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江戸初期の言葉
関東の言葉について質問です。今でこそ、東京で話されている言葉が標準語とされていますが、徳川家康が幕府を開いた頃の江戸では、いったい、どのような言葉が話されていたのでしょうか?
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お礼
なるほど。確かに、今でも荒っぽいイメージはありますね。それでも、丁寧語や敬語は、そこそこ関西の影響を受けたフシは感じることはあります。それを思えば、栃木出身の慈覚大師の西暦800年代は、もっと、東国風の言葉を喋っていたであろうことを考えると、京都に上ったとき、外国に来たような感覚になったのではないかと想像するのも、また、面白いものですね(^_^) 参考になるアドバイスをありがとうございました。