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武士が潰れる原因

江戸時代、藩士が改易になる原因て、なんだったのでしょうか? 殺人とか重罪が原因ですか?

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回答No.12

No.8、10です。 再度補足がありましたので追加の説明をさせて下さい。 >跡取りがいない場合、他人の武士の子を養子にするしかなかったわけですね 他人養子というやり方です。 これが認められるようになったのは寛延元年(1748年)以降のことです。 それまでは養子縁組についていろいろ制約がありました。 参考 江戸時代から明治時代における養子縁組制度の理解 - 家系図作成・先祖 ... http://kakeizunotobira.denshishosekidaio.com/2016/07/20/post-1606/

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  • jkpawapuro
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回答No.11

寛文諸士法度 一嫁娶并養子之義ニ付、貧たる作法不可仕事 貧たる作法、つまり御家人株を養子・隠居の形をとって売買しないようにとの禁令です。 この禁令は江戸時代を通じ度々出され、裏を解せば頻繁にあったことがわかります。建前や原則としては御家人は御家人同士養子をとれとのことになりますが、禁令の文言を見れば売買の禁止でしかないので、あとは書類を受け取る役人の意向一つということでしょう。当然付け届け文化の江戸時代の話ですし。

回答No.10

No.8です 補足を頂戴しましたので追加の説明をさせて下さい。 >藩士が若く亡くなった場合は子供もいなく後継ぎは緊急で親せきなど(百姓含む)にさせたのか? 形式上武家に百姓身分の親戚がいるということはありませんでした。 実質的には側室の女性の実家が百姓身分だったことはあり得ました。 この場合でも側室になる前に武家の養女としていました。 形式上は事前に養女とした武家が親戚ということになります。 >藩士の当主が急死ではない状態で亡くなってから、息子が家督を継ぐというのを聞いたことありますが、それは少ないケースだったのか? ごく一般的なケースですので少ないということは無くむしろ多かったということです。 >実際には、後継ぎが大変な家もあったんですよね。例えば、土浦藩主土屋家も、藩主が短命だったかたが多かったので ご指摘の通りです。藩主に跡継ぎがいないという事は極めて深刻な問題でした。 結果的に側室が認められていました。 特に大名の場合は事前に幕府に届け出ている必用があったことから藩主が幼少で短命だった場合は相当面倒なことになりました。 この解決策として取り入れられたのが末期養子というやりかたでした。 参考 末期養子 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/末期養子 抜粋 諸藩では早い段階で嗣子が不在か末期養子が適用できる年齢に満たない場合は、末期養子の適用が可能な年齢の一族を仮養子や中継ぎに立てることや、当主死亡を幕府に届けるのを遅らせた上で嗣子の年齢詐称を行ったりしている。 後者の場合、何らかの理由を付けて認められるのが常であり、形骸化していた。より軽格の旗本御家人などの場合、当主の年齢が17歳に満たないことが明らかであっても当人が17歳と称した場合にそれを認める(勝小吉の勝家相続のケース)など、幕府側が露骨に不正を黙認した例もある。 そういった備えが出来ないまま末期養子の禁に抵触しそうな場合には、藩主のすり替えが、時には幕閣の示唆で行われたこともあった。 参考 武士の相続 - 武士(もののふ)の時代 http://history.c.ooco.jp/souzoku.htm 抜粋 相続は必ず、主君の許可を必要とした。そのため「家督被下」、すなわち、家督を上から下さるという形式をとった。 相続するのは、あらかじめ届けてある嫡子が原則である。 他の子が相続するというのは、嫡子によほどの事故がない限りはありえなかった。 なお、嫡子というのは正妻の長男のことで、その他の実子を末子といい、末子の間では本妻の子であろうと妾の子であろうと区別はなかった。 中略 相続を願い出るときは「跡目書上げ」といわれる願書を提出する。 これには、被相続人の死亡日時、相続人の氏名・年齢、兄弟の名などを書く。 このように相続人がいれば問題ないが、もし、死んだ時点で実子がいない場合は御家断絶となる。 中略 このようなことがないように実子がいない場合は養子を迎えなければならない。 養子は親族の中から選ぶのが原則で、それもいないとなると他人を迎えることになる。 ただし、養子の場合、親族といえども御家人の養子は御家人の家から、旗本の養子は旗本の家から迎えなければならなかった。 そこで「末期養子」という非常手段がある。危篤の段階で養子を願い出るのである。 否、実際は死んでいるにもかかわらず、危篤ということにするのである。 また、参勤交代で国許に帰る際、仮の養子を密封して老中に届けておく「仮養子」という手段もある。 死んだ場合のみ開封し、正式の書類として扱うが何もなければ翌年、参勤してきた時に封をしたまま返すのである

