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武士の収入について

自分のご先祖は筑波で土浦藩領内郷士(江戸時代全期郷士)でした 親が土浦藩には稼がしてもらったと、いってましたが筑波にあった陣屋か、土浦城にて経理の仕事でもしてたんでしょうか? 幕府領、近江高島藩、5000石旗本知行地、土浦藩と領主が変わりましたが、その中でも土浦藩が一番よかったそうです 個人的には、幕府領、旗本領、高島藩時代ともし、手付などだった場合は収入は変わらないと思います お金を貸して儲けてたわけでもなさそうですし、米の売上が急に上がったとも考えにくいです

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回答No.3

>親が土浦藩には稼がしてもらったと、いってましたが筑波にあった陣屋か、土浦城にて経理の仕事でもしてたんでしょうか? 「土浦藩には稼がせてもらった」という意味は土浦藩に勤務していたという意味ではなく土浦藩時代には優遇されていたということかと思われます。 「郷士」という身分は幕府や大名によって取り扱いが異なる身分でした。 いずれにしましても城下町に住むことを義務付けられていた武士とは異なり取り扱いは武士であっても農村地帯に住むことが認められていて農耕に従事していた人達でした、 有名な幕末の新選組はこの郷士の集団でした。 ご先祖様が土浦藩時代に優遇されていたのには幾つかのケースが考えられます。 〇村役人(名主(庄屋・肝煎)、組頭(年寄)、百姓代)として認められたいたケース。 〇代官所の手代(手付)として採用されていたケース。 代官は幕府や大名家の財政を扱う勧請方の役人が務めていましたが、実務は支配地内の実情に詳しい地方巧者などと呼ばれる手代(手付)が担当していました どちらも農民階級の上に立つ役職で年貢の徴収に関わる役職です。 現代でもサラリーマン社会でお中元やお歳暮の習慣が残っていたり税法上接待費が認められているように江戸時代の役職者には日常的に付け届けがありました。 付け届けには専ら小判などの現金が使われていました。 現代の価値観では賄賂ということになりますが、江戸時代の価値観では社交儀礼であり物事を円滑に進める必要経費でした。 江戸時代の年貢は個人単位ではなく村落単位で課税されていました。 その年の年貢の額を実質的に決めていたのは代官所の手代でした。 村に課せられた年貢を村内の誰がどれだけ負担するかという配分を決めていたのが村役人でした。 農耕や漁労などに従事していた百姓階級の人達にとっては年貢の多寡は最大の関心事でした。 年貢に関わる役職者にはそれ相当の金銭が送られていたとしても不思議ではありません。 親御さんが「土浦藩には稼がせてもらった」と言われるのはこのことかと思います。

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  • jkpawapuro
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回答No.2

まず郷士というのは武士の中での下層身分ですが、藩によって形態がさまざまであまり明確なものはありません。 ただ通常武士には禁止されている(これも藩によりそれぞれ)農業等が、郷士には認められているケースが多いです。 郷士になる家柄は大きく分けて三つあります。 1、戦国時代が終わり立藩するとき、足軽層から特に功のあるものが取り立てられる。 2、他国に所領を与えられ立藩するとき、もともとその土地にいた武士が軽格身分として取り立てられる。(長宗我部家が取り潰され山内家が土佐に入ったとき、長宗我部の家臣は郷士となります。) 3、江戸時代に功のある農民等が取り立てられる。 藩により稼がせてもらったとなると、だいたい3だと思います。 大富豪が新田開発を行ったり、河川や入り江を水運に使えるよう浚渫掘削など整備したりなどです。こういった功をあげれば時に郷士身分をえて、新田開発をした一部は自分の所領となるし、水運整備したら水運業の許可がもらえるでしょう。何か藩の大きな事業にかかわりその功で郷士身分をえて、さらにそれにかかわる商売で特権的立場をえたと推測します。 藩に大金を貸したなんてのもあるかもしれませんよ。

  • fujic-1990
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回答No.1

> 親が土浦藩には稼がしてもらったと、いってました  面白いですね。 > 筑波にあった陣屋か、土浦城にて経理の仕事でもしてたんでしょうか?  残念ながら、郷士だったというだけで、仕事を限定することはできませんね。藩によっては百姓同然の生活をしていた郷士もいたわけですから。  郷士身分では、城へは行けないでしょうし、手代など代官所で実務をしていてもそれだけで活きられるほどの報酬をもらえたとは思えませんね。  「稼がせてもらった」という言い方からすると、土佐の郷士坂本家(坂本龍馬の家)のように、商売もやっていた家なのか、経理でも担当しながら袖の下でももらっていたのか(失礼)、という感じですが。  なんにしても、想像の域をでません。

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