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織田信長の「三段撃ち」は嘘なのですか??
長篠の戦いの鉄砲3000丁は嘘ですか? 鉄砲三段撃ちと、鉄砲3000丁という数字は嘘ですか? 間断なく鉄砲を撃てるという三段撃ちの方法は、異説があるのでしょうか。 また、鉄砲3000丁という数字は大げさな数字ですか。 当時の織田信長ならば、鉄砲の3000丁ぐらいは集められたのでしょうか? 鉄砲隊の活躍がなかろうが、織田の圧倒的優勢な状況に変化がなかったと言う説もあるようですが。
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- あずき なな(@azuki-7)
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長篠の戦いの前 戦場は雨が降ってぬかるんでいたそうです その状況で鉄砲を持って構えてたら足元がおぼつかず 上手く撃てないと思います ただ鉄砲を使ったのは事実の様です 武田方の馬場信春は鉄砲を避けるため 信長軍の背後に回って奇襲を掛けたりしてますから
- cse_ri4
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>長篠の戦いの鉄砲3000丁は嘘ですか? 鉄砲三段撃ちと、鉄砲3000丁という数字は嘘ですか? >間断なく鉄砲を撃てるという三段撃ちの方法は、異説があるのでしょうか。 ウィキペディアからの引用になりますが、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 織田軍のそろえた鉄砲数には、異説があります。 ですが、鉄砲をかき集めたのは事実とみてよいと思います。 私は、太田牛一の「信長公記」の千数百丁説を支持します。 揃えた鉄砲については、集団運用(いわゆる三弾打ち)をしたと見ていいでしょう。 なぜならば、鉄砲の交代射撃は信長の独創ではなく、それ以前に本願寺攻めで雑賀勢から、食らった経験があるからです。 一説には、雑賀は五弾打ちをしていたとの説があります。 >鉄砲隊の活躍がなかろうが、織田の圧倒的優勢な状況に変化がなかったと言う説もあるようですが。 そうです。信長は鉄砲の交代射撃だけで勝ったのではありません。 それ以前に、長篠の戦の前哨戦として、鳶ヶ巣山の攻略をしています。 鳶ヶ巣山の砦を徳川家の武将の酒井忠次が攻略することで、武田軍は退路を断たれて、信長と決戦するしかなくなりました。 さて、本番の長篠の戦では、信長は鉄砲の交代射撃の他に、事前に野戦築城を自陣に施していました。 武田軍は、いわば簡易の城攻めをするのと同じこととなり、数で劣っているのに加え、さらに負荷がかかったわけです。 この戦術は、後の豊臣秀吉と徳川家康にも引き継がれ、小牧・長久手の戦いでは、両者ともに野戦築城を施して対峙します。
- eroero4649
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よく映画やドラマで三段撃ちが再現されていますが、あれは散々その練習をして、そのうえ何テイクも撮っています。 戦国時代の兵士はそこまで訓練されていた集団ではありませんでしたし、戦場で「やり直し」はできません。もしやろうとしたらむしろ大混乱になる可能性もありますね。 長篠合戦当時に織田信長が何丁の鉄砲を保有していたか分かりません。当時はそういうのをきちんと統計にとることもありませんでしたし、そもそも鉄砲というのはある種の消耗品です。使っているうちに熱で銃身が割れることもあるでしょうし、戦場で乱暴に扱っているうちにどこかにぶつけて曲がることだってあるでしょう。雨などで錆びてしまうこともあります。 そのうえ鉄砲を扱うのは身分が軽い足軽です。危険だと思ったら重い鉄砲なんて放り投げて逃げることでしょう。 ただ長篠合戦のときは、当時合戦には直接参戦しなかった明智光秀の軍勢から鉄砲隊だけ集められたりしたので、意図的に相当数の鉄砲が集められたのは間違いなさそうです。 逆にいうと、そこには各隊から集まった寄せ集めの鉄砲隊がものすごい数がいたということになるので、それらが秩序だって三段撃ちをするというのは無理だったと思います。 >鉄砲隊の活躍がなかろうが、織田の圧倒的優勢な状況に変化がなかったと言う説もあるようですが。 はい。