sokoo0823
質問者

補足

例えば、百姓が藩士に取り立てられた人の場合、親せきは百姓のままでしょうから、跡取りがいない場合、他人の武士の子を養子にするしかなかったわけですね

  • ithi
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回答No.9

sokoo0823さん、こんばんは。 仕事上の失敗、私生活上のトラブル(家政不行き届き)などでしょうか?

sokoo0823
質問者

補足

そうですね

回答No.8

>殺人とか重罪が原因ですか? 正確な史料が有るのか否かは寡聞にして知りませんが、恐らく一番多かったのは無嗣断絶(むしだんぜつ)だったのではないかと思われます。 武士階級の人達にとって最も重要視されていたのは「家」の継承です。 これに基づいて「お家断絶」「お家取り潰し」という懲罰がありました。 家督を相続する者を予め藩に届け出しておく必用がありました。 この届け出をする際に主君に挨拶する儀式(お目見得)が行われていました。 結果として武士階級では百姓、町人とは違い家督は主君から賜ったものだという考え方がありました。 この届け出を済ませていない状態で当主が死亡するとお家断絶という状態になってしまいました。(無嗣断絶) 江戸時代の初期には厳格に適用されていましたが当主が突然死した場合に何の落ち度もないのに家が断絶してしまうのはしのびないということで慶安4年に末期養子を認めるようになりました。 突然死した当主の遺体を屏風の奥に寝かせて危篤・昏睡状態という体にし、藩から派遣された確認役が形式的に声をかけるだけの生存確認が行われるようになりました。(判元見届(はんもとみとどけ) 当主は生存中だということにして家督相続の手続きを行いました。 お家断絶やお取り潰しはそれなりに不名誉な処罰ですが、当人に取っては奉公構(ほうこうかまい)仕官御構(しかんおかまい)などの方が実質的には厳しい処罰でした。 これはお構いという形で主家より追い出された際に他家が召し抱えないように通達するものです。 なまじ武士という身分が残っていますので町人や百姓の生業に就くことができないだけではなく仕官ができませんので収入のあてが無いという状態になることです。 乞食も非人頭の支配下にあり勝手にはできませんでした。 つまり物貰いもできません。 身分を捨てるか出家して寺に潜り込むか領外へ出て切り取り強盗でもやる以外に生きるすべがなくなるということです。

sokoo0823
質問者

補足

家督の話しになりますと、藩士が若く亡くなった場合は子供もいなく後継ぎは緊急で親せきなど(百姓含む)にさせたのか?藩士の当主が急死ではない状態で亡くなってから、息子が家督を継ぐというのを聞いたことありますが、それは少ないケースだったのか?っていう疑問もあります 当主が亡くなりそうでも、当主が家督を譲ってくれないことには、話しになりませんからね お家取り潰しにあった藩士は武士身分は失うけれど、名字帯刀だけ残り、浪人になると何かで、読みましたが、武士身分も残るんですね 取り潰しにあった藩士の中には百姓になるものもいたみたいですが、藩主から通達出されたら、士官先が見つからず、百姓などの職も見つからず、お先真っ暗で、言い方は悪いですが死ぬしかないですよね 浪人でも藩主が改易になって浪人になったり、リストラで浪人になった場合には一度百姓になっても、他の藩に取り立ててもらうこともあったみたいですけどね テレビなどを見てると、武士は割とすんなり後を継いでたりしますが、実際には、後継ぎが大変な家もあったんですよね。例えば、土浦藩主土屋家も、藩主が短命だったかたが多かったので

