• ベストアンサー

武田家滅亡後の北信濃

武田勝頼滅亡にあたって、上田一帯は真田昌幸が領有することになったと思われますが、川中島(長野一帯)は誰の支配下に入ったのでしょうか? まず当時の海津城の城主(城代)は誰でしょうか? 真田と同格で連合したのでしょうか?真田の傘下に入ったのでしょうか?上杉の傘下に入ったのでしょうか? その後真田家は上田合戦の勝利ののち豊臣秀吉の裁定で徳川の与力に組み込まれますが、真田上杉の力で徳川軍を撃退した事を考えると上杉の与力に組み込んだほうが現状に即しているし秀吉にとっても徳川の力を強くするより都合がよいと思いますが、なぜ徳川の与力に組み込まれたのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • toshineko
  • ベストアンサー率44% (258/575)
回答No.1

武田勝頼滅亡後、北信濃は森長可ら織田氏配下諸将の領国となりました。 しかし本能寺の変により、織田氏諸将は美濃へ撤退し、 以後は上杉景勝の支配下にはいりました。 また、上田合戦後なぜ真田氏が徳川配下に組み込まれたのか。 真意は豊臣秀吉にしか分からないと思われますが、 恐らくそのほうが後々面白いことになると思ったのではないでしょうか。 この時期、徳川氏は北条氏と婚姻による同盟を結んでいます。 何事もなければ平穏無事の関係が続いていた可能性があります。 ここに真田氏が関わることで、北条氏・徳川氏ともに因縁のある立場上、 同盟関係に軋みを生じさせることが可能になると考えたのではないか。 事実、真田氏と北条氏は揉め事を起こし、北条氏が滅ぼされていますから。

参考URL:
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Kaidu/
jkpawapuro
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 海津城代はかなり転々としてるんですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (1)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1 豊臣秀次事件の顛末から 難を逃れた主な人物 秀次の家臣・与力大名等 田中吉政 中村一氏 山内一豊 与力と言っても、家臣になれ(あるいは、家臣として忠義を尽くす)というのではなく、一種の監視役としての与力も存在します。

jkpawapuro
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 信濃の奥地に宿敵の真田氏がいたところで、内部からの監視は無理でしょうし、今となってはわからぬことでしょうかね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 真田信之、沼田城主時の立場

    真田信之は北条征伐後沼田城主となりましたが、彼はれっきとした豊臣大名として父昌幸と並んだのでしょうか?真田の分家なので真田の与力なのでしょうか? それとも徳川の与力?

  • 沼田の代替地

    真田昌幸が秀吉傘下に入ったとき、沼田の代替地に伊那郡箕輪領を与えられたとwikipediaにはあります。この伊那郡箕輪領とは何万石くらいあるのでしょうか?上田とは飛び地にならないでしょうか?

  • 関が原

    もし、仮に関が原に上杉家からの派遣として直江山城守。徳川家に一泡吹かせたい真田昌幸がいたら情勢は少しは変わっていたでしょうか?

  • 名古屋市立博物館の真田昌幸奉納品豊臣秀吉の画

    先日名古屋市立博物館に行ったところ、豊臣秀吉の肖像画がありました。 真田昌幸奉納品 元資料 蓮華正院蔵 豊臣秀吉画像 とありました。 蓮華正院が真田昌幸縁の場所なのは知っていますが、この肖像画は九度山時代、もしくは上田時代に昌幸が描かせたものでしょうか? 由来をご存知の方回答をお待ちしています。

  • 1589年伊那郡箕輪領の領主

    1589年、真田昌幸の沼田裁定問題で、伊那領箕輪郡が沼田の代替地に真田に引き渡されました。 この伊那領ですがそれ以前は誰が領主だったのでしょうか? おそらく徳川の勢力化なんでしょうが、徳川に臣従した誰かが地元領主としていたのではないでしょうか?徳川が簡単に代替地を提供できるのならば秀吉と敵対する中背後に真田と敵対する必要はないわけで、この代替地の領主がどうなったか気になります。

  • 真田家の資金源

    wikipediaで ”信之は上田藩時代より蓄財した20万両という大金をもって入封した。このため当初は裕福であったが、” などという記述を見かけてふと気になりました。 真田家は武田傘下の時代に新府城の普請奉行を行い、その後武田傘下での沼田侵攻、対徳川戦、対北条戦、関ヶ原での上田籠城と結構数数の大戦をしているように思います。 その割には窮乏の話は聞かず10年ちょいで大貯金、上田ってそんなに裕福な地なのでしょうか? 真田家の資金源ってなんなのでしょうか?

