない」 って感じのコトをよく言ってます。 両者は考え方が真逆なのでよくケンカになります。 とはいえ、相手自分を扶養してもらっている親なので 勝ち目はありませんけど(笑) 今の世の中は 「価値観の多様化」 「プライバシーの尊重」 といわれているような相対的な考えが主流だと思います。 自分としては 相対的な考えの欠点が、 善悪全てを"ソレ"として認めてしまうが故に 「目的」や「成長」の意味がなくなってしまうことだということに最近やっと気づきました。 この欠点に気づいて今混乱しています(悩) 結局今を生きるにはどちらがいいんでしょうか? 今は若さのピークなのに「目的」や「成長」がなかったら 若さの浪費でもったいない思います。 しかし、いまさら親父のような人間にはなれないような気がするのも事実です。 こんな自分になにかアドバイスを下さい。 よろしくお願いします。

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  • so_easy
  • ベストアンサー率32% (12/37)
回答No.2

質問者様は現在お悩み中のようですが、老婆心により気になりましたことをいくつか指摘させて頂きます。 私ももっと若い頃、似たような悩みを抱えていたことがあったので、参考までに・・。 まず、あなたの言う「相対的考え」についてですが、 果たしてあなたは本当に相対的に物事を考えているのでしょうか? 「物事に絶対は無い」と絶対的に思っていませんか? あなたの言いたいような相対的考え方というものは決して目的意識や成長の意味を無くしてしまうものではないはずです。 むしろ柔軟に物事を捉え、自分自身の存在価値を見つめ、本当に自分にとって価値のある成長を遂げることが出来る考え方だと思います。 また、絶対的考えというのはとても秩序立った素晴らしいものであります。 しかし、「絶対」と決め込んでいる分こちらの方がかえって「目的」「成長」に関しては分が悪いのではないでしょうか? 仮に結論を出すとすると双方は相反するものでは無いということが言えると思います。 相対的なものの中に絶対が存在する。 つまり、相対的考えの元に導きだした絶対性というものはあり得るということです。 逆もまた然り。 決して対義語では無いということです。 あなたはどうもお父上の考えに反抗するがために、 相対的というより「反絶対的」の様な物事の捉え方を身につけたのではないかと思います。 >両者は考え方が真逆なのでよくケンカになります。 とある様に、あなたとお父上は同じ次元にいますよね? ベクトルが反対向いているだけで。 別の次元にいるのであればそれは「別のもの」「違うもの」であり、「逆」という表現にはならないはずです。 今悩んでいるのはたぶんそのことに気付き始めたからではないでしょうか? ハタチ前後というのはそういうお年頃なのでしょう。 ホントの意味での自我の形成がなされる頃です。 きっとお父上もその時分は大変悩まれたことでしょう。 そして「絶対的考え」が固まっていったのではないでしょうか? あなたも悩んだ末に自分自身の法則を導きだして、お父上のような考えに至るやもしれません。 悩むからこそ人間は成長して行くものだと思います。 そしてそれぞれの時点での考え方はそのときどきで移り行くものでもあります。 考える葦です。 大いに悩んで下さい。 それでは。。

stateof---
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「物事に絶対は無い」と絶対的に思っていませんか? 思っていましたww そのセイで物事に行き詰まると、 よく自分に対する言い訳として使っていた気がします… 「物事に絶対はないんだ。 "できない"ことが絶対的に悪いことではない。 ソノ一つの物事ができなくたって、 俺の人生においてなんの影響があるものか! きっと俺に向いているモノが他にあるハズだ!!」 という感じに。 親父はこんな自分に対して 『一事が万事』 とよく言います。 >相対的というより「反絶対的」の様な物事の捉え方を身につけたのではないかと思います。 これは、なるほど!と思いました。 この考え方はとても新鮮です! この驚きを例えるならば、 平面体が立方体になったカンジですね(笑) これを基に日々の生活をもう一度考え直してみます。 >同じ次元にいる コレは説明がややこしいです(困) 確かに自分と父親は考え方が別次元にいると思います。 しかしそれでも同じ次元に属してしまうのは、 2つの理由があります。 (1)「考え方が違う」という理由で 肉親の父親を他人のように別の次元に切り離していいものか? という後ろめたさから。 (2)親父は絶対的な考えをするので、 親父が自分に対して話をしているとき、 自分が親父にしている態度で 『お前は~~だと思っているに違いない』 と勝手に決め付けます。 そして、↑の考えを発展させて自分を非難するので 「ちょっと待ってよ?(怒)」 と同じ次元に踏み入ります。 -------------------------- 他人なら"可哀相な人"として割り切るようにしますが、 毎日顔を合わせる親父にやられると自分はストレスがたまるだけでいいことがありません。 こういうワケで答えの出ないケンカによく至りますwww

その他の回答 (17)

