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長篠の戦いはウソなのでしょうか?

会社の同僚がえらく熱く語ってました たぶんNHKの「その時歴史は動いた」って番組だと思いますが 当時の戦いを検証した番組で 鉄砲隊3千で数千人を倒すのは不可能や 騎馬隊といっても当時の馬では乗馬しながらの戦いは不可能など 検証した番組があったそうです 当方は番組を見てないので何ともいえませんが 歴史に詳しい方の中では 長篠の戦いは信憑性が薄いって事になってるのでしょうか?

  • 歴史
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みんなの回答

  • runa001
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回答No.11

長篠の戦はあの場所には当方行ったことないのであまり地形的なことはわからないですが、写真や色々な文献で見る限りある程度の規模の戦いはあったかと思われます。鉄砲3千というのはさすがに多いと思いますが千挺ほどは使用されたのではないかと思いますし、三段撃ちも連続は難しいと思いますが、初回の武田軍の突撃自体を封じ込めることは可能だったのではないかと思います。でも鉄砲の射撃のみでは数千人はさすがに倒すのは不可能ですね。有名な侍大将のうち死亡した人で退却戦で倒されたような感じがと思う人が多いということは戦況が不利になり退却してる際に討ち取られたと考えるのが妥当ではないでしょうか?なので信憑性が薄いというより戦い自体はあったのは確かですけどあれほど大量の鉄砲は使用されずにむしろ武田軍の撤退時に織田徳川が追撃をかけて大量に討ち取ったと私は思ってますね。歴史は実際勝者が都合の良いように脚色される事も多いので400年からたつとさすがに真実はわからないので推測の域は出ませんけどね。

  • Pinhole-09
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回答No.10

私も番組を見ていないのですが、No.7の答えのように長篠の戦の否定ではなく、流布されている話と事実は違うという説明と思いますが、それもよく知られている定説にしか過ぎません。 俗に3000挺といわれる織田方の鉄砲は「信長公記」では千挺ばかりと書かれていて、これを挙げる人も多いのですが鉄砲奉行5人なので、普通一組300(~500)挺なので1500挺と見られます。   これに徳川の銃隊300挺とその後の追加(信長公記にあり)を加え、織田徳川軍の鉄砲は約2000挺と見られます。 「信長公記」の写本の中に千挺ばかりを三千挺ばかりと後世書きなおした本があり、これが流布されました。    書き直した人は不明ですが、何らかの根拠ありそうしたと思われ、千よりは大分多いのでしょう。 武田軍の損害について1万2千との説もあり、出軍1万5千が本国に帰れた者3千との俗説からこの差を出したもので、そんなに多くはありません。 「大須賀記」に21日午前11時頃より午後2時頃まで、戦場を取ったり、取られたりしたが、敵は負け戦になり、織田軍も柵より討ち出て、徳川軍と一緒に追撃し、瀧川橋の前まで約二千の首級を挙げた。 とあるので、死傷者はせいぜい六千というところでしょう。 織田徳川の死傷者は千以下でしょう。 ある本によると織田軍は戦後数が六千人減ったとあり、これを損害とした本もありますが勘違いです。    もともと六千人は柵用の丸太運び人夫で非戦闘員です。   織田信長はこの戦のため丸太三千本を用意させ運びました。   通常のように戦場で木を切り大量の丸太を作るのでは、動きの早い武田軍に付け込まれると見たのです。 人夫は柵が出来ると賃金を貰い国に帰りました。 戦場にいた織田軍は二万四千です。   徳川をあわせ武田のほぼ倍です。   半分の数ならやれると勝頼は踏んだのでしょう。 富山県にある「戦国合戦図屏風」は現存する同様の屏風の中では、もっとも古い時期の貴重品ですが、この中に手綱を持たず走る馬上で弓を射る武者がいます。   流鏑馬ですね。   同様薙刀長刀を振りかざす武者、槍を構える武者がいます。    当時の騎乗武士は足だけで馬を操れねば一人前ではありません。    今の人とは修行が違うようです。

