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なぜ武田勝頼は歴史小説で悪く書かれるのか?

武田勝頼は歴史小説で悪く書かれることが多いです。武田信玄と比べれば劣りますが、一般の大名としては通用する人物だったのではないかと自分では思っています。 歴史小説ではこんなことがかかれていました。 織田家から嫁いできた妻とのセックスで愛撫が強すぎて妻は死んでしまった。とか、 領国に重税を課して、民が早く徳川や織田領になってほしいとの怨嗟の声でみちたとか そんなことがかいてありました。 また、末期には家臣の離反が激しかったともかいてありました。 ここまで悪く書かれる武田勝頼の原因は何でしょうか?武田勝頼自信が、棟梁にはふさわしくない人物だったのでしょうか?教えてください。お願いします。

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  • takeko85
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回答No.6

徳川では石川数正が出奔して豊臣に仕えたのでそれまでの三河以来の軍制を武田流の軍制に変更しました。 しかし、滅亡した武田の軍制をしくため武田の軍制が悪かったのではなく勝頼が悪かったとしました。 また、武田の領地は徳川が継いだため武田の旧臣は皆、徳川に使えました。対面上、武田滅亡を誰かのせいにしなければならないので、勝頼とその側近たちのせいにしました。 >領国に重税を課して、民が早く徳川や織田領になってほしいとの怨嗟の声でみちたとか 長篠の戦いで武田は一万の軍勢を失いました。これは40万石分(武田は120万石)の兵力でこれを補うためには重税を科さなければならなくなりました。 >また、末期には家臣の離反が激しかったともかいてありました。 戦国時代は負けと判ったら降伏するものなので、末期に離反するのは当たり前です。 >武田勝頼は歴史小説で悪く書かれることが多いです。武田信玄と比べれば劣りますが、一般の大名としては通用する人物だったのではないかと自分では思っています。 甲陽軍鑑によれば強すぎる大将、一般の大名だと強い良い大名だと思います。でも相手が悪かったです、相手が一般ではなく異常な大名織田信長です。

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noname#141052
noname#141052
回答No.5

いやいやむしろ置かれた立場も踏まえたら信玄よりも偉大な人物ですよ。 妻は死んでしまった >ただの病気 重税を課した >領土拡張政策による金銭、物資の不足 家臣の離反 >そもそも勝頼は当主ではなく陣代 ちなみに領土拡張政策は自分の指導力を内外に示すため(当主ではないので余計に意識していたのでしょう) 勝頼を主役にした作品ではある程度良く書かれていますよ。 ただ信長という英雄に敵対し、負けたという大名という構図が出来上がってしまっているのでやはり比較的悪く書かれているのだと思います。 (今川義元や明智光秀も悪く書かれていますよね)

  • izuhara
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回答No.4

勝頼の代で滅びてしまったからでしょう。 かといって勝頼が無能だったわけではありません。 領国は信玄時代よりも拡張させましたし、信長と和睦しようとするなど外交感覚もありました。 信長の信頼を裏切って攻撃した信玄の行動が、執念深い信長の恨みを買い、武田は和睦を許容されなかった。 滅亡は、信玄の負の遺産が原因。 というような考え方も近年は出されています。 どの小説家によるものか分かりませんが、歴史小説の中にはあまり勉強せずに書かれているものがあります。そういう作品ほど人間を単純に陳腐に書く傾向が強いようです。 最近は武田勝頼の研究を進み、色眼鏡なしに評価している一般向けの歴史書がでています。 一例を下記にあげましたので、ご覧になってください。 鴨川達夫 『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2007年) 笹本正治 『武田勝頼―日本にかくれなき弓取』(ミネルヴァ書房、2011年)

回答No.3

信玄が偉大すぎたことと、自分の代で武田家が滅びてしまったこと、 そして何より、滅び方がグダグダな結末だったことでしょうか。 同じ滅びるにしても、豊臣秀頼などは(不謹慎ですが)絵になる 結末ですが、勝頼の末路はちょっと情けないですし。 あと、歴史小説等で色々悪く言われているのは、武田の遺領を 継いだ者によるプロパガンダ(当然悪く言う)を鵜呑みに していることもあるかと思います。 せめて、吉川英治や司馬遼太郎クラスの大物歴史小説家が 勝頼主役の小説を書いていれば、また状況も変わっていたでしょうが。

  • kimari14
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回答No.2

甲斐は貧しい国ですよ 山合いに無数にある谷筋ごとの地侍を糾合したような衆(集)団。 信玄の親父も、攻めの人だったらしく 足りなければ外から奪う事を国の運営方針 しかし、そういつもいつもうまくいくわけなく 負けや、引き分けで 何も持って国に帰れないことも多かったようで ついていくのが大変、結局国外追放。 北条氏康の隠居も 失政の責任を取って 子の氏正に家督を譲っています。 では、信玄はというと 殖産事業もやりましたけど やっとこさ 家康との設楽ガ原の戦いのころになって 家来どもの信頼を勝ち取ったぐらいですからね。 死ぬちょっと前ですよ。 江戸時代の主従関係と違って、盟主盟友の関係ですから 儲かる話や、設けさしてくれる親方が、ええわけです。 没落する人と行動は ね さっさと手のひら返しますよ。 誰も文句は言わない、いえない 今とそんなに変わらない、むしろ江戸時代のほうが不自然? こんな情報収集の簡単な時代でさえ、 手堅く手堅くやっても、超 きびしい  勝頼さんがだめなのではなく、直接動かせる親衛隊を10000人も もっていたら話は変わったでしょうがね。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.1

そりゃ、負けたからです。プロ野球やサッカーでも、負けたチームの監督はケチョンケチョンに叩かれます。プロスポーツチームで負けが込むと、選手が解任されずに監督が解任されるのが普通です。 戦国大名では、今川義元なんかも決して凡将ではなかなったのに、桶狭間の合戦で織田信長に負けて首を取られたばっかりに「公家狂いの愚将」扱いです。 個人的には、戦術家としては信玄をも上回る才能を持っていたと思います。長篠の合戦での武将の配置の仕方なんかを見ても決して間違った配置はしていません。兵力差を考えると最終的に大敗したとはいえ、途中までは善戦していたともいえます。 でも、一国の棟梁として考えたら、滅亡させた時点でアウトだといえばアウトです。 まあ色々と難しい二代目社長だったと思いますけどね。

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