武田勝頼の軍勢はおおよそ1万5千くらいでした。これは武田軍の全軍に近い数です。勝頼はほぼ全軍を集めていたといっていいと思います。 一方の、織田・徳川連合軍の総数はおおよそ3万くらいでした。つまり倍。ときどき「織田は弱兵で武田は精強だから、倍くらいでちょうどいい」という説を唱える人もいますが、織田は弱兵だったとしても徳川軍は武田軍に匹敵するくらいに精強です。三方ヶ原合戦では武田信玄に散々に打ち破られながらも、主だった武将を誰も失っていません。徳川軍は6千から8千くらいいたといわれていますのでそれを差し引くと武田軍に最大に有利に考えても、織田軍との戦力比は9千対2万になります。 信長は武田軍が決戦を回避して撤退するのを警戒して、息子の信忠の軍勢を山の後ろに隠しました。信忠軍は合戦に参加しないまま予備兵力で終わっています。 しかしかといって織田軍に突撃した勝頼を突撃バカと批判することもできません。武田家は圧倒的な軍事力と経済力を持つ織田・徳川連合軍に対してジリ貧状態で、少しずつではあるものの確実に徳川方に寝返る武将が増えてきました。また武田家中も勝頼派と反勝頼派の対立がありました。反勝頼派が徳川ないし織田に寝返るリスクはゼロではありませんでした。 また勝頼は父信玄が攻略できなかった難攻不落の高天神城を攻略するなど優れた野戦指揮官でした。本人も合戦には自信を持っていたと思います。 なので勝頼としては決戦を回避する信長・家康をどうにか引きずり出して自分が得意とする野戦に持ち込んで一発逆転勝利を得たいという思いが強くありました。そもそも、長篠城に攻め込んだのも織田・徳川連合軍の後詰を引き出して決戦に持ち込むためでした。 だから勝頼としては後詰で信長自身が出てきたと聞いたときは「しめた!遂に決戦に持ち込める!」という思いもあったはずです。 でもその兵力差は圧倒的で、まあ変な話決戦になってしまった時点で勝頼の敗北もほぼ運命づけられたようなものでした。勝頼が勝利するには「信長が苦し紛れに決戦に出ざるを得なかった」という状況に持ち込むしかありませんでしたが、信長は満を持しての出馬だったのです。 つまるところ、戦術面での勝利を目指した勝頼に対して、信長は戦略面で既に勝利を得ていたといえると思います。 しかし長篠合戦の敗北によって勝頼は父信玄も結局手を付けられなかった家臣団の改革を行うことができ(皮肉にも古い家臣たちがみんな死んじゃったので改革の支障がなくなった)、ある種の典型的な大企業病だった武田家の変革を進めることができました。 武田家の滅亡は、長篠合戦の7年も後になってからです。信長の優先順位が低くなったので放っておかれたという面もありますけれど、一敗地に塗れながら勝頼は頑張ったと思います。
- jj-grapa
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- jj-grapa
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 司馬遼太郎(覇王の家)、新田次郎(武田勝頼)には長篠の戦いの場面が出て来ますが鉄砲3000丁と言う記述は無かった様に思います 新田次郎の武田勝頼と言う小説には、江戸時代に色々の本が作られ内容も変えられ「甲陽軍鑑」が作られ、これは史書では無く所謂兵軍書の類であると書かれています 信長は堺を抑えていたので大量の鉄砲の調達は可能だったのではと思います、色々の歴史小説、作家の味方、或いは時代の進展と共に新たな発見も出て来ているのでは…と思います
- jkpawapuro
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>長篠の戦いの鉄砲3000丁は嘘ですか? 嘘と証明できるわけではないが非合理的。再現するとうまくいかない。 >鉄砲3000丁という数字は嘘ですか? わかりません。 >異説があるのでしょうか。 もし何かやるなら鈴木 孫一のやり方、射撃手の後ろに弾込め要員二人つけて三丁の鉄砲を一人が撃つほうが合理的でしょうね。 >当時の織田信長ならば、鉄砲の3000丁ぐらいは集められたのでしょうか? あっても不思議ではないと思います。 >鉄砲隊の活躍がなかろうが、織田の圧倒的優勢な状況に変化がなかった そうですね。 城攻めの最中に援軍が到着し守勢のほうが兵力大、要塞線(馬防柵)構築まで成立。 普通攻める側が兵力が多い必要があるのにむしろ武田側が少ない、攻める側が寡兵では話になりません。