• ベストアンサー

武田家家臣の昌の字

武田晴信の時代の武田家家臣には昌の字を持つ人物が多くいます。 晴信の奥近習6名全て昌の字を名乗っています。 真田昌幸、曽根昌世、土屋昌次、甘利昌忠、長坂昌国、三枝昌貞(守友)です。 また、他にもこれらより年長者で山県昌景、小山田昌行、飯富虎昌 がおりこれらの家臣の兄弟に真田昌輝、土屋昌恒などいます。 この昌の字はどういう経緯で使用されたのでしょうか? 当時の習慣から言うと信を使うと思うのです。 昌は何か縁起が良い文字なのでしょうか?

  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数1

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

正確には分かりませんが信玄の3代前の信昌からきているのではないでしょうか?信昌は武田家滅亡の危機を救った中興の祖と呼ばれています。

isaa535
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございます。 私が書きました以外の内藤昌豊、高坂昌信も含めて全員父親には 昌の字が使われていません。 その内、曽根、三枝、内藤、土屋、甘利は父親に信虎の虎の字が 使われています。 昌の字の使用と共に晴信が信の字を家臣に与えなかったのが疑問に思います。 (高坂昌信は寵童で信の字を与えたようですが)

isaa535
質問者

補足

ありがとうございました。 過去に同様の質問があったんですね。 晴は将軍に貰った為、家臣に与えられず信は甲斐源氏の家臣でも 使われていたので信昌の昌を使った説が有力らしいですね。

関連するQ&A

  • 武田家臣の「昌」の字

    飯富虎昌、山県昌景、高坂昌信、内藤昌豊、真田昌輝、真田昌幸…。武田家臣には「昌」の字が多いですが、これは誰かからの偏諱を受けているのでしょうか? 主家である武田氏にも足利将軍家にも「昌」の字を持った人がいないように思うのですが…。

  • 武田氏家臣の「昌」について

    武田信玄・勝頼の家臣の名前を見ますと、「昌○」という例が目につきます。 山県昌景 高坂昌信 (史実では春日虎昌?) 内藤昌豊 原昌胤 真田昌幸 土屋昌次 小幡昌盛 普通に考えれば、武田家当主の偏緯を受けたのだろうとなりますが、武田信玄の名は「晴信」です。信玄の初名が例えば「信昌」で、足利義晴の偏緯を受けて「晴信」としたのであれば納得できますが、そんな史実は聞いたことがありません。 「昌」の由来をどなたかご存知ないでしょうか。

  • 武田信玄の家臣の名前

    武田信玄(晴信)の家来には、 内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次、真田昌幸、小幡昌盛 という風に信玄の名前とは関係の無い「昌」の字のつく人がとても多いんです。 この「昌」という字、一体どこから来たものなんですか? 普通「晴」とか「信」っていう字をつけると思うんですけど…

  • 武田信繁、長篠の戦い?

    武田家臣団という本を読んでいる中で疑問に思ったのですが。 「信玄の死後徳川家康が長篠を包囲。勝頼は出兵を決意。 小山田信茂、土屋昌続、武田信豊らを三河に。 山県昌景、一条信龍、武田信繁、穴山の不気味を北遠江に出陣させた。 この時信繁が徳川家臣の本多重次、忠勝、榊原康政らに押され…」 という部分があるのですが、この記述は何かの間違いなんでしょうか? 武田信繁は川中島第四回で討ち死にしているので、信玄の弟である 武田信繁が長篠にいるはずはないと思うのですが。

  • 武田征伐のIF

    もしも1582年の武田征伐において武田勝頼が小山田信茂の岩殿城ではなく真田昌幸の岩櫃城に逃亡していた場合、武田家はどうなっていたと思いますか?

  • 武田家と真田家

    武田信玄の家臣団といえば、 譜代層の四名臣の山縣、高坂、内藤、馬場と 外様的性格の木曾・小山田・穴山・真田が大所と思います。 この外様層(個別領主層)のうち木曾・小山田・穴山は武田と縁戚関係を結んでいますが、真田と武田はこのような動きはなかったのでしょうか?

  • 武田最強は、捏造ですよね?

    武田最強は、捏造ですよね?信長公記巻八 4、長篠 三州長篠御合戦の事 このように武田勢が総軍入れ替わりで突入してきたのに対し、織田・徳川勢は一将たりとも前に出さず鉄砲のみで応じた。そして足軽であしらいつつ徐々に敵勢を追い崩し、そのあとで人数を突入させていった。五番手には馬場美濃守信春勢が押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが、結果は上と同様であった。 5月21日日の出の刻から始まり、織田勢が東北東をさして戦ったこの戦は未刻(15)まで続いた。その間武田勢は諸卒を突入させたが、そのたびに織田・徳川勢に討ち果たされて次第々々に無人となっていった。それでも生き残った将兵は武田勝頼の旗の下に集まり、敗戦を悟って鳳来寺の方角へ退却をはじめた。信長公はそのときを逃さず、陣をくずして総軍を乱進させ、これを追撃した。 この戦で討ち取られた首は、よく見知られた分だけでも山県昌景、小幡信貞、横田備中、川窪備後、真田源太左衛門信綱、土屋惣造昌次、甘利藤蔵、杉原日向、名和無理介、仁科、高坂又八郎昌澄、奥津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場信春など多数にのぼった。なおこのうち馬場信春の働きは比類のないものであった。この者達をはじめとして武田勢はこの一戦で数多の将兵を失い、討死した者の数は一万にも達した(16)。その中には山に逃げ入って飢え死にした者や、橋から川へ落とされて水死した者も多く含まれていた。

  • 小山田茂誠と真田昌幸娘の婚姻

    小山田茂誠と真田昌幸娘の婚姻ですがこれは誰の意向でどういう流れで行われたのでしょうか? 通常武田家としては、真田と小山田は外様四台巨頭?の両家ですので連合されて家中で要らぬ強大な発言権をもたれたくないように思います。きちんと勝頼の決済がなされたのでしょうか?

  • 長篠・設楽が原の戦い

    長篠・設楽が原の戦いで討ち死にした武田家の武将の、 山県昌景、馬場信春(信房)、内藤昌豊、真田兄弟は、 それぞれ誰(誰の部隊)に討ち取られたんですか? おしえてください

  • 天正10年 真田昌幸の決断

    天正10年春、甲州武田家の命運が最早尽き掛けようかとしていたその時、真田昌幸は主君勝頼に自身の知行地上州岩櫃への下向を進言しました。 結局これは実らず、一門衆小山田信茂の持ち城郡内岩殿へと赴き、小山田の痛烈な裏切りに会い武田滅亡を早める事となりました。 良く巷にて聞く話は「この時勝頼は選択を誤ったのだ。」と云われますが、 私が思うに、上州に赴いたところで結果は同じだったという事は考えられませんか? 真田もやはり自領の民を守るため勝頼の首を差し出したのでは? と考えます。 歴史のIFはタブーですが、皆さんはどの様に推察されますか? それとも、昌幸が本気で勝頼を戴き武田家存続のため奮闘する用意があったという証拠文献は残っているんでしょうか?