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最後の武装蜂起?

ichikawa2017の回答

回答No.1

>幕末の終わりで歴史を切らないで、続けて観る視点は近代史学にあるでしょうか? ありますと言うかむしろどこで区切るかということに関して定説がありません。 一般論として明治維新をもって近世と近代の区切りとしていますが、何時から何時までを明治維新とするか見解が分かれています。 御質問で「幕末の終わり」とありますが何時から何時までを幕末とするかも定かではないということです。 元号でいいますと明治元年に出された改元の詔書で「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となります。 改元されたのが慶応4年9月8日ですがこれを西暦で考えますと1868年10月23日に相当します。 このようなカレンダーの区分で江戸時代と明治時代を区切って考えるということはされていません。 明治維新期には中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多くの分野で変革が行われていましたので、どこまでが明治維新に含まれるのかは分野毎に違ってきます。 >西南戦争の終結で日本が平和になったわけではないように見えます。 両者に共通するのは、明治政府の苛性、近代化の無理が祟っているように見えます。 変革期ですので新政府の苛性や近代化の無理というよりも改革に取り残されたり適応できない階層が生まれて騒乱が起きるのはやむを得ませんでした。 武士であるというだけで収入(俸禄)が保証されていた階層の人達の収入が廃藩置県で途絶えました。 これに代わるものとして公債が支給されましたが(俸禄処分)満足なものではありませんでした。 一方地租改正が行われ、従来は村落単位で米で収めていたものが個人単位で現金による納税となり百姓、町人階級の人達が困窮しました。 言い換えると新政府になった結果膨大な数の貧窮者が生じました。 ご指摘のようにこれ等の人達が徒党を組んで騒乱を起こしたり現代でいうテロ行為に走りました。 騒乱の規模は西南戦争に比べれば小規模なものでした。 やがて自由民権運動という政治闘争に代わっていきました。 憲法が制定され国会が開催されるようになって武力闘争は終焉しました

gesui3
質問者

お礼

ありがとうございます。 やっと歴史学の分かる人の回答を一件いただけました。 そうです、明治維新の始期と終期自体に多様性があります。 ただ、西南戦争で内乱が終わったかのごとき描かれ方がドラマなどでされることへの違和感からの質問でした。 自由民権運動は武装闘争に走り、政府打倒から天皇制否定という思想性までも伴って、刀を抜いての「戦い」であったことに留意しました。

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