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長篠の戦後の勝頼
長篠の合戦は信玄由来の小うるさい宿老が一掃されたので、陣代武田勝頼にとっては心機一転、再起を図る好機であったと言う評論家もおられますが、果たしてどうでしょうか?隣国には加速度的に増長する織田信長が君臨敵対しており、先進地域の京畿方面は完全に抑えられており、軍備兵制の近代化を図るにしても最新兵器の鉄砲を入手するには信長の勢力圏から買うしかありません。僕には絶体絶命にしか見えないのですが、なぜ好機なのでしょうか?勝頼に生き残る術はあったのですか?
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長篠合戦があったのが、天正3年。武田家滅亡が天正10年ですから、長篠合戦に敗れたからといって武田家は滅亡への道をひた走ったわけではありません。 実際、長篠合戦に敗れたからといって駿河などで徳川方に寝返ったという現象は発生しませんでした。 ちょっと話が横道にそれますが、福島第一原発事故が発生した直後、私はここで「もう原発は終わった。この事故は太平洋戦争のミッドウェー海戦に匹敵するだろう」と書きました。ミッドウェー海戦と状況がものすごく似ていたからです。 でもあの当時、それに賛同してくれる人は誰もいませんでした。ここでの意見のほとんどが「日本に原発は必要」「原発がないと日本経済が続かない」というものだったのです。 何が言いたいのかというと、あれがターニングポイントだったよねというのは後になってから分かることで、その渦中にいる間は「これがターニングポイントになるだろう」とはほとんどの人は気づかないってことなんですよね。 結果として勝頼は、長篠合戦以降に戦術的にも勝利を得られないまま滅亡したので「長篠の敗北が決定的だった」となりますが、その時点ではそう思っていなかった人も多かったと思います。誰もがそう思っていたら、滅亡のときのようにドミノ倒しでみんな裏切っていただろうからです。 http://saavedra.hatenablog.com/entry/2016/11/15/200000 こちらの記事では、武田家の滅亡を決定づけたのは上杉家の御館の乱で北条と対立関係になってしまったことだと指摘していますね。これまた結果論になりますが、上杉景勝は関東に一度も出兵していませんから勝頼としては北条と対立までして景勝の味方についたメリットが何もなかったことになります。 なぜ勝頼が景勝の味方になったのかは分かりません。もしかしたら、上杉家が北条家に乗っ取られる形になると北条・上杉連合軍から攻められるかもしれないというのもあったかもしれませんね。北条家は徳川家康とも同盟していましたから、武田包囲網になることを怖れたというのは十分考えられると思います。 武田家最大版図のときでさえ、織田信長と比べると動員兵力も経済力も差がありすぎでしたからね。人的資源も十分ではない甲斐信濃では、信長軍のような軍事組織にすることも不可能だったでしょう。 武田勝頼の方針は確かに戦略に欠けていてその場しのぎに近かったでしょうが、じゃあ自分だったらどうしたかというと勝頼以上の成果は出せなかったのではないかなと思います。
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- あずき なな(@azuki-7)
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武田家滅亡の原因は勝頼とよく言われますが違うと思います 原因は譜代からの家臣団 最近では勝頼は父・信玄をも凌ぐ実力者で 古参の家臣は信玄より有能な勝頼を認めたくなかったので反目した と言う説が有力になりつつあります と言う事は 勝頼にとって古参の家臣団が居なくなるのは むしろ好機だったのではないでしょうか? 逆に彼が信玄より無能だったら 武田の滅亡は無かった気がします
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回答有難うございます。なるほど、そういう考え方もありますね。勝頼がなまじ有能であったから内と外からフルボッコにされたのでしょうか。
お礼
回答有難うございます。武田領の隣国が織田信長でなく並の大名であったなら勝頼の新府での中央集権化は可能であったでしょう。eroero4649さんが回答で触れられてるように長篠は当にミッドウェーであったと思います。扱いにくい重臣連は戦場の露と消えたが、武田の最精鋭部隊も失ったのです。