  • oinieaga
  • ベストアンサー率12% (95/779)
回答No.18

絶対的な考え方では、小さくまとまってしまいます。 失敗を恐れていたら、愚かになります。 正しいことに酷使していたら、文化の発展は望めません。 常に真理を求めるほうが、楽しいと思いますけど・・

  • oinieaga
  • ベストアンサー率12% (95/779)
回答No.17

絶対的な考え方では、小さくまとまってしまいます。 失敗を恐れていたら、愚かになります。 正しいことに酷使していたら、科学のの発展は望めません。 常に真理を求めるほうが、楽しいと思いますけど・・

stateof---
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 つまり、二律背反ってことでしょうか? 結論がないのでなんとも言えませんが…

noname#155689
noname#155689
回答No.16

相対主義は絶対主義の否定ではありません。 相対主義者は、懐疑主義者のように 真理を知る可能性を否定するのではなく 立場の違いによって多くの真理が存在する という方針を取るのが基本です。 ところが、相対主義を自認する人が 実は単なる懐疑主義者であることがあります。 絶対なんかない、と開き直ってしまうような 人たちのことです。 他にも ・相手の主張に深く触れることをせず(理解してないからできない)  相対主義的な半可通の哲学を持ち出すことによって  その主張は絶対ではないという陳腐な意見を述べ続ける人。 ・相対主義を強く標傍しておきながら  自分自身がよって立つ基盤については全く無批判な人。 ・あらゆる主張を正当化するためのレトリックとして  相対主義を用いる人。 こんな相対主義者は、社会的に通用しません。 以上の見解はコチラの受け売りです。 http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html 相対主義を提唱した人で 最も有名なのはファイヤアーベンドだと思いますが 彼は「何でもあり」を訴えたのではなく いろんな立場を理解することで 自分の立場を自分の意思で自覚をもって決定すべきだ と、主張した筈です。 多分、あなたに必要なのは 親の意見を相対主義の名の下に無力化・無意味化するのではなく さまざまな立場に理解を示しながら 自分の「立ち位置」をしっかり決めること 早い話が自分の意志をしっかり持ち 親にも理解できる言葉で伝えることだと考えます。 それでも、なかなか分かってくれない親は あちこちに居るのですが・・・・

stateof---
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 む、難しい・・・。 >懐疑主義者、半可通の哲学、標傍 これらは読んでて意味がわかりませんでした。 辞書引いて調べましたけど、哲学用語は奥が深いですね。 >自分の「立ち位置」をしっかり決めること これは重要ですよね。 「立ち位置」が自分の都合で大人になったり子供なったりしないように気をつけているつもりなんですが、 つい混同してしまいます(汗) 混同してるうちは 「自分の意見」ではなく、 「単なる親への反発」に過ぎないんでしょうね。 ありがとうございました。

回答No.15

「価値観の多様化」 「プライバシーの尊重」 といわれているような相対的な考えがをしながらも 自我を確固たるものとして保つことが重要ではないでしょうか? ここで言われている相対的な考えとはものの見方ではないでしょうか?そこから出す自分の答えは絶対的な考えではないでしょうか^^ 偏った物の見方から導き出した、自信満々な絶対的ポリシー。 色んなものを色んな角度から見て、色んなものを受け入れ又は認め導き出した、自信満々な絶対的ポリシー。 私は後者が好きです^^

stateof---
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 う~む、そもそも相対的な「考え」というものに至ってないとは斬新な指摘ですね。 いわれてみると「ものの見方」と「考え」がごっちゃになってるような気がします(汗) ありがとうございました。

  • yottimama
  • ベストアンサー率28% (36/125)
回答No.14

NO8のyottimamaです。  お礼の回答ありがとうございます。 相対的な考えの欠点、意味がわかりました。 確かに『できた・できなかった』を同等に扱った場合、差はありませんよね。 だから成長の意味がなくなるとお考えのようですが、はたしてどうでしょうか? 私は、できてもできなくても、そこから何かを学び取り、更なるステップアップにつなげる事が成長だと考えているので、『ソレ』として扱う事が欠点だとは考えにくいです。 >ここから議論が始まると思います。もう一つの絶対を論破することで絶対性は崩れないと思います。 はい、確かに論破する議論でしたら、片方の絶対は崩れませんよね。ただそこに論破ではなく、お互いの絶対を認め合ったらどうでしょう?絶対のなかに相対を見出せないでしょうか? 子どもは一番身近な『親』の影響を沢山受けて育ちます。 時にうなずき、時に反発し、それら全てが成長の糧になります。納得できること、出来ないこと、お父様から大いに学んで、あなたの成長につなげて下さい。

stateof---
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 う~む、回答を読んで自分の青さが分かりました。 自分は『井の中の蛙』って感じでまだまだ視野が狭いようですね。 yottimamaさんの回答は、自分の考えに比べて現実的で説得力があると思います。 しかし、 「絶対でも相対でも決める必要がない」 という考えは自分の中で納得できないのです。 それに、この質問ではどっちがいいか?ということを聞かせてもらっているので、この考えを認めることは別次元(?)の話だと思うのです。 せっかくですが、すみません。

