• 締切済み

名古屋市立博物館の真田昌幸奉納品豊臣秀吉の画

先日名古屋市立博物館に行ったところ、豊臣秀吉の肖像画がありました。 真田昌幸奉納品 元資料 蓮華正院蔵 豊臣秀吉画像 とありました。 蓮華正院が真田昌幸縁の場所なのは知っていますが、この肖像画は九度山時代、もしくは上田時代に昌幸が描かせたものでしょうか? 由来をご存知の方回答をお待ちしています。

  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数0

みんなの回答

回答No.1

本物だとしたらそうでしょう 贋作なら後世の作です

関連するQ&A

  • 武田家滅亡後の北信濃

    武田勝頼滅亡にあたって、上田一帯は真田昌幸が領有することになったと思われますが、川中島(長野一帯)は誰の支配下に入ったのでしょうか? まず当時の海津城の城主(城代)は誰でしょうか? 真田と同格で連合したのでしょうか?真田の傘下に入ったのでしょうか?上杉の傘下に入ったのでしょうか? その後真田家は上田合戦の勝利ののち豊臣秀吉の裁定で徳川の与力に組み込まれますが、真田上杉の力で徳川軍を撃退した事を考えると上杉の与力に組み込んだほうが現状に即しているし秀吉にとっても徳川の力を強くするより都合がよいと思いますが、なぜ徳川の与力に組み込まれたのでしょうか?

  • 真田昌幸の秘策?実行されていたら…

    紀州九度山で 昌幸が亡くなる直前 息子の信繁(幸村)に託した 豊臣勝利の秘策についてです 秀頼から兵を借り 青野ヶ原へ布陣 そこは何もないただの平原で何故真田はこんなとこに布陣したのか徳川は疑問に思い 物見などを出してこちらの様子を伺うはず(家康は過去に昌幸に散々に負けた経験があるので 真田が無策でこんなとこに布陣したとは考えないであろう) そうこうしているうちに一ヶ月は時間を稼げる 真田の小勢が徳川の大軍を一ヶ月も釘付けにしたとなれば 豊臣有利とみて寝返る武将も出てくる そうなると徳川方に猜疑心が生まれ 混乱が起きる そこを一気に攻め立てる という「青野ヶ原の策」です 歴史にもしもはありませんが仮にこの策が実行されていたら豊臣の勝利の可能性はあったでしょうか?

  • 沼田の代替地

    真田昌幸が秀吉傘下に入ったとき、沼田の代替地に伊那郡箕輪領を与えられたとwikipediaにはあります。この伊那郡箕輪領とは何万石くらいあるのでしょうか?上田とは飛び地にならないでしょうか?

  • 真田父子はなぜ上田城にとどまったのか…

    関ヶ原の時真田昌幸と幸村親子が関ヶ原に布陣していれば情勢は変わっただろうし 小早川の裏切りも見抜けたと思います どうせ上田城は信之に任せるのだから明け渡して 関ヶ原に向かうべきだったと思うのです 秀忠軍3万8千を食い止めたのはすごいのですが それは大して戦局に影響はありませんでした… まぁだからこそ 15年後の九度山脱出~大阪夏の陣の家康殺害というかっこよすぎるストーリーが出来上がったと言われれば それまでなんですが…

  • 戦国時代の歌の節について

     NHK大河の「真田丸」を見ていて思ったのですが、豊臣秀吉と真田昌幸が瓜売りの口上に節を付けて競い合う場面がありました。ところが当然当時は現在のような5線符があるわけではないので、あの節というかメロディーはどうやって分かったのかが不思議です。単なる製作者側の想像なのか、何か根拠があるのか知りたいです。  歌舞伎や狂言などの伝統文化は時代とともに伝承されてきたので、昔と大して変わらないと思いますが、江戸時代末期の「ええじゃないか」踊りの節にしても、どこに根拠があるのか不思議です。  戦国時代に限らず、昔の音楽というか音階はどうして分かるのか教えていただきたいです。 時代考証の分野かもしれませんが、詳しい方よろしくお願いします。

  • 関が原の秀忠の遅参は家康の陰謀?

     関が原の合戦で、中山道を進んだ秀忠は、上田城の真田昌幸に手古摺って、合戦に間に合いませんでした。  ところが、この遅参は【ワザと遅らせたもので、家康の陰謀だ。秀忠の軍勢を温存するためだ。】とする説があるようです。  たしかに、実際の合戦に参加した家康の家来は少なく、大方、豊臣系大名同士の戦いになって、それぞれダメージを受けています。  この説は珍説の部類にはいりますか? それともうなづけるところがありますでしょうか?

