- ベストアンサー
なぜ武田勝頼は歴史小説で悪く書かれるのか?
武田勝頼は歴史小説で悪く書かれることが多いです。武田信玄と比べれば劣りますが、一般の大名としては通用する人物だったのではないかと自分では思っています。 歴史小説ではこんなことがかかれていました。 織田家から嫁いできた妻とのセックスで愛撫が強すぎて妻は死んでしまった。とか、 領国に重税を課して、民が早く徳川や織田領になってほしいとの怨嗟の声でみちたとか そんなことがかいてありました。 また、末期には家臣の離反が激しかったともかいてありました。 ここまで悪く書かれる武田勝頼の原因は何でしょうか?武田勝頼自信が、棟梁にはふさわしくない人物だったのでしょうか?教えてください。お願いします。
- daigomi
- お礼率8% (177/2025)
- 歴史
- 回答数6
- ありがとう数2
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
徳川では石川数正が出奔して豊臣に仕えたのでそれまでの三河以来の軍制を武田流の軍制に変更しました。 しかし、滅亡した武田の軍制をしくため武田の軍制が悪かったのではなく勝頼が悪かったとしました。 また、武田の領地は徳川が継いだため武田の旧臣は皆、徳川に使えました。対面上、武田滅亡を誰かのせいにしなければならないので、勝頼とその側近たちのせいにしました。 >領国に重税を課して、民が早く徳川や織田領になってほしいとの怨嗟の声でみちたとか 長篠の戦いで武田は一万の軍勢を失いました。これは40万石分(武田は120万石)の兵力でこれを補うためには重税を科さなければならなくなりました。 >また、末期には家臣の離反が激しかったともかいてありました。 戦国時代は負けと判ったら降伏するものなので、末期に離反するのは当たり前です。 >武田勝頼は歴史小説で悪く書かれることが多いです。武田信玄と比べれば劣りますが、一般の大名としては通用する人物だったのではないかと自分では思っています。 甲陽軍鑑によれば強すぎる大将、一般の大名だと強い良い大名だと思います。でも相手が悪かったです、相手が一般ではなく異常な大名織田信長です。
その他の回答 (5)
いやいやむしろ置かれた立場も踏まえたら信玄よりも偉大な人物ですよ。 妻は死んでしまった >ただの病気 重税を課した >領土拡張政策による金銭、物資の不足 家臣の離反 >そもそも勝頼は当主ではなく陣代 ちなみに領土拡張政策は自分の指導力を内外に示すため(当主ではないので余計に意識していたのでしょう) 勝頼を主役にした作品ではある程度良く書かれていますよ。 ただ信長という英雄に敵対し、負けたという大名という構図が出来上がってしまっているのでやはり比較的悪く書かれているのだと思います。 (今川義元や明智光秀も悪く書かれていますよね)
- izuhara
- ベストアンサー率31% (97/310)
勝頼の代で滅びてしまったからでしょう。 かといって勝頼が無能だったわけではありません。 領国は信玄時代よりも拡張させましたし、信長と和睦しようとするなど外交感覚もありました。 信長の信頼を裏切って攻撃した信玄の行動が、執念深い信長の恨みを買い、武田は和睦を許容されなかった。 滅亡は、信玄の負の遺産が原因。 というような考え方も近年は出されています。 どの小説家によるものか分かりませんが、歴史小説の中にはあまり勉強せずに書かれているものがあります。そういう作品ほど人間を単純に陳腐に書く傾向が強いようです。 最近は武田勝頼の研究を進み、色眼鏡なしに評価している一般向けの歴史書がでています。 一例を下記にあげましたので、ご覧になってください。 鴨川達夫 『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2007年) 笹本正治 『武田勝頼―日本にかくれなき弓取』(ミネルヴァ書房、2011年)