回答No.13

kaitradouです。主体性というものは思考の対象になりませんから、権威あるいは支配権を持ちません。主体性の主張できることは自分は存在しているということだけです。主体性に基づく発言はこの意味で絶対的ではないはずです。叉主体性が認められる場合のみ、言論の自由に実質的意味が与えられると思います。こういうサイトは構造的に参加者全員に(平等に)主体性が保証されていると思います。このような考えが何か絶対的権威によって保証されているとは思いませんが,誰かが同じようなことを既に考えている可能性は大きいと思います。

stateof---
質問者

お礼

再び回答ありがとうございます♪ 主体性…、分かったような気がします。 自分の中で”絶対的”という意味の内容が深まりました。 絶対、相対、という言葉の意味は 一口でいえるほど浅いモノではないのですね。

  • kawakeu
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.12

こんにちは。 私も親との対立で悩んだことがあります。 今も悩んでるのかもしれませんが。 親や祖父が意見を言って、それに反発しようものなら、あげあしをとるな、とか、へ理屈を言うな、とか言われました。 それから、自分から進んで意見を言うのが怖くなった気がします。 だから(それだけのせいじゃないとは思いますが)、ニュースが流れていても、自分で意見をもてることがあまりありません。 テレビでコメントを言うと、そういう考えもあるんだ、と思って終わってしまいます。 質問者さんの「目的」や「成長」がない、といっていたのは、このように自分で考えずに認めてしまって終わり、ということだと思いました。 けど、それは相対的、絶対的で悩むことかどうかが疑問です。私の場合は、自分で考えがもてるのか?というほうに疑問がいきました。今でも悩んでます。 もし、絶対的だった場合、柔軟に思考が働かないから、これも「目的」や「成長」がないんじゃないかと思いました。例えば、他の人の意見を聞いても、それを参考にできないとか。 勝手に自分の経験した状況にあわせて判断してしまいましたが、言っている意味が違っていたらすみません。

stateof---
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >自分で考えずに認めてしまって終わり、ということだと思いました。 すいませんが、↑の意見は自分の考えていることと異なります。 でも回答者さんの悩みは自分もよく考えますよ。 「今自分が偉そうに話しているコトは、 実は借り物のカッコイイ言葉の羅列にすぎなくて 自分はそれに気づいていないんじゃないか?」 という具合に。 自分の場合、 そう思った時は本当にわかっているかどうか 自分の言葉で変換してみて試してます。 そこで納得の行く答えが出れば、 "自分の考え"として人に胸を張って言えます。