  • Merlin61
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回答No.7

藩士の「召し放ち」の場合、犯罪行為によるもの以上 「経済的理由」が多かったと思います。 江戸時代も中期以降になると、多くの藩が経済的にかなり 厳しくなっています。 で、「召し放ち」という名のリストラが増えたのではないかと。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10511/33054)
回答No.6

召し放ちになって主人を持たない武士階級の人を「浪人」と呼びます。無職の武士階級ですね。 で、浪人になる理由で一番多かったのはおそらくはそれこそ「改易」だったと思います。江戸時代に徳川幕府はおおよそ200の藩を改易して潰しています。江戸時代が約200年ですから、乱暴にいえば毎年1つはどこかの藩が潰されていたということになります。 有名なのはあの赤穂藩ですね。お殿様がご乱心をしたせいで家臣がみんな失業してしまいました。じゃああのとき元赤穂藩士の人たちはどうしたのかというと、ほとんどの皆さんは生活がありますから帰農したりまあどうにかこうにか食っていくための生活をしていました。 それがあの四十七士が討ち入ったもんですから大変です。討ち入らなかった元藩士は「あの人たち(四十七士)は立派な武士だったのに、アイツときたら討ち入りに参加せずにねえ。武士の風上にも置けないねえ」と悪者扱いされて隠れるように暮らさないといけませんでした。自分は何も悪いことをしていないのに、アホな殿さまのせいでとんだとばっちりです。

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6276/18693)
回答No.5

改易という単語を見ると 藩のことかなと思うけど 後半を読むと 個人の問題のことかなと どちらの質問でしょうか。 藩の改易については 江戸時代の初期には 外様大名という区分けがあって そちらのほうは いろいろと難癖をつけて改易させるということはよくあったみたいです。改易で石高を減らしたり あるいは取り潰しまで 

sokoo0823
質問者

補足

大名じゃなく藩士個人ですね。改易じゃなく、召し放ちというみたいです

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3032)
回答No.4

藩士の場合は改易ではなく召し放ちといいます。 本人(というか家単位)に原因がある場合、 犯罪、殺人のほか賄賂や横領などもあるでしょうね。一族からの脱藩もありえるかな? 知行取りの場合は苛政により一揆が起きた等所領をきちんと治められなかった場合もありえます。 公務による不行状もあります。たとえば桜田門外の変では、井伊直弼を守り戦った武士は討ち死にしても当然跡継ぎがお家相続となります。ですが逃げた武士の場合お家断絶です。 大名と同じく世嗣断絶、これもありえますがこれは養子を申請するので少ないですね。 あとは本人に咎がなくても主家の減封があります。大名そのものが領地を減らされたり失えば家臣は召し放ちになりえます。

  • emaxemax
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回答No.3

改易の主な理由には 軍事的理由(敗戦) 世嗣断絶 幕法(武家諸法度)違反 家中および領内統治の失敗(お家騒動、百姓一揆) 乱行、乱心 などがありますが、ご質問には「武士が潰れる原因」江戸時代、藩士が改易になる原因・・とあるので、江戸時代の大名ではない侍の話とします。 太平の江戸の世ですから、軍事的理由はないですね。 処分としての「改易」ではなく、武士が武士をやめざるを得なくなる一番の原因は経済的な困窮ではないでしょうか? 武士は武士としての格式を保つための支出が多く、使用人を雇ったり、親類や同僚と交際する費用や儀礼行事をとりおこなう費用が必要です。これをケチらず支出しなければ江戸時代の武家社会では生きていけなかったといいます。ところが財政ひっ迫で俸禄は滞る。そのため、最後には武士の身分(御家人株)を売って武士を捨てることがけっこうあったようです。

  • ithi
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回答No.2

sokoo0823さん、こんばんは。 大名が改易される理由はお家騒動などの家政の不届き、後は跡継ぎの有無でしょうかね。殿様自身の乱心も理由になるようですね。

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