- rsejima501
- ベストアンサー率32% (58/177)
信玄が偉大すぎたことと、自分の代で武田家が滅びてしまったこと、 そして何より、滅び方がグダグダな結末だったことでしょうか。 同じ滅びるにしても、豊臣秀頼などは(不謹慎ですが)絵になる 結末ですが、勝頼の末路はちょっと情けないですし。 あと、歴史小説等で色々悪く言われているのは、武田の遺領を 継いだ者によるプロパガンダ(当然悪く言う)を鵜呑みに していることもあるかと思います。 せめて、吉川英治や司馬遼太郎クラスの大物歴史小説家が 勝頼主役の小説を書いていれば、また状況も変わっていたでしょうが。
- kimari14
- ベストアンサー率17% (50/288)
甲斐は貧しい国ですよ 山合いに無数にある谷筋ごとの地侍を糾合したような衆(集)団。 信玄の親父も、攻めの人だったらしく 足りなければ外から奪う事を国の運営方針 しかし、そういつもいつもうまくいくわけなく 負けや、引き分けで 何も持って国に帰れないことも多かったようで ついていくのが大変、結局国外追放。 北条氏康の隠居も 失政の責任を取って 子の氏正に家督を譲っています。 では、信玄はというと 殖産事業もやりましたけど やっとこさ 家康との設楽ガ原の戦いのころになって 家来どもの信頼を勝ち取ったぐらいですからね。 死ぬちょっと前ですよ。 江戸時代の主従関係と違って、盟主盟友の関係ですから 儲かる話や、設けさしてくれる親方が、ええわけです。 没落する人と行動は ね さっさと手のひら返しますよ。 誰も文句は言わない、いえない 今とそんなに変わらない、むしろ江戸時代のほうが不自然? こんな情報収集の簡単な時代でさえ、 手堅く手堅くやっても、超 きびしい 勝頼さんがだめなのではなく、直接動かせる親衛隊を10000人も もっていたら話は変わったでしょうがね。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11114)
そりゃ、負けたからです。プロ野球やサッカーでも、負けたチームの監督はケチョンケチョンに叩かれます。プロスポーツチームで負けが込むと、選手が解任されずに監督が解任されるのが普通です。 戦国大名では、今川義元なんかも決して凡将ではなかなったのに、桶狭間の合戦で織田信長に負けて首を取られたばっかりに「公家狂いの愚将」扱いです。 個人的には、戦術家としては信玄をも上回る才能を持っていたと思います。長篠の合戦での武将の配置の仕方なんかを見ても決して間違った配置はしていません。兵力差を考えると最終的に大敗したとはいえ、途中までは善戦していたともいえます。 でも、一国の棟梁として考えたら、滅亡させた時点でアウトだといえばアウトです。 まあ色々と難しい二代目社長だったと思いますけどね。
関連するQ&A
- 武田勝頼と戦国を生き抜く武将の知恵
「流れをつかむ日本史」(山本博文著)の「武田氏の滅亡」の項(下記)を読んでいて、疑問が生じました。 記 天正8年(1580)、信長は、途中講和をはさんで10年にわたって敵対してきた石山本願寺を屈服させ、畿内全域をほぼ支配下におきました。 次に信長がめざしたのは、甲斐の武田勝頼の攻撃でした。 天正9年3月、勝頼の前線基地だった遠江高天神城が、徳川家康によって落城しました。このため、これを支援できなかった勝頼から国人たちが離反していきます。これを好機とみた信長は、家康と北条氏政に、武田領に攻め込むよう命じ、嫡子の信忠を武田攻めの総大将としました。 南信濃の武田方の城将は、城を捨てて逃げ、あるいは服属していきました。