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日本史
1559年 足利義輝、越後の長尾景虎と尾張の織田信長を京都に呼んで会見を行った。呼ばれなかった、駿河の今川義元と甲斐の武田信玄は激怒した。 この事が、川中島の合戦と桶狭間の戦いの原因の1つになった。 というようなことを、学校の授業で習ったのですが、これは本当のことなのでしょうか?Wikipediaには、それらしきことは書いていなくて… また、会見の内容や、なぜ今川と武田は呼ばれなかったのか、知っていれば教えていただきたいです。
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私は,桶狭間の戦いや,川中島の合戦の要因に,質問者様がおっしゃるようないきさつ;織田信長氏や,上杉謙信氏が,同年に,足利義輝氏に拝謁したことが,関係しているというのは,初耳です..Web上の情報によりますと,1559年2月に,織田信長氏が,足利義輝氏に拝謁し,尾張守となり,同年,4月に,上杉謙信氏(当時は,長尾景虎氏)が,足利義輝氏に拝謁したそうですが,今川義元氏は,いわゆる,海道一の弓取りと言われたらしい,駿河・遠江・三河国を領有する,足利将軍家の有力守護大名家の当主で,官位も,治部大輔ですかで,それなりの官位を得ており,足利義輝氏の足利将軍家と同じ,いわゆる,清和源氏の河内源氏の出身ですし,代々,足利将軍家の中でも,それなりに,重用されていた家柄のようですので,織田信長氏の,足利義輝氏への拝謁が,桶狭間の合戦に影響したとは,考えにくいのですが‥‥織田信長氏の織田氏と,今川義元氏の今川氏は,度々,領地を巡って戦っており,今川氏が勝ったり,織田氏側が勝ったりしていたそうなので,因縁の相手だったのかもしれませんが,桶狭間の合戦の原因には,日本の,いろいろな軍記物語などに,今川義元氏の,天下取りへの道での,尾張国平定などの説など,様々なようですが,やはり,当時,今川義元氏は,京の足利義輝氏の誘いで,京に上ろうとは,していたようなので,先に,足利義輝氏に拝謁した,織田信長氏に怒っていた,ということなどでしょうか‥‥?確かに,織田信長氏が,足利義輝氏に拝謁した後,すぐに,桶狭間の戦いで,今川義元氏は,織田信長氏側の軍勢に,討たれるのですが,当時の織田信長氏の勢いなどは,すごかったですから,織田信長氏の,足利義輝氏への謁見が,今川義元氏の今川氏の凋落に,影響しているということでしょうか‥?又,武田信玄氏の場合も,出自は,清和源氏の河内源氏の一派;甲斐源氏で,官位も,従四位下など,それなりですので,越前忌部氏の一族の出身とされる,織田信長氏の織田氏や,もともとは,越後国の守護代の家柄だった,上杉謙信氏の出自の,(上田)長尾氏の,足利義輝氏への拝謁などを,特に,意識していたとは,思えないのですが‥‥川中島の戦い自体は,信濃の有力大名だった,信濃村上氏の,村上義清氏の,信濃からの逃亡による,上杉謙信氏の支援による,村上氏を追い落とした,真田氏の属する武田氏との戦いなどだったと思うのですが‥
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- eroero4649
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そいつァ本当に学校の歴史の先生がいったんですかい?そんなのを戦国マニアのおじさんたちにいったらディスられますぜ。 そもそも長尾景虎(上杉謙信)と織田信長はそれぞれ別個に足利義輝に会いに行っていまして両者が会ったわけではありません。信長が上洛したのが2月2日、謙信は4月27日に上洛しています。 桶狭間の合戦も、川中島の合戦も土地を争うローカルな戦いに過ぎません。桶狭間は結果として織田家と今川家のパワーバランスを逆転させる戦いとなりましたが、信長とてそこまで狙っていたわけでもありません。サイコロを4個振ったら全部6が出た運の強さ的なものはありますが、運だけで勝ったわけでもありません。サッカーでいうところのジャイアントキリングですね。 あと、今川義元も武田信玄も呼ばれなかったわけではないですし、謙信と信長も呼ばれたわけでもありません。謙信も信長も呼ばれもしないのに自分から会いに行ったのです。 織田信長の家ってのは、守護代という今でいえば副知事の、更に分家というはっきりいって尾張の代表としての格は持たない家柄なんですね。だから将軍に会ってきて「尾張をよろしく頼むぞ」といわれたら、将軍様の公認を得たということにもなるので権威の後ろ盾がつくのです。超現実主義者の信長も、若きこの頃はそういった権威の力を借りなければならなかったほどの実力に過ぎなかったということですね。
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丁寧な説明で分かりやすかったです。ありがとうございました!
お礼
詳細な説明ありがとうございました。