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江戸初期の言葉

関東の言葉について質問です。今でこそ、東京で話されている言葉が標準語とされていますが、徳川家康が幕府を開いた頃の江戸では、いったい、どのような言葉が話されていたのでしょうか?

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  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.2

 ロドリゲスが1604年に書いた『日本大文典』には 「、、三河から日本の涯(はて)に至る東の地方では一般に物言ひが荒く、鋭くて、多くの音節を呑み込んで発音しない。、、、シェの音節はささやくようにセと発音される。例えばシェカイ(世界)の代わりにセカイといひ、サシェラルルの代わりにサセラルルといふ。この発音をするので、関東のものは甚だ有名である」(原文はポルトガル語、訳は土井忠生)とあります。  これは京都から見た坂東の言葉ですが、これを171ページに引用した『日本の方言地図』の編者が、家康の血を引いた徳川宗賢なのも、不思議な縁だと思います。  しかし坂東方言地域に江戸時代から、明治にかけて流れ込んだ京阪語でできた言語島が江戸語になったという単純な動きでもないようです。  新井白石も「その幼き比ほひまでは、京の人のものいひ今の如くにはあらず、今の人のいふところは尾張の国の方言相雑なるなり。これは、信長、秀吉の二代うちつゞきて、天下の事、しり給ひしに寄れるなり」    と中村通夫『東京語の性格』に引用された「東雅」の言葉でもわかるように、家康の頃には京都の言葉も変わっていたことがわかります。  その言語形成のいくつkぉあげますと 四つ仮名の混同(ジとヂ、ズとヅ) オ段のの開合の混用 口蓋音の直音化(シェ>セ、ジェ>ゼ) 合拗音の直音化(クァ>ガ、グァ>ガ)  など音の変化と 打ち消しの「ぬ」>「ない」 推量の「む」>「う」  など文法の違いもあります。

tahhzan
質問者

お礼

なるほど。確かに、今でも荒っぽいイメージはありますね。それでも、丁寧語や敬語は、そこそこ関西の影響を受けたフシは感じることはあります。それを思えば、栃木出身の慈覚大師の西暦800年代は、もっと、東国風の言葉を喋っていたであろうことを考えると、京都に上ったとき、外国に来たような感覚になったのではないかと想像するのも、また、面白いものですね(^_^) 参考になるアドバイスをありがとうございました。

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その他の回答 (4)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10523/33084)
回答No.5

神奈川県から多摩地方、秩父地方、埼玉県あたりにかけて「武州弁」という方言がありますので、おそらく江戸初期あるいは戦国時代の江戸周辺の地元民はそのような喋り方をしていたと思います。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B7%9E%E5%BC%81 私もその界隈の住民ですが、有名人でいうと中居正広さんの喋り方が典型的なその界隈の住民の言葉ですね。「~だべ」といい、「~じゃん」という言葉を使い、不愉快なことを「うざったい(うざい、ではなくうざったいです)」といい、面倒くさいときは「しちめんどい」といいます。 志村けんさんが演じた神様が「あんだって?」というのも武州弁ですね。

tahhzan
質問者

お礼

武州弁ですか。初めて聞きました(^_^) 確かに、関東出身でも、微妙な違いがあるのは感じてましたね…ありがとうございました。

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  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.4

 #2です。補足です。 >>なるほど。確かに、今でも荒っぽいイメージはありますね。それでも、丁寧語や敬語は、そこそこ関西の影響を受けたフシは感じることはあります。それを思えば、栃木出身の慈覚大師の西暦800年代は、もっと、東国風の言葉をを喋っていたであろうことを考えると、京都に上ったとき、外国に来たような感覚になったのではないかと想像するのも、また、面白いものですね(^_^)  今しがた、忘れ物を書いたところでした。今でもそうですから、まして800年代は、当時の日本語は各地の方言から成り立っていたと思われます。  僕は、小さい時から父の長崎弁、母の長州弁、母の父の長州弁の上に大工修行で覚えた大阪弁、母の継母の伊予弁、が飛び交う食卓で三度の飯を食べました。  その上、学校や、外では最小公倍数的標準語で育ったので、日本語の重層性に嫌でも気付かされました。

tahhzan
質問者

お礼

凄いですね(笑) それだけの環境で育てられたら、否が応でも言葉に興味は持つでしょうね。ウチの父親は東北出身で関西で人生を終えましたが、生前、東西の文化の違いなどはほとんど口にしませんでしたが、ボソッと、「〜でっしゃろ」という言葉は汚い言葉だなぁ、と関西に来た当時は思った、と知人に話しておりました(笑)

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  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.3

 #2です。忘れ物です。  式亭三馬の『浮世風呂』の二巻に上方と江戸の女性の言い争いが出ています。詳しくは下記などをご覧ください。  https://intojapanwaraku.com/culture/58533/

tahhzan
質問者

お礼

面白いですね。詳しく読んでみます。ありがとうございました。

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  • rikimatu
  • ベストアンサー率19% (629/3298)
回答No.1

徳川家康が幕府を開いたころは江戸城内では三河弁を喋っていたみたいです。 家康が江戸に入ったころは江戸って寒村でそのころ喋られていた言葉(関東弁?)宣教師の記録では一部ですが ・直接法の未来には盛んに助辞「べい」を使う。例「参り申すべい」「上ぐべい」「読むべい」「習ふべい」など ・打消には「ぬ」の代わりに動詞「ない」を使う。例「上げない」「読まない」「習はない」「申さない」など ・移動の「へ」の代わりに「さ」を用いる。例「都さ上る」 ・「シェ」の音節はささやくように「セ」に発音される。例「シェカイ(世界)→セカイ」「サシェラルル→サセラルル」。と言う感じだったみたいです。

tahhzan
質問者

お礼

なるほど… 「べい」は面白いですね(笑) ありがとうございました。大変、参考になりました。

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