救援のため諏訪に着陣していた勝頼は、新府城に引き返します。このとき、7、8千ほどもいた軍勢が千にも足りないほどに減少していました。遠江では、重臣の穴山信君が裏切って家康に服属しました。勝頼の弟仁科盛信が守備していた高遠城は、徹底抗戦しますが、信忠によって落城します。 勝頼は、天目山を望む田野というところに陣屋を建てて籠もり、滝川一益の軍勢に発見され、周囲の家臣たちが最後の奮戦をする中、切腹して死にます。 戦国大名は、一門や譜代の武将のほか、その地域の武士団である「国人」を家臣団に編成していました。彼らは、主家が傾くと、主君を見限り敵に降ることになります。このときの武田家も同様で、周囲を敵に囲まれ、抵抗できないと思った国人たちが離反し、勝頼が田野に籠もったときには、従う武士がわずか41人に減っていたということです。 以上 上記の文章で気になったのが、「これを支援できなかった勝頼から国人たちが離反していきます。」ということです。調べてみますと、WIKでは、勝頼にも事情はあったようです。それに、「城中にいた軍監の横田尹松は、援軍を送らないように、とする旨の書状を本国に送っている。」とありますので、勝頼の判断が必ずしも間違っているわけでもないように思います。なのに武田家は滅んでしまった。 教えていただきたいのは2点です。 1 これは勝頼に、「時の流れ」、「地の利」が味方しなかったし、「運がなかった」と理解するしかないのでしょうか???それとも、勝頼に、「国人」たちに裏切られないほかの良い「知恵」、「方法」は、あったでしょうか??? 2 戦国時代の大名が、部下から裏切られない、あるいは裏切られても、それを克服できる「方法」、「知恵」というものがあったら教えてください。具体例でも、一般論でも構いませんし、「克服」ということにもいろいろあるかも知れません。
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田氏家臣の「昌」について
武田信玄・勝頼の家臣の名前を見ますと、「昌○」という例が目につきます。 山県昌景 高坂昌信 (史実では春日虎昌?) 内藤昌豊 原昌胤 真田昌幸 土屋昌次 小幡昌盛 普通に考えれば、武田家当主の偏緯を受けたのだろうとなりますが、武田信玄の名は「晴信」です。信玄の初名が例えば「信昌」で、足利義晴の偏緯を受けて「晴信」としたのであれば納得できますが、そんな史実は聞いたことがありません。 「昌」の由来をどなたかご存知ないでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田信繁、長篠の戦い?
武田家臣団という本を読んでいる中で疑問に思ったのですが。 「信玄の死後徳川家康が長篠を包囲。勝頼は出兵を決意。 小山田信茂、土屋昌続、武田信豊らを三河に。 山県昌景、一条信龍、武田信繁、穴山の不気味を北遠江に出陣させた。 この時信繁が徳川家臣の本多重次、忠勝、榊原康政らに押され…」 という部分があるのですが、この記述は何かの間違いなんでしょうか? 武田信繁は川中島第四回で討ち死にしているので、信玄の弟である 武田信繁が長篠にいるはずはないと思うのですが。
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田軍はどうして鉄砲を増備しなかったのか?
少し前のNHKの歴史の選択(その時歴史が動いたのスペシャル版)の川中島合戦でやっていましたが 武田信玄軍は鉄砲を少数ながらも配備していたとやっていました 息子の勝頼は長篠合戦で織田信長の鉄砲隊に騎馬隊をやられていますよね 槍騎馬隊だけでなく鉄砲騎馬隊にすれば対等ぐらいには戦えたのではないですか? 小田軍の足軽で鉄砲三段撃ちも良いかもしれませんが、武田軍の騎馬で鉄砲三段撃ちのほうが強いのでは?
