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小牧・長久手の戦いにて

小牧・長久手の戦いの際、兵力では不利であった信雄・家康連合でしたが、当時徳川と北条は同盟関係でしたよね。 なぜ北条は援軍を出さなかったのでしょうか? そのころ北条は下野・常陸を攻めていた時期だと思いますが、1583年頃は後北条氏が最大版図を築いた頃ですよね?240万石にも及ぶ広大な領地を持っているなかで、下野・常陸で手一杯だったとは考えられないのですが... 家康が自国領内を通らせることを嫌ったのでしょうか? それとも「所詮上方のいざこざだ。それより今は出来る限り領土の拡張に励み、東国における北条の基盤を確固たるものとすべし。」と考えたのでしょうか? 徳川・北条の強い同盟関係を示しておけば秀吉にも牽制になったと思います。 秀吉が信雄領へ侵攻しても北条が後詰で控えていれば信雄も主力をそちらへ向かわせることができ単独和睦もしなかったと思うのですが。 また長久手の戦いで北条勢が加わることで勝利を早々に確定させ、うまくいけば小牧でも完全な形で勝利を挙げられたのではないでしょうか? もし秀吉が完敗したとなれば北陸の佐々、四国の長宗我部も健在のまま。その後の九州征伐、小田原征伐もなかったと思うのですが。 そこで皆様に質問なのですが 1.なぜ北条は援軍を出さなかったのか? 2.もし北条が小牧・長久手の戦いに加わっていたら、その後歴史はどのように動いたと思いますか? 私の小さな疑問に答えて頂ければ幸いです。

  • No_14
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  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mamahuhu
  • ベストアンサー率47% (137/287)
回答No.5

ご存知の通り、この時期北条家は佐竹・宇都宮連合軍と下野にて対峙してます。 いわゆる沼尻の合戦ですね。これは小競り合いなどと言う物ではなく、両軍合わせて数万の軍が 3ヶ月以上にわたり睨みあっており、そう簡単動ける状況ではありません。 また、越後からの上杉進出にも備える必要があります ただ、北条は徳川に対し、援軍を送るむねの書状は送っております。まぁ、腰の重い北条がそう直ぐに援軍を送るとは思えませんが、 小牧長久手での滞陣が長引けば送ったかもしれませんね。 それによって結果が変わるとは思いませんけれど。 蛇足ながら、北条家の外征能力についてですが。 この前年(天正10年)本能寺の変後、北条氏直は甲斐、信濃を手中にすべく公称5万の軍を率いて碓井峠を越え信濃に入っています。 川中島で上杉軍と睨みあったり、諏訪辺りまで軍を進めてますので、それなりのノウハウは持っているはずです。

その他の回答 (4)

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.4

1.佐竹・宇都宮・佐野ら、秀吉に味方する反北条勢力と下野で戦っていたからです。(中公新書『戦国時代の終焉』参照) 2.北条からの援軍が数千加わったとしても、秀吉との戦力格差は、あまり縮まらなかったので、小牧の陣は史実通りと思われます。その後の小田原攻めにおいて、家康から見限られるのも史実通りでしょう。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.3

最大の原因はやはり「京都(中央)の事情に疎かった」があると思います。北条家は早雲以来一貫して「関東独立」傾向です。今川義元が桶狭間で思わぬ戦死をして、駿河における支配力が日に日に弱まっていくのは北条家も把握していたはずですが最後まで駿河への野心は持ちませんでした。武田信玄が嫡男を切ってまで進出したのに比べると対照的です。 「しょせんは遠いところの揉め事。ウチには関係しない」と思っていたのでしょう。それをいうなら、秀吉の光背を突かなかった毛利家にもいえると思います。 それともうひとつは、北条軍はそういった長期遠征が可能な軍隊ではなかったというのもあると思います。北条軍の戦いはほぼ100%自分の領土内かそれからちょっとだけ出たところです。信玄や謙信のように相手の領土の奥深くまでぐぐっと攻め込んだことなんてありません。御館の乱のときだって援軍を送らなかったくらいです。遠征するための補給組織や運営ノウハウが全くなかったのでしょう。 で、もし仮に援軍したとしてですが、それまで遠征の経験がないですから当然大軍は送れません。せいぜい二千かその程度でしょう。そもそもそんなに積極的な軍隊じゃないですから、ウロウロしているうちに粉砕されたかどっかでぼーとして終ったかじゃないでしょうか。

