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長良川の戦い

今大河で長良川の戦いをやっていたのですが、なぜ道三は信長の援軍が来るのであれば篭城して援軍をまたなかったのでしょうか?

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  • pri_tama
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回答No.2

>なぜ道三は信長の援軍が来るのであれば篭城して援軍をまたなかったのでしょうか?  長良川の戦いでは、通説では斎藤義龍は1万7千の兵力を動員したと言われています。  信長がこの時動員できた兵力は、せいぜい1~3千ですから援軍が間に合っても趨勢(道三の軍勢と合わせても5千程度)は変わりありません…。  (この時の尾張は上四郡を支配する「岩倉織田家」が義龍(斎藤高政)と呼応[清州が攻撃されている]しており、信長が道三救援に固執すれば信長の屋台骨自体が傾きかねない…。)  私も大河ドラマを見ているのですが、質問者様が思った疑問を解消する演出(下記にざっと示します)をなぜNHKがとらなかったのか私的には、ちょっと不満です。  1.信長への「美濃国譲り状」の送付。   (道三が死なないと信長が後に美濃へ攻め込む大義名分が得られない。)    →道三の末子で国譲り状を渡す斎藤利治を排除している…。     (光秀の立ち位置を奪うから?)  2.信長を今回の戦いに巻き込まない為に速やかに戦いを終わらせなければならない。    →道三の話を書く上で良くある、信長(義理の息子)を守るために不利と分かっていても敢えて決戦に及ぶ的な演出が無い…。  3.道三も見抜けなかったが実は、義龍(高政)は凄く優秀(信長が美濃攻略するのは11年も先)だった…。    (斎藤道三の話を書くときに良くある「我が子の器量すら見抜けぬとは…。儂も老いたものよ…。」的なセリフがない・)    →義龍(高政)の技量を認めない。と言うか死の間際でも貶めているような…。  個人的には、今期の大河ドラマは父と子の確執を現時点では強調している様に見えます…。 (信長公記にもある織田信秀(父)の葬儀(抹香投げつけ事件)や平手政秀(育ての親)の自害も扱いが軽いので…。)

jkpawapuro
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回答No.4

道三は信長が義龍に討たれない様に 「援軍はよこすな」と伝令しています つまり信長が来ない事は分かってたと思います まぁそれでも信長は濃尾国境まで軍を進めましたが 義龍の警備兵に阻まれて引き返しました

jkpawapuro
質問者

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  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2207/4896)
回答No.3

>なぜ道三は信長の援軍が来るのであれば篭城して援軍をまたなかったのでしょうか? 日本は自由主義国家なので、教育・思想の自由が存在します。 某反日国家のような「為政者が都合よく作った正しい歴史」は、存在しません。 ですから、歴史には個々の信条・思想などで色々な解釈が出来ます。 この質問ですが、色々な見解・解釈がありますよね。 どれが正解かは、斎藤道三・織田信長を除いて誰にも分かりません。 私の推測としては・・・。 1.斎藤道三は、信長が美濃攻略の道筋をつけたかった。 ※嘘か真か、道三は「娘婿の信長へ、美濃譲渡を計画」していた。 ※斎藤義龍軍に対して、斎藤道三+織田信長連合軍は不利な立場だった。 1.斎藤道三は、「親子喧嘩に、他家を介入させたく無かった」 ※当時の思想では、親殺しは大罪で主教的にも許されない行為。 1.織田信長は、尾張内で一族の抗争・今川軍に備える必要があった。 ※信長軍は、道三援軍は形式的に済ませる必要があった。 まぁ、近くまで信長の援軍が来ている事を道三は知っていたでしようね。 それでも、信長に「直ぐに戦場へ」と要請をしていません。 道三としても、既に「負け戦」を覚悟していたのでしよう。 最期には、信長に自分の夢をかけた!とも推測出来ます。 道三時代の稲葉山城は、多くの(櫓台としての)石垣が見つかっています。 ※城の石垣は史上初で、安土城の手本になった? 道三時代の稲葉山城城下は、多くの商人が自由に商売をしていた。 ※信長が行った「楽市楽座」の前例?

jkpawapuro
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  • makaay10
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回答No.1

この時期の信長は東に今川。国内では一族での紛争激化で長期間の出兵をする余裕がない。他国で長期戦になると戦場で大打撃をうけるか、同族に居城を攻撃されるリスクがあるような難しい状況です。 尾張がそういう難しい状況なのは戦国の雄・道三にも分かるわけで、負け戦に援軍を出してくれた婿の信長に感激し、信長の軍勢に被害を出さないように討ち死に覚悟の出撃をしたってのが歴史小説では多い。 道三が討ち死にする事で「親を討った賊から美濃を取り戻す」って美濃侵攻の大義名分が婿の信長には生まれますし、美濃の国内は一枚岩ではないんで戦後処理に時間がかかり、信長に必要な時がうまれる。それを道三が婿への贈り物とした感じでしょうか。

jkpawapuro
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