  • arvent
  • ベストアンサー率54% (88/162)
回答No.11

No1です こんにちは。 僕にとっても、stateofさんの"疑問"は日々感じるトコロなので興味深々です ^-^ まずは、stateofさんの私に対する回答へのコメントから。 >"~に見える"という表現が少し気になりました。 >やはり社会に出ると、 >【他人が見る自分】というのも重要なのですね~。 「重要」という言葉が適切か、また、「社会に出てから」という言葉も適切かどうか、微妙な感じですが、やっぱり僕たちは、多くの人々に囲まれて生きている訳ですよね。そうすると、人々との関わりの中で生きて行く事になりますから、"調和"が必要になってくるのではないでしょうか。(ちょっと曖昧な言い方で逃げていますw) 社会に出ると、、場合によっては「意固地さ?」も必要な時があるように思います。組織のリーダーになったりすると。リーダーは組織全体をよりよい方向に導く事が役目ですから、意見を聞き、よい部分は吸収し、方向修正が必要な場合もありますよね。一方で、多くの人には理解しにくい事柄があって、でも、そちらへ進む事が組織にとって最良だとリーダーが判断している場合には、他の人の意見を無視して「意固地に見える」場合でも、ガンコに突き進まなければならない場合もあると思うのです。社会では、それが時に許され、または許されない場合もあります。仮に許されても、結果が思わしくなければ、そのリーダーは責任を取る事になるでしょうし、結果がよければ(組織がそう判断すれば)何も責任を問われない事もあるでしょう。 社会に出ると、そんなリーダー(会社の経営者、で考えると分かりやすいかな)のような役割にたつ人は、意固地さに責任が出てくるのだと思います。 話は変わりますが、No11さんが「哲学」カテにおいて多くの回答を寄せていらっしゃいます。興味深く読ませていただきました。(全てではありませんが^-^;) 私はNo1の回答で、「哲学」を相対的なモノの方へ分類していますが、ある意味、絶対的なモノ の方へ分類すべきだったかもしれません。 思うに、「哲学」というのは、自分が考え、人の話を聞き、情報を集め、「真理(絶対的なモノ)」を導き出す手法、学問であると思います。こう考えると、哲学は「絶対側」に分類すべきだったかもしれませんね。 (私がNo1で書いた回答とこの回答が変化していますよね。こういうのが相対的というか、情報によって変化した考えだと思うのです) でも、私は、その哲学すら相対的なモノではなかろうか?と感じます。哲学とは、時代や文化を超えて、(人間の?)真理を探求する学問だと認識しているのですが、でも、やはり、1000年前の「哲学によって導き出された真理」と1000年後のそれでは違うのと思うのです。 人の考えや思想は、文化・教育・宗教観などなど様々な要素によって影響を受け、変化するものだと思います。変化するから、「定まった答えを見つけるのは難しい」のだと思います。だから哲学も、「ずっと哲学」なのではないでしょうか(逃げてますよw つまり、哲学=考える事、のような感じですw) また少し話しが変わりますが、文化の違いによって、夫婦制度に違いがある事もご存知ですよね。 ・一夫多妻制と一夫一婦制(他にもあるのではないでしょうか) 中国では、犬を食べる文化がある地域がありますが、日本ではあまり聞かないですよね。サルの脳みそも日本人はあんまり食べないですよね。今度はクジラは欧米ではあまり食べないですよね(日本も今は、なかなか食べられない状況ですが)。 日本人は服を着ていますが、裸で生活する人々もいますよね。 このような点からは、「犬は食べ物じゃない!」って絶対的に主張している人は、私には、「それは文化が違うからそう思わない人もいるよなぁ」って思います。犬は、知能が、、長年の人類の友、、とか反論されてもそれは理解できますけど、だからといって、「食べ物ではない」には賛成できません。私は食べた経験もないし、ペットもいるので、食べられませんが。。でも、食べる人と友達になれないかというとそうではないと思います。人次第ですね。 stateofさんが「価値観の多様化」と書いていますが、人の数だけ、価値観があってもおかしくないと思います。大体は、文化毎に集約されるのかもしれませんが。 アメリカは、イラクやイラン、北朝鮮が大ッ嫌いですが、というより、フセインやキムジョンイルが嫌いといった方がよさそうですね。 嫌いだから、価値観が違うから、叩き潰す、納得させるという発想は、衝突や摩擦が生まれてしまうのだと思います。(といっても、戦争はこんな単純でバカげた発想で起きたのではないと思っています。あくまで簡単な例です・・) そういう意味ではアメリカ(の一部の人たち)は「独善的」に私には映る面があります。経済も思想も宗教も自分たちの方法がベストと考える発想が。核の問題にしても、自分たちが持ってて、スパコンで研究してるのに、実験するな、作るなって。。。どういうコトでしょうねw 北朝鮮は、今回の一連の拉致被害者の問題で、いろいろといっていますよね。私の大体のこの件に関する思いは、多くの日本人の感情と似ているモノがありますが、翻って少し彼らの言い分に耳を傾けると、「アメリカの敵視政策だって、さっきの核の話からしたらおかしいトコあるよなぁ。。日本だって確かに過去の北朝鮮に対するいろんなことにケジメつけてないよなぁ。。」と感じるトコロもあります。 自分の考えを定める時には、私には情報が必要です。情報なく考えを決める事は、ただの思い込みですからね。 様々な事柄に自分なりの見解や理解や意見を持ちたいと思っていますが、今の時代、得られる情報の取捨選択と真偽の判断が非常に難しいですよね。。真の意味で「客観的に」事実を捉え、考えるコトが出来る環境が欲しいですね。 長くなりました ^-^;

stateof---
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >そんなリーダー(会社の経営者、で考えると分かりやすいかな)のような役割にたつ人は、意固地さに責任が出てくるのだと思います。 この例は分かり易かったです。 組織のリーダーは 「意固地さ?」を貫く強さと 「方向転換」できる勇気を持ち合わせていないと 勤まらないものなのですね。 >自分の考えを定める時には、私には情報が必要です。情報なく考えを決める事は、ただの思い込みですからね これは自分も同感です。 集めすぎても身動きとれなくなりますけど、 ある程度の情報は必要ですね。 >真の意味で「客観的に」事実を捉え、考えるコトが出来る環境が欲しいですね そうですね~。 重要な決定をするとき 「目の前に自分がもう一人いたら…」 なんてよく思いますww ありがとうございました☆

