- ベストアンサー
長篠の戦いのことで!
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
鉄砲自体は、長篠の合戦(1575年)よりも30年以上前に伝来したとい われています。当然、長篠の合戦より前に、実戦投入されています。 長篠の合戦が有名になったのは、それまでにない規模で鉄砲を大量に 使用したからであります。織田・徳川連合軍の鉄砲は3000丁以上だった という説もあります。 鉄砲の使用は初めてではないが、数千丁単位の大量の鉄砲が使用され たケースは初めてだったので、有名になった……ということです。 もっとも、長篠で大量の鉄砲が使われたというのは織田軍による宣伝 であって、実際には鉄砲の火力は数百丁であったという説もあります。 というのも古戦場の発掘から鉄砲の玉が出てこないからで、勝因は兵隊 の人数と徳川軍の奮戦であったという説も唱えられているそうです。
その他の回答 (3)
- lions-123
- ベストアンサー率41% (4360/10497)
>長篠の戦いのことで! 長篠の戦いが有名なのは、鉄砲を初めて使って戦ったからですか?そうじゃないのならなんでしょう? ↓ その様に思いますが、少し補足しますと(勝者に拠る書物や後世の読本には諸説あり、誇張も含む)戦術戦法、陣備えが、一層、長篠の戦を興味深くさせ、合戦状況&結果を有名にしたのではないでしょうか。 ◇当時、最強と思われていた武田騎馬軍団が織田・徳川連合軍の鉄砲(初めてでは無い)が、史上初、大量に銃列を組み、突撃防止の柵にてたじろぐ騎馬に向け一斉射撃を行った→ (1)新兵器の威力と新戦法 (2)名将&勇将が、名も無き足軽鉄砲隊に討たれる (3)名門武田家崩壊の切っ掛け の面で、時代の変化、主力武器の変化、戦法の変化が、滅びの悲しみ哀れを誘い、その後の天下布武への重要、有名、歴史の転換点となった。
- trajaa
- ベストアンサー率22% (2662/11921)
鉄砲自体はそれ以前から利用されていたが、それを積極的に活用した織田軍と、雑兵の兵器、卑怯な飛び道具として重視されなかった武田軍という構図はある。 その他の要因としては ・それまで戦国最強と見られていた武田騎馬軍団が、一つの会戦でほぼ壊滅した。 ・それまで、各武将毎に小規模な鉄砲隊を分散配備していたのを、鉄砲隊を集中的に配備した ・この合戦によって武田家の衰退が決定的となり、織田徳川連合軍の国内平定が加速した。 と言った幾つかの 要因が重なっているからではないか? 鉄砲三段構えとか、実際はどうだったのか? 信玄の死後に旧来の家臣団と勝頼(とその直臣)との齟齬があるなど、武田家の弱体化はそれ以前から進んでいた。という話も聞いたことがある。 合戦の状況については後世の脚色もだいぶあるのでは無いかと思う、そう言う脚色を加えやすい題材で、その脚色された部分が人々の記憶に残っているという事もあるかと。
- toro321
- ベストアンサー率29% (1222/4138)
初めてではないです。 通説では、鉄砲を、3段構えで使用したからです。 当時の鉄砲は、掃除、火薬込め、玉込め、発射と時間がかかるので、一発撃てば、次の発射まで時間がかかりすぎ、騎馬武者に接近されてしまうのが欠点でした。 それを防ぐために、発射すると後に下がり、2人が撃ってる間に撃てるように準備して、絶え間なく撃つ事によって武田の騎馬を全部討ち取ったとされてます。
関連するQ&A
- 長篠の戦いに負けた理由
武田軍は何故長篠の戦いで敗れたのでしょうか? これまでは織田軍の3000丁の鉄砲の一斉射撃で馬場・山県など名だたる猛将が討ち死にして壊滅し敗れたと言うのが定説でした。 しかし最近では長篠の戦いで鉄砲の一斉射撃は無かった説が有力となっています とすればです いくら信玄亡き後の武田家とは言え高坂・山県・飯富・馬場などの武将が健在であり 完全に織田軍を凌駕していたはずの武田軍は一体何故負けたのでしょうか? 鉄砲がなければ騎馬隊こそが最強ではなかったのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 長篠の戦いはウソなのでしょうか?
会社の同僚がえらく熱く語ってました たぶんNHKの「その時歴史は動いた」って番組だと思いますが 当時の戦いを検証した番組で 鉄砲隊3千で数千人を倒すのは不可能や 騎馬隊といっても当時の馬では乗馬しながらの戦いは不可能など 検証した番組があったそうです 当方は番組を見てないので何ともいえませんが 歴史に詳しい方の中では 長篠の戦いは信憑性が薄いって事になってるのでしょうか?
- 締切済み
- 歴史
- 長篠の戦いにおける鉄砲の使用について
長篠の戦いについて、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説では、「信長は岐阜出発の時点からこの合戦において鉄炮を主戦力として用いることを計画し、3000挺の鉄炮を準備、長篠城の西方設楽原に馬防柵を築いて陣を敷いた。」とあり、また「一般に、この合戦で信長は鉄炮を3段に構え交替で一斉射撃を行う戦法をとったと伝えられている。これに対して、実技上の見地からこの戦法が可能であったかどうか疑問とする説もある。」と記述されています。 https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-107676 長篠の戦いでは、そんなに多くの鉄砲が使用されたわけではないということを何かで読んだ記憶がありますが、そのことは別にして、教えていただきたいのは、「実技上の見地からこの戦法が可能であったかどうか疑問とする説もある。」というのは、どのようなことを言っているのでしょうか???という疑問です。何か、当時の鉄砲の性質に関係しているのではないか???と推測しているのですが、知識がないので見当がつきません。
- 締切済み
- 歴史