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築山殿と武田勝頼の内通について
徳川家康の正室・築山殿と信康が武田勝頼と内通していたというのは本当ですか?それとも五徳のでっち上げですか?教えて下さい。
- kiyurohi88
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後世の創作でしょうね。だってもしそれが本当なら、信康は自分の家臣の誰とも相談していないってことになります。 普通は自分の子飼いの家臣も巻き込むものでしょう。彼の直接の家臣も突然「今日から俺ら、武田方につくからな」っていわれても困りますよ。「そういうことを考えてるなら、事前に相談してよ」って思うのが普通ではないでしょうか。 信長によって切腹を命じられたという説が有名ですが、同時代の資料にはそのようなものは見当たらず、一番リアルタイムに近い資料には「家康が信康を切腹させることに信長の同意を求めた」ということが書いてあったらしいので、本当は家康が何らかの事情で信康を切腹させたけれど「創業者が長男を殺した」というと人聞きが悪いので、信長も死んじゃった人だから「信長に切腹を強要させられて、泣く泣く斬った」というストーリーに変えたんじゃないかなという気がします。 参考にしたのは「泣いて馬謖を斬る」のエピソードだったのではないでしょうか。
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- gunsin
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本当の事は解らないです、言える事は内紛が起こると力が弱まり ます、敵対する側に取っては都合の良い事です。 前々から、武田家のくノ一(女忍び)の頭領 望月千代女が暗躍 していたと思ってます。 武田家のくノ一(女忍び)は美人が第一条件だったそうです。 美貌を活かし敵方の要人を寝返させるすのが得意技だったとか 不首尾の場合は暗殺に至ります。 当時の武家の娘は、お家の為に嫁ぐので、逐次、お家に報告 するのが役目なのと嫁ぎ先で子供を設けるのが使命なのですが、 嫁ぎ先では孤立した立場なので、五徳姫に陰謀を企てる事は 出来無いでしょう、虚偽の報告すれば、友好関係が崩れ、お家が 危うくなる場合があるので噂や風評はダメで正確な情報が必須 なのです、利発さが求められます、その為に幼少から教育されます。 三度の飯は食べれますが、武家の娘には個人の自由が無いのです。
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