  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.10

とても興味深いご質問ですね。回答、長くなりそうなのであらかじめお断りしておきますね。 結論からいわせていただくと、若いときには大いに「絶対」的でよいと思います。 両者は二律背反ですね。私のメインテーマです。両者は合わせ鏡のようなものなので、「絶対」性から「相対」性をみることができ、逆に「相対」性から「絶対」性をみることができます。 たとえばお坊さんと軍人がいます。お坊さんは「聖」と「俗」でいえば、「聖」の世界の住人です。また軍人は「俗」世界にいますよね(これはあくまでも一般的なイメージ、職業的イメージです)。「聖」は「俗」をみてより高次なものへ集約しつつ定義を考え思想を残します。「俗」は煩悩の具体化された俗世界ですから、「聖」世界の人はそこから一線をひいて、神や仏につかえ、自分が少しでも聖人となるよう精進します。そして「俗」世界の煩悩に疲れた人はしばし「聖」世界に人生の道しるべを求めます。両者はまったく反対のイメージ、仕事、そして生き方ですが、両者なくしてその世界は成立しないと思います。はじめから聖人はいないでしょうから、多様な俗にまみれて聖域にアイディンティティや教えや、生息を求めに来るのでしょう。そしてそれら両者のいる世界が森羅万象、と言葉の上でも包括されています。 とすれば、「相対的な考え方・生き方」も、聖俗いずれの世界と対応できるかと思います。もっとも「聖」=「絶対」的、「俗」=「相対」的と決め付けることはできません。それぞれの世界にもその「二項対立」は確実に存在するからです。またそれなくして存在することもできません。でもあえてこのように定義するのは、宗教や「高次な教え」が、「~である」「~しなさい」という強調に特徴があるからです。つまりあなたのお父様と同じようなものですね(笑)。でもお父様は何かを悟っているかもしれませんが、あなたにとっては「聖人」ではないですよね(この言い方はお父様には失礼ですが)。しかし私も長い家族戦争下でのソルジャーです(笑)。それはそれは旧世代の女性差別的な親父とは長い対立をしてきましたし、今は表面上かろうじて理性で抑えている冷戦状態ですが、お互い酒が入るとだめですね(笑)。 そうやってお互い「絶対」的な価値観を固持しているわけですから「絶対」と「絶対」の対立になるんです。しかしその外側には「絶対」も「相対」も存在しています。自分の「絶対」を、いかに相手に相対化していくか、また相手の「絶対」をいかにの「絶対」に組み込ませていくか、しかし頑として「絶対」を崩さないかで社会の様々な特徴が成立するのではないでしょうか(しかし私は親に関しては「絶対」は崩しませんが。これは肉親と子という「血の濃さ」ゆえの深い問題ですから、対外的な柔軟性はちょっと用えません。ここに親と子の悲劇があるのでしょう) あなたはその若さである程度の「絶対」性を形成しているということはある意味すばらしいことだと思います。私は30代前半ですが、ときに最近の若者は…とコンビの入り口でふにゃふにゃしている身体とそれに応じているかのような思考力を嘆くこともありますが(ああ年取ったなあ(笑))、このようなカテでしっかりご質問なさっていますからね、あなたは大丈夫だと思ってます。 またその悩みは思春期から青年期への過渡期独特のもの、ではなく、生涯背負っていくものです。それは今だけのものではなくあなたがそのような真摯な問いを一度もったからにはいつでもどこでもつきまとう…うーん、ウイルスのようなもの?(今帯状疱疹わずらってまして、これは潜伏していた水疱瘡のウイルスが免疫低下によって浮上してきたものらしいと初めて知りましたが、まあそんなイメージでしょうか。ヘンな例えでスミマセン)。 「絶対」なるものは、時に「生きづらさ」に通じます。しかしフィクション、ノンフィクションの世界にはヒーローと呼ばれる人がいますね。長いものに巻かれず、誰も踏み込めなかった恐れに対し堂々と挑んでいく。それは信念という絶対性がなければ成しえない業です。それが万人に受けたのならばまさにヒーロー誕生です。それは彼(彼女)にとってのつまらない「相対」性になど惑わされない強さがなければなりません。 現に存在した偉人たちはそのような強さを持ち続けた人たちです。「相対」性とても混沌としていて、時に純粋な「絶対」性を惑わし、その圧倒的な力で踏み潰すこともあるかもしれません。かつての世の中は「封建時代」などに「絶対」者による絶対的政治で人々は権力者の「絶対」性を反映させて身に着けなければ生きていけませんでした。