No_14
質問者

お礼

やはり北条は関東独立を第一方針とし、秀吉の行動が関東に及ぶものではないと判断したのでしょうか? だから小牧に兵を送る必要はないと。 北条勢の長期遠征についてNo.2の方もご指摘されていましたが、天正壬午の乱の際北条は万に及ぶ兵を信濃に進撃させていますよね。 当時としてはあの規模で半年近くに渡り軍を行動させえる行為は「長期に渡り相手領土の奥深くまで大軍で攻め込む」ことにはならないのでしょうか? 稚拙な文章で申し訳御座いません。 回答ありがとうございました。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

人間は自分の願望でものをみるものです。 北条家の基本戦略は、関東制覇といわれています。 後世の人間からみるとわかるのですが、信長=秀吉に独特の世界観は「天下統一」です。そのほかの大名家においては基本的に「地域No1」が目標で、秀吉政権下の家康も大大名連合という地方分権論者でした。この考えは信長=秀吉以外にとっては、常識だったようです。 で、当時の北条家の考えを推測すると。 1582年に武田家が崩壊して織田家が日本の主要部を押さえた。うーん関東も危ない。ところが信長が死んで日本は、100万石から300万石程度の大大名が横に並ぶ(北条家にとってあるべき)姿になったわけです。 そこに、織田家に楯突く、部下秀吉の反乱です。 「やれやれ、また 織田家はこれで核分裂だね」 と、思ったのではないでしょうか。 軍事的には、遠征軍を送る能力の問題です。 後の小田原の戦いで、北条家は「籠城していれば、豊臣軍は撤退する、かつての上杉謙信や武田信玄のように、遠征軍は長期は無理」と判断しました。これは裏を返せば、北条軍も同様に遠征軍を出すことができない体制だったということです。 2に関しては 長久手の戦いは起こらない>軍事的優位性が三河への中入れを誘ったが、正面戦力で大差がなければ、起こらない戦術選択だったから。 長期の対陣で北条家が根を上げる。<遠征軍経験がないから 北条家が根を上げるかどうかが勝負の分かれ目でしょうね。

No_14
質問者

お礼

「北条家にとってあるべき姿になった」 というのはすごい納得しました。 2については回答者様の考えの通り織田・徳川・北条側が軍事的優位に立っていれば長久手の戦いは起こらなかったでしょうね。 お礼が遅くなり申し訳ございませんでした。 回答ありがとうございます。

noname#58790
noname#58790
回答No.1

これは秀吉との対立を深めた織田信雄に対し、家康が3月15日に尾張清洲城を訪ねた折、 「秀吉当国発向あらば、必救ひまいらせ申べし、御心を安給へ」 と協力を誓ったと太閤記にあります。 これはどう見ても身内の揉め事です。 北条はこれに加担する理由がありません。 また、家康が加担するのは勝手ですが、北条まで巻き込むのはどうでしょうか? 織田に組する理由はありません。 北条の国境とは無関係です。 豊臣と敵対する。 こう言う強い同盟になるのは、長曽我部を土佐1国に安堵させ、関白になった時です。 当時は急変にあり、自国を守る事が先であったと思われます。 元より、信雄に組した家康自体が大失態を演じたのではないでしょうか? 秀吉が言葉巧みに信雄を動かすのは明白ですしね。 三法師が無き後は信雄殿が世継ぎなのにこれでは困ります。 などの有りはしない嘘(現在の円天)に騙される人も多いので。^^;

No_14
質問者

お礼

やはり北条にとっては”他人の揉め事”だったのでしょうか? 当初秀吉は信雄を圧迫するのが目的で徳川の所領を狙っていた訳ではありませんでしたよね。 なので「この戦いは関東まで影響はない」と北条が判断したということでしょうか。 早速の回答ありがとうございました。

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