- ベストアンサー
- 歴史
- 江戸時代に武田家の重臣だった家はひどい目にあったか
江戸時代に、武田信玄の武田家に仕えていた人達の家は、ひどい目にあわされたのでしょうか? 江戸幕府にとって、徳川家康というのは神様です。 その徳川家康が最も恨みを抱いていたのは、武田信玄の武田家だと思います。 なぜなら、武田信玄の武田家は、徳川家康が今川家の人質だった時代は、徳川家康を一切助けませんでした。 また、徳川家康は、武田信玄に三方ヶ原の戦いで、家臣を多く殺され、自身もひどい目にあわされ、家臣の前で大恥をかかされました。 更に、武田信玄の息子の勝頼の時代、徳川家康は、武田家とのもめごとのせいで、嫡男の信康を切腹させなければならなくなりました。 武田家は、徳川家康と領地を接していて、武田家と徳川家康の間には、いつも争いが絶えませんでした。 武田家は、家康が今川家の人質だった時代には、一切家康を助けませんでした。 この様に考えると、江戸幕府にとっての神様である徳川家康が最も恨みを抱いていた相手は、武田信玄の武田家だったと思います。 毛利家や島津家が、徳川家康と敵になったのは、少なくとも、豊臣秀吉が死んだ後、さらに言えば、前田利家が死んだ後です。 徳川家康は、織田信長のように最初から、天下統一をもくろんでいませんでした。 だから、豊臣秀吉と前田利家が死んで、徳川家康が天下取りを本気で狙いに行くまでは、毛利や島津が家康と敵対することはあり得ないと思います。 一方、武田は家康と初めから敵対関係にありました。 その、江戸幕府の神様・徳川家康と初めから敵対関係にあり、家康が最も恨んでいた武田家の、その重臣とか、仕えていた上のほうの家は、江戸時代に、江戸幕府にひどい目にあわされたような気がするのですが、 どうでしょうか? どうかを教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田信玄は優秀か
信長の野望などの歴史ゲームでは武田信玄の評価がきわめて高いのですが、信玄は本当に優秀な人物だったのでしょうか。私としてはかなり疑問です。 以下少し長くてすいませんが私の考えも述べます。 まず政治家としてですが、諏訪よりしげを特段の理由もなく暗殺してますが、このようなことをすると後々政治家として信用されなくなりまとまる話もまとまらなくなり、調略もうまくいかないと思います。父親を追い出しているのも汚点です。儀に厚い(?)謙信からもかなり憎まれてます。 騎馬軍団も強かったかもしれませんが、隣の謙信との川中島の戦いでかなりてこずっていて断トツで最強だったとはとてもいえないと思います。勝頼が長篠の戦で惨敗してますし。 彼ははやくも20才で大名になりその後30年近く大名として政治を行ったわけですが、期間が長い割りにあまり勢力が大きくなってないような気がします。 というわけでなぜ彼が極めて高い評価を受けているのかよくわかりません。ご意見お願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田信玄について人物像などがわかりやすい本はありますか?
武田信玄ファンの方にお尋ねします。 新田次郎さんの小説は有名だと聞きましたが 長そうなので、時間のあるときに読んでみようと思います。 ただ・・・もし手っとり早く人物像や具体的にどんな 活躍ぶり(合戦以外で)かを知りたい場合 写真付きの解説などがあるわかりやすい本などはあるのでしょうか? DNA的に?一族とつながりあることがわかってきました。 歴史ファンの中ではとても評価が高い信玄ですがなぜなのか? この人にとても興味があります。 宜しくお願いします。
- ベストアンサー
- 書籍・文庫
- 武田信玄が天下をとれば?
>父信虎を追放した晴信が採用した体制は、甲斐の権力者の連合体制であった。これ以後、甲斐国では、勝頼が1582年に信長・家康に滅ぼされる直前まで、甲府盆地(国中)を支配する武田氏、富士川流域(河内)を支配する穴山氏、都留郡(郡内)を支配する小山田氏三者による連合支配が続くことになる。「日本歴史館」(小学館) 以上の、支配方法をみても、武田信玄が天下をとっても群雄割拠が解消されるわけでもなさそうで、戦がなくなるという時代の夜明けを感じることができません。 武田信玄は天下をとるべく出発するものの、途中病に倒れ、志を遂げられなかったのですが、彼がもし天下を取っていたら、どんな日本を造ろうとしていたのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史