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長篠の戦いの侵攻路
長篠の戦いの時、武田軍は甲斐からどういうルートを使い長篠に進軍したのでしょうか? どこに糧道を引いたのでしょうか? 飯田から現在の国道151号沿いでしょうか? 武田信玄の侵攻路もかなりの山道ながら天竜川沿いに船かイカダで兵糧を送れることを考えるとぎりぎり成立しそうな気もしますが、信州と長篠を直接じゃあまりに山道が長い気がします。
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まず結論から。 平山優著『敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館2014年2月発行)から抜書きします。 勝頼は、甲府→ 諏方→ 高遠→ 青崩峠(あおくずれ)→ 犬居谷→ 二俣→ 平山(浜松市三ヶ日町)→ 宇利峠(愛知県新城市)というルートを経由して長篠方面に進んだと推定され、これは信州街道(秋葉街道)を主要路に、浜松城の家康を牽制しつつ移動したのであろう。 (引用終わり) 著者は、『愛知県史』、『静岡県史』、『甲陽軍艦』から推定されています。 『甲陽軍鑑』には、勝頼は諏方に出陣し、諏方大社で戦勝祈願をした後に、信濃から遠州平山越をして宇利に進んだ、とあるそうです。 青崩峠は、標高1082mですが、飯田市の標高が500mほどですから、標高差では600m弱です。 ここまでは分かったのですが、高遠から青崩峠までが長すぎますね。 飯田へ出たとすれば、どのルートで出たのか、いろいろ調べてみたのですが分かりません。 多分、高遠から今の伊那市へ出て、そして天竜川に沿って飯田へ出たのでしょうが、そこから先も不明です。 信玄が三河・遠江に侵攻したときの例です。 参考になればいいのですが。 信州遠山郷の信玄滝 http://tohyamago.com/kankou/taki/index.php
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- eroero4649
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戦国時代の兵站については、ほとんどわかっていないのが現状です。またこの時代の軍隊というのもそんなにシステマティックにはなっていません。特に武田軍は織田軍に比べると組織面でも旧態依然としていたのは間違いないと思います。 これは私の想像ですが、兵糧の手配は駿河経由で回したか、駿河あたりの商人にやらせていたのではないかなと思います。 武田軍が長篠城方面に進出すれば、徳川軍もそちらへの対応に追われて駿河方面で攻勢に出ることはできません。ということは、逆に言えば駿河方面は平安であるということです。東海道がそのまま使えますし、そこから手配したほうが何かと便利でしょう。 信濃国内であれば、武田軍独自と木曽氏の手配で賄えたのではないかなと思うので、武田軍が独自で用意を命じたのは、信濃路から国境を越えて、駿河方面からの補給路が繋がるまでの間ではなかったのではないかな、と思います。 あまり知られていないのですが、実は将兵(武士)の兵糧って「自前」なんですよ。食料は自前で手配しなきゃいけなかったのです。面白いのは、残された手紙に「もし兵糧がないなら貸してやるから、とにかく早く現場に向かってくれ」なんてのがあったりするんですよね。ああ、そんな緊急事態でも決して支給してくれないんだ、貸すだけなんだってね。 そこから考えると、商人に通行手形を発行して手配を依頼したほうが早いんじゃないかなと思うのです。自社の車で運ぶより、運送会社を使った方が早くて確実みたいなものですね。
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ご回答ありがとうございます。東海道経由ですか。 東海道にしろ天竜川にしろたぶん二俣城まではなんとかなるんですよね。 ただそこから長篠までが適性地域だし山深いしで信濃から直接より大変ではないかと思いました。
お礼
ご回答ありがとうございます。駿河経由か151号経由と思ってましたが二俣経由でしたか。 おそらく信玄時代に侵攻したノウハウが残されているのと当時多少なりとも道路整備したんでしょうね。