  • 戦国最強は誰かな

    俗に武田信玄 上杉謙信 北条氏康が戦国三強と言われますが… 伊達政宗はそこそこか? 羽柴秀吉は野戦不向き 徳川家康は野戦強いが城攻め弱い 毛利元就は謀略に長けた 真田幸村は… 他にも続々いますが さて最強は誰だろう

  • 信濃路と真田一族

    本州のほぼ中央に位置し8県と境を接する長野県ですが、この立地条件と険峻に囲まれた可住面積の少なさ故に、信濃と呼ばれた古来より大勢力の出現と蟠踞を許しませんでした。 当地を旅する時、関東の沃野とは明らかに違った風景を散見する事となる・・、そんな信州に育まれた小豪族の1つが六文銭で世に名高い真田一族。 さて年明け早々に始まったNHK大河 「 真田丸 」 、御存じ三谷幸喜氏脚本のドラマですが、彼の前作 「 新選組 」 は正直疑問符が付く出来栄えだった、さあ今回はどうだろう・・と2~3回観た感想を申し上げれば、どっこいこれが結構面白い、安易に笑いを取ろうとするのはまあ彼の癖でそれはいいとして、久し振りに1年間お付き合い出来そうな大河ドラマに出会えたとの印象です。 そんな当作でスポット・ライトを浴びる中の一人が幸村の父真田昌幸、まあこの昌幸という武将ほど食えぬお方も少なかった、ただ戦国期を通じ恐らく有数の局地戦の名人といって差し支えない、他方武田家滅亡後四方を大国に囲まれたあの状況下に於いて、上杉を欺き・徳川を翻弄し・北条を手玉に取った他、ありとあらゆる手立てを尽くして遂に本領を守り抜いた ( 勿論関ヶ原以前の話です ) 、その手腕は高く評価されて然るべきでしょう。 その一方で、武田2代・・特に落ち目となって以降の勝頼に尽くし抜いた忠義と、その後巡り合い終生その肖像画を拝んだとされる豊臣秀吉に見せた可愛げもまた、彼のもう一面を表す本当の姿だったろうと思います。 ところで何故真田ばかりが特別なのか・・、その疑問に私としてはこう答えたい。 1つには関ヶ原・大坂の陣を通じ今に至る歴史とロマンに名を遺した事、次いであの大乱世を生き抜き真田の名跡を遥か後世にまで脈々と伝え続けた点、言わば昌幸・幸村そして藩祖信之の分業であったそのどちらか一つが欠けても、或いは真田の高名は無かったのかも知れません。 そんな信濃路に思いを馳せる時、苛烈な気候・地理的条件の厳しさと同時に、神から大きな恩寵を受けた素晴らしい大地に或る種の羨望を禁じ得ない私もおりまして、ちょっと思い付くだけでも安曇野・上高地・軽井沢に木曽、それ以外にも数々のスキー場に温泉、これほど観光資源に恵まれた都道府県も少ないでしょう。 前置きが長くなりましたが、信濃路・真田一族に関し、皆様の御意見を賜りたいと存じます。

  • 家康が入城したときの江戸城の様子

    調べてみますと、江戸城の前身は、「室町時代の1457年で、関東管領扇谷上杉氏の太田道灌が古河公方足利成氏に対抗するための拠点として築いた。」とされているのですが、戦国期には北条氏の支城だったようで、期間は、「1524年から1590年までの66年間、その間、城代として太田氏、富永氏、遠山氏などが送り込まれていた。」とあります。 その後、北条氏が秀吉に滅ぼされ、1590年に豊臣秀吉の命で、徳川家康が江戸城に入っています。北条氏の支城だった期間の終わりと一致します。まさか、北条氏の城代一族が城を守っているのに、「家康にどうぞ」なんて言わないとは思うのですが。 質問なのですが、家康が江戸城に入城したときの「江戸城」というのはどんな様子だったのでしょうか???秀吉の小田原攻め以前、又は家康入城の時には、すでに「空城」になっていたのでしょうか???  それとも、家康入城の時に「城の明け渡し」のような儀式なり、戦があったのでしょうか??? 

  • 真田一族はそんなにすごいのか

    上田市出身なんで真田一族の評価が高く、ゲームで高い能力を持っていることは悪いきしません。でも冷静に考えるとそんなにすごいのか疑問に思います。 真田昌幸は武田家再考を目指していたが実現的なかった。また、領土はそれほど広げていない。秀忠の軍勢を引きとどめ関が原に影響を与えたが、秀忠に勝ったわけでも家康に勝ったわけでもない。関が原後は隠居し紐を作る程度の功績しか残していない。一言で言うと大きな功績を残していない。 幸村は関が原の戦いではそれほど目立った功績を挙げていない。大阪の陣で大活躍したことが知られているが、所詮二度の戦いであり戦をたくさん経験したわけではないから戦上手と評価するのは尚早、まぐれで家康に突っ込んだ可能性もある。元もと真田家の武将であり秀頼に大恩があるとは考えにくく、趨勢は完全に徳川に傾いている時期に秀頼のために命を懸けたのは無駄死に近い。 どう思いますか。よろしくお願いします。