- ベストアンサー
長篠・設楽が原の戦い
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
山県昌景 VS 本多忠勝 馬場信春 VS 原田直政家臣岡三郎左衛門(一説には河井三十郎) 内藤昌豊 VS 朝比奈泰勝(今川氏真の家臣) 榊原康政・大須賀康高との乱戦にて
その他の回答 (1)
- Pinhole-09
- ベストアンサー率46% (597/1294)
山県昌景、真田信綱、昌輝は鉄砲隊により。 馬場信春は岡三郎右衛門(左右の違いですが)。 内藤昌豊は前答えと同じ。 との説もあります。
関連するQ&A
- 「センゴク」における長篠・設楽ヶ原の戦いについて
週間ヤングマガジンで連載中の「センゴク 天正記」は毎週楽しく読ませていただいています。 特に、姉川の戦いにおいての新説は目から鱗でした。 さて、そんな「センゴク」ですが、長篠・設楽ヶ原の戦いの記述を非常に楽しみにしていましたが、どうも最後までよく分かりませんでした。 というのも、織田・徳川連合軍の勝利(武田軍の敗北)理由がよく分からないのです。 先陣を切った真田兄弟が潜伏していた明智光秀を始めとする織田軍の主力鉄砲隊に殲滅(致命的というより、生存者がいないほどの全滅っぷり)されたのは分かりました。 そのことによって、武田軍が大打撃を受けたのも分かります。 しかし、すぐさま武田軍が全軍撤退となった理由がよく分かりません。 (鉄砲隊を除けば)おそらく連合軍の主力最強主力である徳川軍は徳川軍は山県昌景が抑えており、 その他の部隊は(兵隊の練度でいえば)武田軍の方が上回っていると思います。 (織田軍は兵農分離が進んでいるとはいえ、「弱い」と認識しています) 「センゴク」の描写では、長篠城を酒井忠次に奪われたことは、 むしろ武田軍の利であるような描写をしていますし、 それまでの山県昌景、馬場信房を始めとする武田軍の活躍の描写を見る限り、 「先陣の真田軍の全滅→全軍の撤退」 と直結することに違和感を覚えます。 「武田軍撤退の理由」について、ご存知の方がいらっしゃいましたら、 教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 長篠の戦いに負けた理由
武田軍は何故長篠の戦いで敗れたのでしょうか? これまでは織田軍の3000丁の鉄砲の一斉射撃で馬場・山県など名だたる猛将が討ち死にして壊滅し敗れたと言うのが定説でした。 しかし最近では長篠の戦いで鉄砲の一斉射撃は無かった説が有力となっています とすればです いくら信玄亡き後の武田家とは言え高坂・山県・飯富・馬場などの武将が健在であり 完全に織田軍を凌駕していたはずの武田軍は一体何故負けたのでしょうか? 鉄砲がなければ騎馬隊こそが最強ではなかったのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田家四天王について・・・
武田家の四天王(馬場信房・内藤昌豊・高坂昌信・山形昌景) は高坂を除いて長篠の戦いで討ち死にしますが、 その子孫たちはどうなったのでしょうか? 一族すべて滅亡したのか、大名になったのか、旗本になったのか? 教えて下さい。
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田信繁、長篠の戦い?
武田家臣団という本を読んでいる中で疑問に思ったのですが。 「信玄の死後徳川家康が長篠を包囲。勝頼は出兵を決意。 小山田信茂、土屋昌続、武田信豊らを三河に。 山県昌景、一条信龍、武田信繁、穴山の不気味を北遠江に出陣させた。 この時信繁が徳川家臣の本多重次、忠勝、榊原康政らに押され…」 という部分があるのですが、この記述は何かの間違いなんでしょうか? 武田信繁は川中島第四回で討ち死にしているので、信玄の弟である 武田信繁が長篠にいるはずはないと思うのですが。
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田家臣の「昌」の字
飯富虎昌、山県昌景、高坂昌信、内藤昌豊、真田昌輝、真田昌幸…。武田家臣には「昌」の字が多いですが、これは誰かからの偏諱を受けているのでしょうか? 主家である武田氏にも足利将軍家にも「昌」の字を持った人がいないように思うのですが…。
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田最強は、捏造ですよね?
武田最強は、捏造ですよね?信長公記巻八 4、長篠 三州長篠御合戦の事 このように武田勢が総軍入れ替わりで突入してきたのに対し、織田・徳川勢は一将たりとも前に出さず鉄砲のみで応じた。そして足軽であしらいつつ徐々に敵勢を追い崩し、そのあとで人数を突入させていった。五番手には馬場美濃守信春勢が押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが、結果は上と同様であった。 5月21日日の出の刻から始まり、織田勢が東北東をさして戦ったこの戦は未刻(15)まで続いた。その間武田勢は諸卒を突入させたが、そのたびに織田・徳川勢に討ち果たされて次第々々に無人となっていった。それでも生き残った将兵は武田勝頼の旗の下に集まり、敗戦を悟って鳳来寺の方角へ退却をはじめた。信長公はそのときを逃さず、陣をくずして総軍を乱進させ、これを追撃した。 この戦で討ち取られた首は、よく見知られた分だけでも山県昌景、小幡信貞、横田備中、川窪備後、真田源太左衛門信綱、土屋惣造昌次、甘利藤蔵、杉原日向、名和無理介、仁科、高坂又八郎昌澄、奥津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場信春など多数にのぼった。なおこのうち馬場信春の働きは比類のないものであった。この者達をはじめとして武田勢はこの一戦で数多の将兵を失い、討死した者の数は一万にも達した(16)。その中には山に逃げ入って飢え死にした者や、橋から川へ落とされて水死した者も多く含まれていた。
- 締切済み
- 歴史
- 長篠合戦 武田軍の敗因は?
長篠の合戦で武田軍は何故敗れたのでしょうか? そもそも織田信長による鉄砲隊の一斉射撃は無かったわけだから だとしたらいくら勝頼が愚将でも山県や飯富、馬場美濃に高坂といった武田二十四将や 甲陽五名臣といった最強クラスの武将が そうあっさりと織田 徳川軍に負けるでしょうか? 織田軍には当時 中国計略中の羽柴秀吉や北陸で戦っていた柴田勝家 前田利家らのエース級の武将が不在だったわけで どう見ても織田軍に勝ち目はなさそうなのですが…
- ベストアンサー
- 歴史
- 馬場信春(信房)の龍朱印状について
Wikipediaによると、【(馬場)信春の発行した竜朱印状は確認されておらず、実際の信春の武田の軍政におけるその地位は不明である。】そうですが、私の実家には第四次川中島の戦いでの功績を讃えた内容と思われる馬場信房名義の感状(龍朱印状、永禄4年十月日)があります。 これは価値のあるものではないかと思うのですが、詳しい方がいましたらどこに鑑定に出せばいいかなどアドバイスをお願い致します。
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田氏家臣の「昌」について
武田信玄・勝頼の家臣の名前を見ますと、「昌○」という例が目につきます。 山県昌景 高坂昌信 (史実では春日虎昌?) 内藤昌豊 原昌胤 真田昌幸 土屋昌次 小幡昌盛 普通に考えれば、武田家当主の偏緯を受けたのだろうとなりますが、武田信玄の名は「晴信」です。信玄の初名が例えば「信昌」で、足利義晴の偏緯を受けて「晴信」としたのであれば納得できますが、そんな史実は聞いたことがありません。 「昌」の由来をどなたかご存知ないでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史