• ベストアンサー

武田家臣の「昌」の字

飯富虎昌、山県昌景、高坂昌信、内藤昌豊、真田昌輝、真田昌幸…。武田家臣には「昌」の字が多いですが、これは誰かからの偏諱を受けているのでしょうか? 主家である武田氏にも足利将軍家にも「昌」の字を持った人がいないように思うのですが…。

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • dogsiva
  • ベストアンサー率32% (92/279)
回答No.1

「昌」の偏諱は武田氏16代当主、武田信昌のものだといわれています。 世代でいうと、武田信玄の3代前にあたります。 甲斐武田氏は室町時代から代々甲斐守護の座にありましたが、戦国初期において 甲斐国内の有力豪族をおさえ国主としての座を確立したのがこの信昌の代といわれています。 その経緯として、甲斐国内の豪族たちに「昌」の偏諱を与えていたのかもしれません。

indians
質問者

お礼

信玄の三代前というとあまり馴染みが無いですね。山県や高坂が活躍した時代にはもうこの世にはいなかったわけで、貰った方も実感が薄かったのではないか…といろいろ考えてしまいます(笑)。 明確な御回答ありがとうございました。気になっていたことが晴れてすっきりしました。

その他の回答 (1)

  • takeko85
  • ベストアンサー率65% (148/225)
回答No.2

16代 信昌 17代 信縄 18代 信虎 19代 晴信(信玄) 16代 信昌からの偏諱と言われています。信虎は自分が追放した人物ですし、信縄はすぐに病死した人物で、自分から近くて名君といわれてるのは信昌になります。「晴」は将軍 足利義晴からの偏諱ですから与えることはできません。 また、「信」は武田家の通時なので親族ぐらいしか使えません。

indians
質問者

お礼

そういう事情で信昌がクローズアップされてくるわけなんですね。確かに「晴」も「信」も与えることはできないでしょうね。 御回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 武田氏家臣の「昌」について

    武田信玄・勝頼の家臣の名前を見ますと、「昌○」という例が目につきます。 山県昌景 高坂昌信 (史実では春日虎昌?) 内藤昌豊 原昌胤 真田昌幸 土屋昌次 小幡昌盛 普通に考えれば、武田家当主の偏緯を受けたのだろうとなりますが、武田信玄の名は「晴信」です。信玄の初名が例えば「信昌」で、足利義晴の偏緯を受けて「晴信」としたのであれば納得できますが、そんな史実は聞いたことがありません。 「昌」の由来をどなたかご存知ないでしょうか。

  • 武田家家臣の昌の字

    武田晴信の時代の武田家家臣には昌の字を持つ人物が多くいます。 晴信の奥近習6名全て昌の字を名乗っています。 真田昌幸、曽根昌世、土屋昌次、甘利昌忠、長坂昌国、三枝昌貞(守友)です。 また、他にもこれらより年長者で山県昌景、小山田昌行、飯富虎昌 がおりこれらの家臣の兄弟に真田昌輝、土屋昌恒などいます。 この昌の字はどういう経緯で使用されたのでしょうか? 当時の習慣から言うと信を使うと思うのです。 昌は何か縁起が良い文字なのでしょうか?

  • 武田信玄の家臣の名前

    武田信玄(晴信)の家来には、 内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次、真田昌幸、小幡昌盛 という風に信玄の名前とは関係の無い「昌」の字のつく人がとても多いんです。 この「昌」という字、一体どこから来たものなんですか? 普通「晴」とか「信」っていう字をつけると思うんですけど…

  • 武田家と真田家

    武田信玄の家臣団といえば、 譜代層の四名臣の山縣、高坂、内藤、馬場と 外様的性格の木曾・小山田・穴山・真田が大所と思います。 この外様層(個別領主層)のうち木曾・小山田・穴山は武田と縁戚関係を結んでいますが、真田と武田はこのような動きはなかったのでしょうか?

  • 武田家四天王について・・・

    武田家の四天王(馬場信房・内藤昌豊・高坂昌信・山形昌景) は高坂を除いて長篠の戦いで討ち死にしますが、 その子孫たちはどうなったのでしょうか? 一族すべて滅亡したのか、大名になったのか、旗本になったのか? 教えて下さい。 

  • 長篠・設楽が原の戦い

    長篠・設楽が原の戦いで討ち死にした武田家の武将の、 山県昌景、馬場信春(信房)、内藤昌豊、真田兄弟は、 それぞれ誰(誰の部隊)に討ち取られたんですか? おしえてください

  • 武田信繁、長篠の戦い?

    武田家臣団という本を読んでいる中で疑問に思ったのですが。 「信玄の死後徳川家康が長篠を包囲。勝頼は出兵を決意。 小山田信茂、土屋昌続、武田信豊らを三河に。 山県昌景、一条信龍、武田信繁、穴山の不気味を北遠江に出陣させた。 この時信繁が徳川家臣の本多重次、忠勝、榊原康政らに押され…」 という部分があるのですが、この記述は何かの間違いなんでしょうか? 武田信繁は川中島第四回で討ち死にしているので、信玄の弟である 武田信繁が長篠にいるはずはないと思うのですが。

  • 五摂家の二条家の偏諱

    五摂家の二条家は足利将軍家から偏諱受けています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%AE%B6 偏諱は主君から家臣へ、目上から目下へするものです。権力はともかく、官位上は足利将軍家よりも二条家のほうが上です。偏諱受けたのはなぜでしょう。

  • 武田最強は、捏造ですよね?

    武田最強は、捏造ですよね?信長公記巻八 4、長篠 三州長篠御合戦の事 このように武田勢が総軍入れ替わりで突入してきたのに対し、織田・徳川勢は一将たりとも前に出さず鉄砲のみで応じた。そして足軽であしらいつつ徐々に敵勢を追い崩し、そのあとで人数を突入させていった。五番手には馬場美濃守信春勢が押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが、結果は上と同様であった。 5月21日日の出の刻から始まり、織田勢が東北東をさして戦ったこの戦は未刻(15)まで続いた。その間武田勢は諸卒を突入させたが、そのたびに織田・徳川勢に討ち果たされて次第々々に無人となっていった。それでも生き残った将兵は武田勝頼の旗の下に集まり、敗戦を悟って鳳来寺の方角へ退却をはじめた。信長公はそのときを逃さず、陣をくずして総軍を乱進させ、これを追撃した。 この戦で討ち取られた首は、よく見知られた分だけでも山県昌景、小幡信貞、横田備中、川窪備後、真田源太左衛門信綱、土屋惣造昌次、甘利藤蔵、杉原日向、名和無理介、仁科、高坂又八郎昌澄、奥津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場信春など多数にのぼった。なおこのうち馬場信春の働きは比類のないものであった。この者達をはじめとして武田勢はこの一戦で数多の将兵を失い、討死した者の数は一万にも達した(16)。その中には山に逃げ入って飢え死にした者や、橋から川へ落とされて水死した者も多く含まれていた。

  • 将軍から摂家に偏諱

    http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/history/sekkanTaiin.htm 偏諱は主君から家臣に与えるものだと理解してます。上記歴代摂政関白を見ると将軍の偏諱を受けていると思われる例があります。(室町期なら満・持・教・政・・・江戸期なら光・綱・吉・斉など)公家は権力、武力、財力は劣っていても官位は一般には武家の将軍よりも公家の摂家の方が位は高い(足利義満、徳川家斉なら太政大臣なので将軍の方が上位だったこともあるでしょうが)と思います。これは偏諱でしょうか。偏諱ならなぜ将軍から摂家へ与えたのですか。