回答No.9

歴史は大筋しかわかりません  細かい事柄はまったく想像の世界でしょう 長篠にかぎらず過去の 信憑性というのは裏をかえせば 勝った側が まあ都合よく 作り上げるものですよね 敵将の首を取った場合 勝ち そうでなければ 勝ち負けは その時点で意味がないと思います 戦闘での勝ちと 戦略的な勝ちとは違うとおもいます 何人死んだとか 兵力差とか 非戦闘員まで含んでいいますからね 足軽以上の戦闘員で戦いますので 言われている数は割り引くのが妥当でしょう この戦い 織田側が柵の中にこもって 柵から出づ武田側にしてみれば攻城戦のようですね 野戦とは考えていなかった ですから 通常 短い期間では勝てません 兵力差が少し向こうに有利ですので 野戦なら充分互角だったと考えたいですね 鉄砲への対応もあたりまえながら充分練っていたはずですよね 命かかってるんですから 武田の騎馬 これもね 馬の供給体制がしっかりしていたようですので 騎馬武士は多かったのでしょう 鎧兜で走るよりは すこしはやいですからね ほんの少しですよ 身軽な状態でちょっと足の早い人なら勝つかもね あくまでも重い鎧兜装備の戦闘状態でのことですのでね つまり 移動スピードで他の軍団より有利だったと思えます 相手よりはやく有利な場所へ軍を展開でき また他に余裕をみせつけられるのは この時代 戦闘にいたるまえの戦闘での小さな勝利とかんがえられるでしょう 戦わずして勝つ 相手は体制が整わないうちに 目の前にあらわれるとしたら もう負けですからね  馬は結構高価 田んぼのゆる地なんか 人の重量は重いし 早くは走れんでしょう 後方なら騎乗 前方なら下馬 相手は一向に出てきませんし 出てこない場合 鉄砲 弓の射程外なら ゆっくり休めたでしょうし 駆け引き散々やった上のこと 誘い出すために 一度引き上げの合図で 引いて 設楽で家康にやったように 反転攻勢ならね 長い戦だったと想像できますよね 黒澤監督の影武者最後の場面 長篠で織田鉄砲隊の一斉射撃で あっというまに壊滅したシーンがありましたが そんなふうじゃ なかったことだけは なんとなくわたしにもわかります 信憑性なんか はじめから100%ありません 黒澤監督もこんな一瞬だと考えたわけではなく ひとつの時代の切り替わりを鉄砲という 近代的な武器を使ったのだとね   

noname#77472
noname#77472
回答No.8

こう言う事を言うのはなんですが、この兵力差で戦闘時間が延べ8時間ですので、彼らが(専門家が)想像しているような戦いではなかったと思います。 また、 兵力差は3倍ですので単純な攻撃の場合は被害は1に対して9倍になります。 過半数(5割以上)が損害になると組織的行動が出来なくなる(組織的な壊滅を意味する。) このような理論を踏まえますと、 織田徳川連合軍被害6千 武田軍被害1万2千 実質の理論的兵力差は2倍弱程度であったと推測されます。 兵力差が3倍であったなら、 武田軍は相当な戦略を用いて「逆に被害を最低限に抑え込んだ」 事になります。 また、全滅寸前まで戦闘能力を維持するのは不可能に近く、 組織化、旅団、連隊、分隊化(上級部隊壊滅→下級部隊へ指揮権と兵力が移動など) 速やかに行わなければ戦闘継続自体が難しいです。

回答No.7

「その時歴史が動いた」で長篠の戦を分析した回は私も見ましたが、 長篠の戦は無かったという論点ではなかったと思います。 一般的に映画や絵巻物で描かれているような広大な丘陵地帯で疾走する 騎馬軍団を織田の鉄砲隊が三段打ちで粉砕したという戦況ではなかったと いうことは言っていました。 その理由は長篠の戦の主戦場と伝えられている場所は狭い谷あいで馬が 疾走できる平地は無かった、そこは泥田で火縄銃を持って歩くことは 困難なので三人の打ち手が場所を交代するだけでも相当困難が伴ったと 思われる等々。 このような細かい矛盾点を突く人は昔からおり、長篠の戦についても その反論というか別の説も色々あります。私が知っているだけでも 現場が丘陵の谷間で武田の本陣からは見えない場所で衝突が起こっているので、 情報が正しく伝わらなかったから、武田勝頼は引くべきところを押して しまい、被害を広げたとか、鉄砲の三段撃ちは3人交代ではなく、 筒掃除、玉こめ、打ち手の役割分担で3本の鉄砲を続けて打ったとか、 鉄砲で騎馬軍団を粉砕したというより、秀吉が作った馬防柵とその手前の 落とし穴が効果があったとか等です。 少なくとも東国最強と言われた武田軍団がこの戦いで有力武将の多くを 失い、崩壊に向かったターニングポイントになった戦いですので、 戦が無かったということはあり得ない説です。

