郷士制度とは?江戸時代の旧家臣に関する制度の影響

このQ&Aのポイント
  • 江戸幕府初期の頃、常陸国を含む天領や旗本領には、幕府誕生前から住んでいた旧家臣や武士がいました。
  • 大名の転封に伴う領地の問題で、全ての武士を連れていくことはできなかったため、天領地域でも領主に従うことができる元家臣などが「郷士」として認められました。
  • 特に常陸国では、多くの地侍が郷士として活動し、一部の大きな村では12名の郷士が存在しました。
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郷士制度

江戸幕府が始まったはがり初期の頃、常陸国の水戸藩以外に旗本領とか天領とか沢山ありました 常陸国の天領、旗本領でも郷士がいたのは、幕府誕生より前から住んでた旧家臣、武士が大名移転とかで郷士判定されたってことですか? 大名移転のさい転封先の領地の問題で全員は連れていかなかったみたいです 天領地域でも、そこの領主(代官等)に従うことができる、元家臣等の武士は郷士として認められたと言われた人がいました 実際に常陸国には郷士と呼ばれる地侍が結構いました、大きな村では12名ほどいた所もありました 水戸藩の郷士制度の影響かはわからないですが、基本天領や旗本領が新らたに農民とかに褒美として与えるなら郷士ではなく在郷の幕臣ですからね

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  • Osric
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回答No.2

それぞれの国により違います。土佐であれば、旧・長宗我部の家臣が郷氏になり、かなり差別されたと聞いています。常陸の国であれば、旧・佐竹の家臣で、土着した人たちがなったのかもしれません。織田信長以前は、領主はいても、実際には先祖代々の土地を守る、半分武士、半分百姓の人たちが、現実的にはそれぞれの土地をおさめていました。

その他の回答 (2)

  • ithi
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回答No.3

sokoo0823さん、こんばんは。 郷士階級というのは地侍というのが俗称です。なぜかというと彼らの生活は半農といっていつもは農作に従事する者や農民でも武士階級の待遇を受ける上層の農民などです。だから、侍といっても被支配階級なんです。 例えば、上杉氏も関ヶ原の役の後、120万石から30万石に減封されたとき多くの武士が帰農したと聞いています。彼らはこの時に郷士になったのでしょう。 おそらく、関ヶ原の役の後、佐竹氏も常陸57万石から、出羽秋田20万石へ減封されたので、帰農者が多く出てきたのでしょう。 ほかの郷士階級になるきっかけは下記のURLを参照してください。 郷士 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%A3%AB

noname#232729
noname#232729
回答No.1

常陸国の天領、旗本領でも郷士がいたのは、幕府誕生より前から住んでた旧家臣、武士が大名移転とかで郷士判定されたってことですか? 分かりません、そんな事は調べようもありません。

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