  • 源氏とは?

     真田太平記を読んで、その中に豊臣秀吉は源氏ではないので征夷大将軍にはなれなかったとありました。 源氏ではないというのは、源平時代の源氏の子孫ではなかった?もしくは源氏側ではなかったという事でしょうか? 誰か教えてください。

  • 秀吉の五七桐紋について

    信長の後を襲って天下人となった秀吉ですが、彼の紋所は通称「五七の桐紋」と呼ばれています。 もっと早く気付くべきでしたが、最近織田信長の肖像画を見て、疑問に思う事があります。教科書やTVでよく見る信長の肖像画の裃の紋、どう見ても五七桐紋ですよね。 合戦などに見る信長の紋所は確か「五つ(五葉)木瓜紋」だったと思うのですが、どうして装束の紋は五七桐紋なのでしょうか? また、秀吉が五七桐紋を採用したのは、この信長が由来なのでしょうか?詳しい方教えて下さい。

  • 信濃路と真田一族

    本州のほぼ中央に位置し8県と境を接する長野県ですが、この立地条件と険峻に囲まれた可住面積の少なさ故に、信濃と呼ばれた古来より大勢力の出現と蟠踞を許しませんでした。 当地を旅する時、関東の沃野とは明らかに違った風景を散見する事となる・・、そんな信州に育まれた小豪族の1つが六文銭で世に名高い真田一族。 さて年明け早々に始まったNHK大河 「 真田丸 」 、御存じ三谷幸喜氏脚本のドラマですが、彼の前作 「 新選組 」 は正直疑問符が付く出来栄えだった、さあ今回はどうだろう・・と2~3回観た感想を申し上げれば、どっこいこれが結構面白い、安易に笑いを取ろうとするのはまあ彼の癖でそれはいいとして、久し振りに1年間お付き合い出来そうな大河ドラマに出会えたとの印象です。 そんな当作でスポット・ライトを浴びる中の一人が幸村の父真田昌幸、まあこの昌幸という武将ほど食えぬお方も少なかった、ただ戦国期を通じ恐らく有数の局地戦の名人といって差し支えない、他方武田家滅亡後四方を大国に囲まれたあの状況下に於いて、上杉を欺き・徳川を翻弄し・北条を手玉に取った他、ありとあらゆる手立てを尽くして遂に本領を守り抜いた ( 勿論関ヶ原以前の話です ) 、その手腕は高く評価されて然るべきでしょう。 その一方で、武田2代・・特に落ち目となって以降の勝頼に尽くし抜いた忠義と、その後巡り合い終生その肖像画を拝んだとされる豊臣秀吉に見せた可愛げもまた、彼のもう一面を表す本当の姿だったろうと思います。 ところで何故真田ばかりが特別なのか・・、その疑問に私としてはこう答えたい。 1つには関ヶ原・大坂の陣を通じ今に至る歴史とロマンに名を遺した事、次いであの大乱世を生き抜き真田の名跡を遥か後世にまで脈々と伝え続けた点、言わば昌幸・幸村そして藩祖信之の分業であったそのどちらか一つが欠けても、或いは真田の高名は無かったのかも知れません。 そんな信濃路に思いを馳せる時、苛烈な気候・地理的条件の厳しさと同時に、神から大きな恩寵を受けた素晴らしい大地に或る種の羨望を禁じ得ない私もおりまして、ちょっと思い付くだけでも安曇野・上高地・軽井沢に木曽、それ以外にも数々のスキー場に温泉、これほど観光資源に恵まれた都道府県も少ないでしょう。 前置きが長くなりましたが、信濃路・真田一族に関し、皆様の御意見を賜りたいと存じます。

  • 戦国武将ゆかりの地ツアーを企画してください。

    この夏休みを利用して、小学生の息子と戦国武将ゆかりの地の旅をしたいと 考えております。 訪ねてみたい城は (1)真田の沼田城 (2)浅井の小谷城 (3)信長の清州城 (4)氏政の小田原城 (5)家康の浜松城 (6)伊達の米沢城 (7)秀吉の大阪城 (8)秀吉の長浜城 (9)備中高松城 (10)本能寺の変の地 (11)関ヶ原の戦いの地 (12)第一次上田合戦の地 等などです。 私があまり歴史に詳しくないので、よく分かりませんが(上記に間違いがあるかもしれません) 残ってない城もあると思います。 これら9城、3か所の地を効率よく、効果的に巡れるようなツアーを組んでいただける方は いませんか?お詳しい方がいらっしゃれば助かります。 また、城だけでなく資料館や博物館などの情報もくださると幸いです。 どうぞよろしくお願いいたします。