  • buchi-dog
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回答No.6

NHKの「その時歴史は動いた」 は、学界で定説になっていないような説を平気で「定説」のように紹介することで有名な番組です。あまり真に受けないで下さい。 このサイトの過去の質問で「その時歴史は動いた」をキーワードに検索すると 「『そのとき歴史は動いた』で**と言っていましたが本当でしょうか」 という類の質問がたくさん出て来ます。 長篠の合戦についてですが、戦場とされる現場に行った人(例:紀行作家の宮脇俊三氏)の多くが 「非常に狭い場所で、ここで武田と織田・徳川合わせて数万の兵が戦ったなど到底信じられない」 と言っています。数万人の兵が入ったら、ラッシュ時の駅のような状況になりそうな山間の狭い平地であるようです。 なお、現在の歴史学界の定説としては 「織田側の三千の火縄銃による一斉射撃で、武田の兵がバタバタと撃ち倒された」 事実はなかった、とされています。 根拠は 1. 「三千丁の火縄銃」の一番古い根拠とされる史料で、「三千」の数字が後から書き加えられたものであり、筆跡が異なる。 本当は「千丁」であったようです。 2. 火縄銃というのは、一発撃つと周りに火花が飛び散り、黒色火薬ですから大量の煙が出るものです。 上述したような狭い場所で、仮に「三千丁を千丁ずつに分けての三段撃ち」をやろうとしても不可能です。隣の火縄銃の火花による暴発、濛々たる煙により視界ゼロ、といったことが起きます。 「三段撃ちは、物理的に有り得ない」ということです。 3. 武田軍の侍大将で討ち取られた者が多くいるのは事実ですが、退却戦の過程で討ち取られた者が多いとされています。いわゆる「設楽川を挟んだ『長篠の合戦の戦場』」で死んだと言われるのは、山縣昌景、真田兄弟など僅かとされています。 なお、「馬上で槍を振り回すことが出来たか否か」についてですが、現存する戦国時代の合戦屏風などの画像史料で、「馬上で刀や槍を振り回している」様子を描写しているものはありません。 一定以上の身分の武士が馬に乗っていたのは確かですが、それは 「戦場までの移動手段」 「指揮するときに、視線が高くなって遠くまで見えて指揮しやすい」 という理由によるものです。 江戸時代の早い時期までに描かれた合戦屏風の類で 「馬上の侍が槍を振り回している」 事例があれば教えて欲しいものですが、そのような例はないはずです。

  • caesar-x2
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回答No.5

もともと鉄砲隊三千人だけで武田軍と戦ったわけではないのははっきりしているどころか、 概算で、織田徳川連合軍が3万、武田軍1万という戦いでした。 3対1なんです。鉄砲があろうがなかろうが、武田軍が勝つ見込みは低かったわけで、 そういう評価が揺らいだことは、一度もありません。 しかも武田側は、酒井隊に背後を襲われ、孤立状態でした。 騎馬隊というのは、素人が、よく騎乗兵の集団だと、誤解しますが、 大半は、歩兵から構成されます。武田騎馬軍団なる言い方はたんなる慣用表現。 馬比率は一般に低く、どこの部隊でも1/5~6程度というのが普通です。 また長篠の戦いでは、織田徳川と武田は双方同程度の被害がでています。 これは端的にいって白兵戦が行われたということであって、 武田側は壊滅しますが、織田徳川は三倍の兵力をもっているわけですから その相対的被害は三分の一ということで勝利するわけです。 当たり前の結果です。 従来から、というか、多くの人が多くの誤解をしてます。 その誤解が間違いというのは当たり前のことであって、 歴史に詳しい人は、もともと間違ってません。 歴史に疎い人の間違いを世間の標準と考えるならば、認識が変わるということになるわけですが、 それはたんにウソが通れば、まことが引っ込むという悪い状態だったというだけで、 正しく歴史を知る人々の歴史的評価自体は全く影響ありません。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.4

