- ベストアンサー
武田勝頼
真田昌幸は武田勝頼を頼れる殿ではないと思っていたのでしょうか。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (5)
- oska
- ベストアンサー率48% (4105/8467)
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1978/11764)
- ithi
- ベストアンサー率20% (1962/9581)
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
関連するQ&A
- 武田勝頼体制はなぜあそこまで脆かった?
武田勝頼は人間的にも問題なく、能力は高かったとの話を聞きますが、家督をついでからは裏切りが多くて、長篠の戦い以後はさらにそれが加速して組織はがたがたでしたね。。 出生が良くなくて繰り上げ当選で家督についたということと、もともと武田は中央集権体制ができてなかったこともあるのでしょうが、それは 上杉景勝だって家督相続の時に泥沼化して、武田と同じく越後の国の豪族連合の盟主的な立場から脱してなくて同じことですよね。 なぜ他の大名家に比べて武田勝頼の元での組織は脆かったのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- なぜ武田勝頼は歴史小説で悪く書かれるのか?
武田勝頼は歴史小説で悪く書かれることが多いです。武田信玄と比べれば劣りますが、一般の大名としては通用する人物だったのではないかと自分では思っています。 歴史小説ではこんなことがかかれていました。 織田家から嫁いできた妻とのセックスで愛撫が強すぎて妻は死んでしまった。とか、 領国に重税を課して、民が早く徳川や織田領になってほしいとの怨嗟の声でみちたとか そんなことがかいてありました。 また、末期には家臣の離反が激しかったともかいてありました。 ここまで悪く書かれる武田勝頼の原因は何でしょうか?武田勝頼自信が、棟梁にはふさわしくない人物だったのでしょうか?教えてください。お願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田家滅亡後の北信濃
武田勝頼滅亡にあたって、上田一帯は真田昌幸が領有することになったと思われますが、川中島(長野一帯)は誰の支配下に入ったのでしょうか? まず当時の海津城の城主(城代)は誰でしょうか? 真田と同格で連合したのでしょうか?真田の傘下に入ったのでしょうか?上杉の傘下に入ったのでしょうか? その後真田家は上田合戦の勝利ののち豊臣秀吉の裁定で徳川の与力に組み込まれますが、真田上杉の力で徳川軍を撃退した事を考えると上杉の与力に組み込んだほうが現状に即しているし秀吉にとっても徳川の力を強くするより都合がよいと思いますが、なぜ徳川の与力に組み込まれたのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 鉄砲の有効性を理解していた武田勝頼が何故?
長篠・設楽原の戦いについての疑問点があります。 それは鉄砲の有効性、及び三段撃ちの存在を理解していたと思われる武田勝頼が何故あのような戦術をとったのかということです。 それでもなお勝頼は武田軍が得意な白兵戦に持ち込めるという考えを持っていたのでしょうか? それともやはり織田・徳川軍が陣城を築いているという情報を掴めなかったのが敗因でしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 天正10年 真田昌幸の決断
天正10年春、甲州武田家の命運が最早尽き掛けようかとしていたその時、真田昌幸は主君勝頼に自身の知行地上州岩櫃への下向を進言しました。 結局これは実らず、一門衆小山田信茂の持ち城郡内岩殿へと赴き、小山田の痛烈な裏切りに会い武田滅亡を早める事となりました。 良く巷にて聞く話は「この時勝頼は選択を誤ったのだ。」と云われますが、 私が思うに、上州に赴いたところで結果は同じだったという事は考えられませんか? 真田もやはり自領の民を守るため勝頼の首を差し出したのでは? と考えます。 歴史のIFはタブーですが、皆さんはどの様に推察されますか? それとも、昌幸が本気で勝頼を戴き武田家存続のため奮闘する用意があったという証拠文献は残っているんでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田氏家臣の「昌」について
武田信玄・勝頼の家臣の名前を見ますと、「昌○」という例が目につきます。 山県昌景 高坂昌信 (史実では春日虎昌?) 内藤昌豊 原昌胤 真田昌幸 土屋昌次 小幡昌盛 普通に考えれば、武田家当主の偏緯を受けたのだろうとなりますが、武田信玄の名は「晴信」です。信玄の初名が例えば「信昌」で、足利義晴の偏緯を受けて「晴信」としたのであれば納得できますが、そんな史実は聞いたことがありません。 「昌」の由来をどなたかご存知ないでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
ご意見をいただきありがとうございます。 勝頼が昌幸を重用していなかったっていうのは、知らなかったです。 昌幸を信用していなかったから、天目山の時に小山田の岩殿城に向かったんですね。 小山田について行かず、昌幸を頼っていたら面白かったなと思います。