しかしその中で「それも絶対」と信念を持つレジスタンスが世の中を変えてきました。そのとき世は新たにその「絶対」的なヒーローによって「相対」化されてゆきます。そのようにして「絶対」と「絶対」の争いによって、「相対」も生じるのですから、これは政治的、時代的、または歴史的な化学反応です。そのように価値観の対立は自身の中に、また対外的に新たなものを生むこともあるのです。 東洋人は「対人関与的」、西洋人は「対人脱関与的」な特徴をもつと言われています。それは人との協調性かまたは自分の誇りなどに価値を見出すことですが、それはまた東洋、西洋それぞれ「相対」性「絶対」性と対応させることができましょう。東洋人はしばし主体性のなさを問われますが、他国の多様な文化や宗教まで取り入れて発展してきたのはその「相対」性による強さゆえかもしれません(これにはまた意識と無意識との西洋人、東洋人との興味深い見解も心理学の領域からあるのですが割合します)。 そのように、「相対」化される現象というのは、多様なものをそのまま取り込む、そしてその中で多岐にわたって生きる個人が、それぞれの「絶対」を取り込んでいくわけです。先の「聖俗」で述べましたが「絶対」の中に価値を見出していく場合もある。いずれの存在なしでは価値観ひとつとっても成り立たないのです。 ところで「>昔かたぎ」というのは私は好きです。特に今の時代のような何でも機械化、オートメイション化、短略化されている時代に、こつこつと時間をかけてひとつの作品を作り上げていく存在は希少です。が、その世界観が家庭内などの密度の濃い関係に持ち込まれるとそれは「頑固」「旧世代」の価値観になるのもその特徴にあるでしょう。IT時代の申し子のようなあなたはこれからの時代を担っていく人ですし、「>価値観の多様化」とすでにその任務を背負っていくことを自覚なさっているのですから世代交代は自然なことです。お父様の絶対的な価値観は今はぶつかるでしょうが、あなたが新世代を体現していく中で気がつかれると思います。ビックバンによって宇宙が誕生したように、あなたのパッションによってあなた自身の多様な価値観を誕生させていってください、 さて、「>相対的な考えの欠点」というのは、柔軟的に「絶対」的な価値観を譲ることができないということでしょうか?であれば、それは社会に出たとき否応なく思い知らされるでしょう。向こうから挑まれるはずです。それが社会というところです。そのとき柔軟にせざるを得ない、目的をもたざるをえない、ということになります(そこで大人たちは「昔はよかった…」とため息をつき、晩酌にしばし憩いを求めます(笑))。 その欠点ゆえに「>善悪全てを"ソレ"として認めてしまうが故に「目的」や「成長」の意味がなくなってしまう」。これは(考え方が固まってしまわないか?)という危惧でしょうか?前の「目的」が否応なしに持たされてしまう、例えば既成の価値観なるものならば、これだけは譲れないという主体性や情熱によって「ろ過」されたとき、本当の自分が現れてくるのではないでしょうか。だとしたら…個人的には若い人たちには現実を蹴飛ばすよい意味での情熱を失わないでいてほしいと願うのです。 >親父のような人間にはなれないような気がする これは正解でしょう。被扶養者という身分に控えてらっしゃいますが、いずれ独立するのであればそんなの一過性のことと思ってください。いや、それ以前に親にはその義務があります。しかし自らの中に確固として感じるその「絶対性」はあなた自身の固有の個性です。それこそ第二次生徴期特有のみずみずしさです。その自我の芽吹きを自ら摘み取らないでください。またそれを阻むような教育に自ら挑む、それが若さゆえの特権ですし、反抗することによって守られるべきものがあるのです。今は大いに反抗してください(これは「グレる」ことと同義語ではないので誤解しないでね♪)そうすれば取り返しのつかなくなることはないでしょう(←経験者は語る)。 >若さの浪費 いえいえ、立派な若さの証です。若さの浪費とは、鍛えられない思考力が他者(「相対」的な)に単に流されるまま無駄に時間をやり過ごすことです。 また「若さ」は「若い人(年齢的に)」の特権ではありません。死を迎えるまで心という原動力が錆びついていないのであればいつまでたっても「若人」でいられます。この第二次生徴期はその時期特有のものではなく私のようにしばしずっと続いている場合もあります。だからあまり時期的なカテゴリにとらわてしまうのもつまらないと思います。無用の長物と化した「絶対」的基準や指標、マニュアルをゆうゆうとその柔軟な「絶対」性でのりこえてってください。期待してます。 長文失礼しました。最後まで読んでくださり感謝いたします。