私も#2さんのおっしゃっていることは筋が通っていると思います。 >手綱を持って剣や槍を振り回すことができないということなのか、 と言うことに対する反論は戦国末期か江戸時代初期に書かれた足軽の実戦談『雑兵物語』(岩波文庫)に出ています。その本の長柄源内左衛門の段と吉内左衛門の段に騎馬兵と地上の槍擔ぎ(やりかつぎ)との戦いの場面が詳しく描写されていますが、特に吉内左衛門の段では馬上の槍について触れている所が在ります。馬上で槍を振り回していたことは間違い在りません。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.3

まずは以下を御覧いただき http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%80%AC%E7%94%AB%E5%BA%B5 いわゆる通説は旧陸軍の参謀本部が、小瀬甫庵によるフィクション『信長記』を参考に創作したもの(『日本戦史 長篠役』1903)で、日露戦争を目前に「新型兵器は絶対に強い。だからもっと予算が必要だ」とのキャンペーンの一環だったのではないかと、勘ぐることも可能です。 設楽原合戦に参加した織田方の鉄砲の数は、人間的に信用できそうな(実にあやふやな根拠ですが、ホラ吹きの小瀬甫庵よりはマシな)大田牛一の『信長公記』では信長の直轄が千ほどとされており、全体では数千あったでしょう。信長は、あっちこっちから鉄砲衆を寄せ集めてますから、複雑な集団行動は、すぐには不可能なので、三段撃ちはありえません。南北に細長く奥行きのない現地では、狭すぎて無理だという話もありますが。 織田方は堅固な野戦築城を行ない、鉄砲で武田方を寄せ付けぬまま兵の体力を温存し、武田方の後退時に追い討ちをかけたものと思われます。 織田・徳川あわせて武田の倍以上の兵数である休養充分の織田方が、戦いに疲れて逃げる武田方を追い討てば、一方的な戦いになったのは当然かと。 一般的に、馬は高価なので指揮官クラスしか乗れません。井伊家の重臣、岡本半助の記録では、先鋒を務める木俣勢の旗本90人の中で、戦闘を主とする者は42名、馬上の者は数名ですが、それでも馬の口取りは2名います。替えの馬は必須でした。

  • wolfhat
  • ベストアンサー率51% (46/89)
回答No.2

歴史上、「○○の戦い」があったのか?という疑問は他にも出ていますが(例:赤壁の戦い)、長篠の戦いに関してはほぼ従来の説の通りだと考えております なぜなら織田&徳川連合軍の兵の死者の数が少なく、また指揮官の死者がいないこと そして武田軍の多くの指揮官が死んでいること 通常の野戦ですと、戦いが一方的になることはありますが、それは奇襲などの要因が考えられ、その場合、多くの指揮官が死ぬことはないです(桶狭間の戦いも奇襲で今川義元が死んでいるが、今川義元以外の主だった将は織田軍、今川軍共に死んでいない) ですから武田軍の陣頭指揮官の多くが鉄砲によって死ぬような戦いであったことは間違いなく(長篠の合戦の論功行賞で誰が誰を討ち取ったという記録がほとんどない。この当時の戦いでは敵指揮官を討ち取ったら足軽でも名前が残っている)、しかも織田軍&徳川軍の損害が軽微なことから、混戦にならずに一方的な戦いになったと考えられています それまでの従来の戦いからは考えられず、馬防柵と鉄砲を有効活用したとなると合点がいくのです もう一点、武田の騎馬隊というと有名ですが、武田軍にしても軍全体における騎馬隊の割合はそんなに多くないです むしろ武田軍より北条軍の方が騎馬隊の割合は高いです 私もその番組を見ていないので、何を根拠に乗馬をしながらでは戦えないと言っているのかわかりませんが(当時の日本の馬が今よりも小さかったということなのか、手綱を持って剣や槍を振り回すことができないということなのか、などいくつかの説は想像できますが)、当時の戦いにおいて騎馬隊は非常に有効な攻撃手段であり、移動方法でありました ほぼ全ての大名の軍に騎馬隊があることからもわかりますし、乗馬をしながらの戦いができないとなると、戦いの前に全員下馬して戦ったことになりますよね もしそうなら馬はどこに繋いでおくのですか? 馬の管理は誰がするのですか? なぜ予備の馬を連れていく必要があったのですか? など、いくつか合点がいかない点が出てきますので、俄かには信じ難いですね

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