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武田家臣の「昌」の字
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「昌」の偏諱は武田氏16代当主、武田信昌のものだといわれています。 世代でいうと、武田信玄の3代前にあたります。 甲斐武田氏は室町時代から代々甲斐守護の座にありましたが、戦国初期において 甲斐国内の有力豪族をおさえ国主としての座を確立したのがこの信昌の代といわれています。 その経緯として、甲斐国内の豪族たちに「昌」の偏諱を与えていたのかもしれません。
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- takeko85
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16代 信昌 17代 信縄 18代 信虎 19代 晴信(信玄) 16代 信昌からの偏諱と言われています。信虎は自分が追放した人物ですし、信縄はすぐに病死した人物で、自分から近くて名君といわれてるのは信昌になります。「晴」は将軍 足利義晴からの偏諱ですから与えることはできません。 また、「信」は武田家の通時なので親族ぐらいしか使えません。
お礼
そういう事情で信昌がクローズアップされてくるわけなんですね。確かに「晴」も「信」も与えることはできないでしょうね。 御回答ありがとうございました。
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お礼
信玄の三代前というとあまり馴染みが無いですね。山県や高坂が活躍した時代にはもうこの世にはいなかったわけで、貰った方も実感が薄かったのではないか…といろいろ考えてしまいます(笑)。 明確な御回答ありがとうございました。気になっていたことが晴れてすっきりしました。