stateof---
質問者

補足

( お礼欄では1000文字しか書けなかったので こちらの欄でお礼とさせてください<(_ _)> ) 回答ありがとうございます。 >つまりあなたのお父様と同じようなものですね(笑)。 これはうまい例えですね(笑) 宗教に理屈を求めてもしょうがないように、 親父に理論をぶつけてもしょうがないかもしれません。 "なぜそうなのか"と対立するより、 "そういうモノ"と受け入れて対応した方が 家族戦争において建設的ですね。 >相手の「絶対」をいかにの「絶対」に組み込ませていくか これはつまり相手の「絶対」を 自分の「絶対」で組み伏せるってことでしょうか? 今話題のライブドアとフジテレビの対立を彷彿しました。 あっ!! つまりこれが >頑として「絶対」を崩さないかで社会の様々な特徴が成立する ってことですね。よく分かりました(笑) >「絶対」なるものは、時に「生きづらさ」に通じます。 そうですね。親父を見ていてそう思います。 絶対性を好きになれない最大の理由は 今の親父の姿にあるんですよ。 あくまで自分の「絶対」を通したがゆえに 役職は長年係長止まり。 そして長年勤めた製造の「係長」も 去年、全く経験のない営業の「平」に左遷(?)されました。 俺はこうはなりたくないです。 うちの親は お金の余裕がないと心の余裕もないように感じます。 親父は家の仕事(?)をまったくやりません。 『俺は稼いでるからいいんだ』 と仰いますが、親父の今の収入では家計は毎月赤字です。 母親も必要に迫られてパートに出ています。 そして、最近の親父はなれない営業の仕事が大変らしく 仕事のストレスを家族(特に対立している俺ww)にぶつけます。 自分が招いた結果ともいえるコトで 他人に不快感を与える親父を尊敬できません。 親父自身の矛盾をなくそうとする努力、 家族に協力して現状をよりよいモノにしようとする向上心 がない人を 自分は受け入れることができないのです。 ここから、A NO.3の方が回答してくれたような 「反絶対的な考え」に至ったんだと思います。 >情熱を失わないでいてほしいと願うのです。 情熱・・・、今の自分には残念ながら見つからないのです。 今の日本の世の中は、 "こうはなりたくない!"という人はたくさんいるのですが、 ”こんな人になりたい!!”と憧れる人が少ないと思います。 それに加えて有り余る食べ物、電化製品、情報などに囲まれているおかげで、「欠乏感」というのが感じられません。 「価値観の多様化」によって理念は喪失し、 「モノ」の氾濫によって欲求も喪失してるように思えます。 情熱・・・、欲しいなぁ…(苦笑) >そうすれば取り返しのつかなくなることはないでしょう むむむ、何やら意味深な言葉ですねww >えられない思考力が他者(「相対」的な)に単に流されるまま無駄に時間をやり過ごすことです どっかの有名な哲学者が 【哲学を持たない人々の哲学とは、有力な多数が行っている一切のことに従うという哲学であり つまり、より簡単にいえば、現行権力への服従の哲学なのである】 って言ってますね。 誰なのかは思い出せませんでしたが・・・。 回答ありがとうございました☆

  • sowow
  • ベストアンサー率20% (18/90)
回答No.9

stateof--- 様こんばんわ。 まぁ誰もが、両方の思考法を持って生まれ そして両方使ってるんだから、 どっち寄りが良いか? 自分に向いてるか? って問題になりますよね。(相対的ですね) あくまで傾向ですが 絶対的な人の・・・ 良いところ  (1)さっぱりしてる  (2)行動力がある だめなとこ  (1)実にうっとーしい(そばによるな!)  (2)たいくつ(変わらないから) 相対的な人の・・・ 良いところ  (1)思慮深い  (2)革新的 だめなとこ  (1)実にうっとーしい(じめじめじーめじめ)  (2)たいくつ(行動力がないから) 個人的意見で恐縮ですが、 相対君も絶対君もあんまそばには、いてほしくないですね。嫌いではないのですが。 「妥協」 これです。しましょう妥協。みつけよう妥協点。

stateof---
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >しましょう妥協。みつけよう妥協点。 妥協ですか~、う~む。 自分に自信がないんですよ~、妥協するには。 自分ではうまくバランスをとっているつもりが、 傍から見たら、どっちつかずで使い物にならない ってことになりそうで怖いのです。 とりあえず自分の考え方は統一していたいと思ってます。 ごめんなさい(×_×)

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    かつて俳優の,故勝新太郎さんは「総理大臣の代わりはいても,俺の代わりはいねえんだ」と豪語した事がありました。総理大臣というポストは相対的,勝新太郎というポストは絶対的というわけです。私はその話を聞いた時,他の人では変わる事の出来ないポストはなんだろう?・・と考えた末,それは血を分けた親兄弟であろうと思いました。これには代わりを務められる別の人間はいません。 では恋人,奥さんはどうでしょう?。 私はこれまで,恋愛は絶対論(もしくはそれに近い)という考え方を取ってきました。一生涯で「この人!」と思えるただ一人の伴侶を見つける事。それが恋愛の理想であると考えてきました。しかし現実には実行不可能なのでは?・・と思い始めています。 自分では一人の人に絞ったつもりでも,実際には候補となるべき人はまだ出会っていない人も含めればたくさんいるわけですし,その選択はどこまで突き詰めても完璧なものにはなりません。  一方絶対論者は,相対論に近い立場をとっている人に対しては,懐疑的だと思います。 今自分に交際相手がいないからとりあえずこの人と付き合う,そのうち別にもっといい人が現れればそちらに乗り換えるという行為をなんの後ろめたさも持たずに行う。絶対論に近い立場を取る人たちから見ると,そんな相対論者がとても偽善的に見えるのです。  しかしそうであるがゆえに,結局相対的な判断しかできないと言う結論に達してしまうと,絶対論に近い立場をとってきた私は,選択そのものに自信が持てずに結局誰をも選べない・・・というパラドックスに陥ってしまっています。  異性を好きになると言う行為はそう言うものであると割り切って望むべき物なのか。最近良くわからなくて悩んでいます。

  • こういう考えは古臭い男なんでしょうか?

