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長篠の合戦

長篠の合戦 教科書に織田信長の3000丁の鉄砲の前に武田家の騎馬軍団が敗れ去った。と書いてあります。 長篠の合戦で武田勝頼側にも300丁ほどの鉄砲が、プレイステーション1の合戦ゲーム、戦乱で載っていたのですが武田家も300丁ほどの鉄砲を有していたということは勝頼にも鉄砲の恐ろしさは知っていたはずなのですが、なぜ15000しかない兵力で、40000の織田側に決戦をしかけたのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • teccrt
  • ベストアンサー率35% (91/257)
回答No.7

No.5さんほど、希望を捨て切っていたのかどうか分かりませんが、少なくとも武田軍に2種の焦りがあって、勝てる見込みが決して高くない戦を敢えて行った点はほぼ間違いないのではないかと思います。 まず、織田家と武田家の勢力差がありました。 信玄が没する頃ですら武田家は石高では負けていたのに、勝頼の代にはその差はますます広がりました。勝頼が無能だったというよりも、織田信長の勢いに加速がついて止まらない状態だったのでしょう。片や、勝頼は勢力を伸ばそうにも北条・上杉・織田(徳川)に囲まれながら旧来のような農閑期のみの戦をしていたので、高天神城などの一地域を攻略するのがやっとという状態だったと思います。 そういう流れの中で、「上杉と北条に東と北をふさがれている以上は、いずれ織田と戦わなければじり貧になる。」という思いは武田家中枢にあったことは間違いないと思います。 この流れを打開すべく、織田家に寝返った長篠城を攻略しようと大軍を送り込みましたが、ここでもう一つの誤算が生じました。 織田家の本隊が来ることは想定していたでしょうが、No.5さんの言う通り、落城寸前と思っていた長篠城を落とせなかったばかりか、抑えに置いていた軍勢も破られ逆に長篠城と織田家本隊に挟まれる形になってしまったのです。 もともと寝返った長篠城を討つ目的の出兵だったのに、城も落とせず織田家と戦いもせずに引き返せば三河地方の味方もこぞって寝返ることが目に見えてます。まして、1万5千もの大軍を北の細い道を通って信濃へ退却させるには時間がかかりすぎ、戦わずに無傷で退却することも不可能。 となると、残された選択肢は必然的に「一か八か敵主力を攻撃する。」敵がひるめばあわよくばほぼ無傷で退却、直接対決で6分勝ちなら城は落とせなかったが織田の大軍と同等以上に渡り合ったとして味方の動揺を最小限にできる。戦いで敵を崩せずに自軍がそれなりのダメージを受けても、もともと退却戦で大きなダメージを負うことは必至だと考えれば、戦った分だけ得だし、相手を疲弊させれば少なくとも追撃を受けて信濃に織田軍がなだれ込むという最悪のシナリオは避けられる、という考えだったのではないかと思います。

その他の回答 (6)

  • kimari14
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回答No.6

まず最初に武田に騎馬隊及び騎馬軍団なるものは存在しません。 馬は高価で、戦闘では後方へ避難させています。 それに、乗ったまま、斬り合いなんかしませんよ。 アラブやサラブレッドじゃありませんよ。ロバを軍馬 に調教したものと思ってちょうどいい。 次に、最近の発掘調査でも織田の鉄砲3000丁咆哮と言われるほどの 弾丸がでてきません。三段構えの三段撃ちもあったかどうか? 次に、もちろんどこの大名も鉄砲の威力は認知していて、その対処 方法と防御はそれなりに開発していました。たとえば、竹を40~50cm ぐらいの太さに束ねてそれを前に楯として、じりじり前進する。 だから、この戦も簡単には済んでいませんね(長時間かかった)。 野戦の兵の強さは、三河兵を除いて、織田兵の非力さは調査済み。 ですから、織田側は柵を作って砦のように内に布陣したわけでしょう。 巷でいわれるように、内応者がいたとか、斬新な鉄砲の使用方法とか。 信玄世代と勝頼世代の抗争の内部意思不統一の結果。 そうでなければ、なんでこうも簡単にさそいだされたのか?いろいろある。 当然、軍議や評定で相当な検討がなされたはず、斥候物見の報告 織田、武田の動き、各陣営の取得情報、検討状況が時系列に 証明できれば、どこの時点で、君の疑問である無謀な決定が なされたかがわかるでしょう。 ところがそれがわからない。 どこかできいたようなことを もっともらしくは語っていては、歴史のダイナミックさを 味わう事ができない。が その答えは案外 いまの権力闘争とそれほど変わらないんじゃないかと。

  • Baku7770
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回答No.5

 長篠の戦いは、桶狭間の戦いと並んで日本の歴史に大きな影響を与えるきっかけとなった合戦であるにも関わらず、詳細がわからない合戦です。  諸説ありますが、私が聞いている範囲での最新の学説を紹介します。    まず、酒井忠次率いる別働隊が明智城包囲軍を強襲。そのため武田軍は織田・徳川連合軍本隊と対峙していた武田軍は連合軍本体と別働隊+明智城守備軍により包囲される形となりました。鉄砲の多寡に関わらず、織田・徳川連合軍の兵力は武田軍の3倍あったことはほぼ史実と見られています。これでまともに戦っても勝ち目はありません。  別働隊が明智城包囲軍を強襲する以前、武田軍は撤退ルートとして明智城を迂回するルートを想定していました。つまり、明智城を包囲しながら東に撤退しようとしていたのが塞がれたのです。武田軍には北から信濃を抜けて撤退するするルートしか残されていません。  このルートは両脇が山で囲まれた細い谷筋であり、撤退するとしても両方の山から攻められたらひとたまりもありません。そこで窮余の策としてとられたのがいわゆる長篠合戦、厳密には設楽原決戦だというのが最新の説です。  つまり、従来考えられているような武田軍が織田・徳川連合軍本隊に決戦を挑み切り込んで行ったのではなく、勝頼ら武田一族を安全に逃すための陽動作戦だったという説です。  この説を証明するような文献が残されていませんが、この説だとWikiに書かれている疑問点のいくつかが説明できます。 >中央部隊の親類衆(特に重鎮。叔父・武田信廉、従兄弟・穴山信君、武田信豊)の早期退却による中央部の戦線崩壊  これはまさに武田軍の作戦を示す証拠と見られます。元々中央部隊は戦う予定は無く左翼、右翼の譜代の部隊が陣を展開し足場を固めた段階で撤退する作戦だからです。 >武田軍は朝から昼過ぎまで数時間にわたって鉄砲の射程内に留まり、ひたすら掃射を受けていたこともおかしい(火縄銃の有効射程は50-100メートル)。『信長公記』の記述では柵から出入りしていたとあることから、いずれにしても通説は非常に疑わしい。  譜代の部隊は親類衆を逃がすのが目的ですから、ひたすら掃射を受けても設楽原に留まっていた。と考えられます。    最後に、武田軍にとって最大の誤算であったのは一般に言われている馬防柵や鉄砲ではなかったというのも最新説の特徴です。最新説によると武田軍の作戦を拒んだものは織田・徳川軍との間に広がった水田であったとされます。質問文にあるとおり武田軍も鉄砲を有していましたから、その恐ろしさも欠点も研究していました。  騎馬軍団の存在は疑われていますが、軽装備の足軽を含め水田を移動する際は足を取られます。機動力を奪われひたすら鉄砲の的となる。つまり人の壁であり続けるしかなかったのだろうと考えられます。    冒頭に書かせていただいたとおり、長篠の戦いについては確実な歴史資料が残されていません。そのため推測に頼るしかありませんが、私は従来の説よりは真実に近いのではと考えています。

  • jkpawapuro
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回答No.4

長篠の合戦は梅雨明け時の湿気った時期で、雨が降ったりやんだりの天候だったかと思います。 織田軍の鉄砲に対する慣れ(火薬の湿気対策)が、武田の想像以上であった可能性もあります。 勝ち目が薄いといえば薄いでしょうが、今の時期に織田を決戦で叩かないと、もう膨張する織田家に対抗するタイミングは失われます。 座して死を待つか大博打を打つか、この状況で年寄り連中が反対したところで、若手からしたら今戦わないでどうするといった空気になるのは当然かと思います。 特に織田や武田の本質は、戦争前に徹底的な調略を仕掛けて、相手をガタガタにしてから軍を発します。 織田相手に守りの戦を選ぶのも下策でしょう。 今をしのげばいずれ状況は好転するかも知れない、これは弱小時代を生き抜いた経験のある武将ならあるでしょうが、生まれながらに超名門の強国として育った若手武将達が、そんな運を天に任せるような選択を受け入れられないのは、不思議ではないと思いますが。

noname#140208
noname#140208
回答No.3

自分も歴史には詳しくありません。 しかし3000丁の鉄砲の3段攻撃には疑問を感じます。しかも馬防柵の外で打ちかけているのも変です。信長側の鉄砲はもっと少なく散発的だったのではないでしょうか。 勝頼としては、高天神城を落として武田軍不敗は更新されているし、家康との小康状態も打破したいと思っていたでしょう。 長篠でも騎馬(騎馬隊ではない)を中心に中央突破を敢行すれば、数は問題ではなく、敵は総崩れになると見ていたと思います。 重臣みな反対というのも本当でしょうか、主人への諂いかもしれませんが、多くの幹部将校は中央突破に賛同していたのではないでしょうか。鳶の巣山襲撃など信長の後方錯乱もあったでしょうが。 勝頼としては1千の鉄砲でも騎馬軍団の撃破力で粉砕できると過信し、多くの寵臣、中級指揮官らがそれに賛同した結果だと思います。

  • coool4697
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回答No.2

元々、長篠城は武田家家臣であった奥平貞能の城で両軍の最前線。 武田信玄の死に際し、1573年8月、一族郎党を連れて徳川方へ寝返り、家康は長篠城に奥平貞昌(子)を配した(500の寡兵と200丁の鉄砲や大鉄砲) 2年後の1575年4月、武田勝頼は1万5000と号する大軍を率いて長篠城を包囲。 貞昌の家臣・鳥居強右衛門が密かに脱出し、川を泳いで下り、岡崎城の家康に後詰を要請。 帰路、鳥居強右衛門は捕まり処刑されるが、援軍が来ることを長篠城に伝わり、籠城。 信長軍3万と家康軍8000が到着、鉄砲隊を主力として、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術。 信玄時代からの重鎮は撤退を進言。勝頼は決戦を決定。 長篠城の牽制に3000ほどを置き、残り1万2000を設楽原に向けた

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
noname#155097
noname#155097
回答No.1

当時の認識としては鉄砲の兵器としてあまり重視されてなかった。 確かに鉄砲の威力は一つの兵器としての威力は認識していたものの、 実際の戦闘では戦局を左右するほどのものではなかったと 考えられていた。 (種子島銃は雨が降ったら使い物にならないなど。。) 長篠の戦で初めて信長が考案した三段撃ちなどの戦法で、 戦局を左右するほどの兵器として活用されるようになった。 というのが通説です。 (最近はこれにも異論が出されているようです) 武田軍は騎馬兵力主体で足軽主体の織田軍など物の数ではないと 考えていた。ということでしょう。

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