    私は20代後半の男性ですが最近思う事があります。悩みではないんですが結論から言うと昔気質な所があるんです。元々親(父親)が女は男の後に付いてくるもんだみたいな昔気質な人で昔からそういう環境で育ったせいもあるんですが私自身これがいい悪いは別問題として正直こういう考えに賛成したいという気持ちはあります。今付き合ってる彼女はいますが実際にそういう行動を行っているかといえば別にそうでもありません。このご時世夫婦供働きが当然のような状況で女性もしっかり自立している時代だと思いますが自分の希望としては男は仕事に女性は家庭にという気持ちが強くあります。サザエさん一家のような家庭が理想ですね(笑)。今こういう事を言うと色々言われるかもしれませんので公然と主張はしませんがやはりこういう自分は古臭い考えの持ち主なんでしょうか?ぜひご意見頂けないでしょうか。宜しくお願い致します。

  • 絶対パス(ルート相対パス)での指定でのメリットとは?

    最近大手のwebサイトのソースを見ると、ほとんど絶対パス(/からはじまるルート相対パス)でかかれていることが多い気がします。 これってなにか理由があるのでしょうか?? 色々調べてみましたが中々それといったものがなく、自分の考えとしては、ページ共通の画像やcssファイルなどは確かにそれだと便利で効率はいいだろうなぁ、という感じですが、はたしてそれだけなのか?と思ってしまいます。 よくソースをみるサイトは、apple、sony,macromediaなどです。 宜しくお願いします。

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  • 善行をすることでしか存在を肯定できない人間に、善も悪も絶対的なものでは無い、なんて死刑宣告と同じ?

    その人は、 1誰にも愛されない 2だから自分で自分を愛したい 3そのために善行をする必要が 4しかし善は絶対ではない 5明確な指標がないと動けない(という強迫観念) 6無気力に。 質問 1、困る人を救うには、それを阻む障害、場合によっては人をも裁いていく意識は危険か 2、善行の目的は、あくまでその人の自己満足であって、 しかしそれは容易くなく、過大な結果を求める以上、その人は幸福にはなれないのではないか 3、善悪が相対的なものならば、その時々で、どちらが善か悪か見定める物差しはあるか 4、そもそも、善と悪を分けることは正しいのか、というパラドックスの問題は・・・ 悩めるものに、救いを。

  • 自分の考えが絶対という人とは同接すればいいか

    私は今まで「自分の考えは絶対、自分の力は絶対」って 考える人が大の苦手でありうまく合わせる事が出来ず嫌な目ばかり見てきました。 そう言う人と対立ばかり繰り返し 所属していたクラブを追い出されたり 組織の中で干され続けた事があります。 決まってそう言う人は 周りの受けはいいので みんな助けてくれませんでした。 今はそう言う人はいませんが いつまた身の回りにそう言う人が現れないとも 限りません。 もうこんな嫌な思いしたくありません どうすればいいのでしょうか。

  • 正しさを言い切る根拠について

    私はこの世界において絶対的な善や正しさ(誰がどんな価値観で見ても、どんな状況においても完全に善であるということ)は実はあるにしろそんなものは無いにしろ、なんにせよまだはっきりしていないと思っています。なので正直、あれが正しいこれは良いことだ、という言葉には「(個人的に)あれが正しい(と思う)」「(私が思う限りの社会において)これは良い(と私は思う)」という内容が常に付いて回るように感じています。あらゆるものに影響されない絶対的な価値の存在がはっきりしない以上は、価値はその場その状況により影響される人間の、さらにその価値観によるある種の偏見にも左右されるような相対的なものでしかない。…という考えもやはり絶対的である根拠はないので、全く個人的なものであるのですが。とはいえもし絶対的な何かがあったなら、絶対的であるが故にすべての人がなんの疑問もなくすんなり受け入れているように感じますが、その様なものは思い浮かびません。あらゆる価値にあらゆる疑問がついているように思えるのです。 個人的な見方による(視点が自分にあるにしろ、擬似的に集団にあるにしろ)善悪判断しか今のところ無さそうだ、という意見とは別に、誰か他の人間に対し「これが君にとって絶対正しいんだ」、と胸をはって言い切る人は珍しくありません。いうなれば、「これはあくまでも私個人の善悪判断でしかない(絶対的ではない)」という前提が薄い、あるいは無いというのか。それというのは、例えばどういう根拠からそういった正しさの確信を得たのでしょうか? それとも、善悪に根拠などなくてもいいのでしょうか。それはなぜでしょうか?

  • 考えに選択肢がないから悩んでるん違うんですか?

    感情はその次ではないですか? 自分自身で気づく人世の中には沢山います。でも中には言われて気づく人、言われても気づかない人、真意を真逆に捉えて退化(悪化する)人沢山います。世の中の悩みは増える一方ですよね。個性や本質を見抜かなくてはアドバイスもあまり意味はなさないですよね。あれこれ言い過ぎても自分がが言った常識が絶対正論とは限らないし、仮に正しくても、相手が自分を変えたいと思わなくては只のお節介なんですかね? 私の正論の基準は、自分の考えが自分や他人を不幸にしていないか、迷惑をかけないかです。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。