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日本が大東亜戦争に踏み切った原因は?

私は歴史がすきなのですが、近代史がいまいち分かっていません。 明治維新後、西南戦争が終わった辺りまではいいのですが、その後富国強兵で日本が近代化していき、その後何故日清戦争を行い、その後何故日露戦争を行い、その後何故日中戦争、大東亜戦争へと進んみ、アメリカと戦ったのか、その背景がいまいち分かりません。 大体の流れで構いませんので、分かりやすく教えて下さい。

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  • sudacyu
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回答No.11

<参考>  このサイトでは、玉石混合、何が本当なのか、色々な見方が出て来るでしょうね。    多くの見方について、どのような視点からのものなのかを把握するには、経過にとらわれず、終着点を見て、そこから振り返る見方もあります。  70年前、日本国土の上で多数の日本人が、それも子供・老人・女性が外国の軍隊によって、何十万人も殺された上に、占領されて国家主権がなくなり、事実上、日本と言う国家は存在しなくなりました。  子供・老人・女性が殺され、日本と言う国家が存在しなくなるというのは、日本人にとって、肝に銘じるべき、日本歴史上最大の失敗です。  この大失敗の原因は何か、そしてこの大失敗を回避するために、我々日本人は、どのような選択が可能であったか、それはいつの時点で可能であったか。  日本人一人一人が、これからの日本の未来について、責任を持って判断するためには、過去においてどのような失敗要素があったのか、冷静に見極めなければなりません。  歴史が好きで、歴史的事象を、時間の流れの中で、把握しようとしている質問者さんにとって、 1、敗戦に至る失敗要素は何だったのか。 2、失敗回避策は何だったのか。  この二点に対して、明快な答えを出さない歴史の見方は、質問者さんの求める答えとは、かけ離れたものであると思います。  時間を掛けて、将来の日本の向かうべき方向性を見つけ出されんことを・・・。 

tomo9235740
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  • ithi
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回答No.12

tomo9235740さん、こんばんわ。 日本はアメリカが利権を狙っている中国のみならず、イギリス、フランスやオランダの植民地のある南方まで進出しようとしました。そこでアメリカから石油やほかの物資の輸出を禁止されてしまいました。それを解決しなければならないとすれば、ハルノートの条件をのまねばなりません。しかし、そんなことをすれば、今までの犠牲や苦労が水の泡になります。そこで、一か八かの戦争に踏み切ることになりました。 詳細は下記のURLを参照してください。 ハルノート http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88

tomo9235740
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  • jagd4
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回答No.10

No6です。 私の回答の補足をさせていただきます。 願望を排除した事実を積み重ねないと真実を見誤ると思います。 まず、No6の動画の内容(4:50辺り)のルーツについてついてですが、 NYタイムズのジョージ・トランブル・ラッド博士の↓の記事です。(1908年4月5日号) (彼はアメリカにおける朝鮮についての最高権威でした) 「しかしこの王妃は、頭はよかったが朝鮮の玉座にとってすら恥となるほど最も残酷な人物の一人で、何年も国王の父、大院君と政争を続けており、この間両派閥の殺し合いはまるで毎年の挨拶交換のように行われてきたものだ。」 江華島事件についてですが、朝鮮から砲撃を受けた雲揚号の航海の目的は↓です。 A:対馬海域の測量 B:朝鮮の東南西海岸~清国牛荘の航路調査と研究 C:帰路、琉球諸島を測量 朝鮮の砲撃理由を、雲揚号が無断で江華島水域の測量をした為という主張がありますが、 事件後に朝鮮と会談をする為、日本の黒田大臣を乗せた船は釜山→江華島間を測量しながら航海しており、雲揚号の測量が原因とするのは不自然です。 事件までの雲揚号の行動ですが、対馬の測量を行い、次に朝鮮東南西海岸から清国牛荘に向かいました。 その途上で水が不足した為に、補給のため江華島に行き、事件がおこりました。 (日朝は、事件前から相互に燃料の薪や水等の供給をする約束をしています。) 江華島事件の経緯は以下の通りです。 1:江華島に向けて給水要請の為のボートを派遣した。 2:朝鮮の砲台からボートに向けて激しい砲撃があった。 3:雲揚号が応戦し朝鮮の台場を破壊 4:その後事情聴取の為のボートを出したが、朝鮮が再び発砲 5:雲揚号が再度応戦 6:日本は上陸の後、朝鮮陣地を制圧 事件の始まりは2の朝鮮による砲撃ですが、 理由は、現場の朝鮮人が日本の国旗(日の丸)を知らず、日本の船とわからず不審船による侵犯と誤認し、砲撃してしまった事です。 (日本国旗はこの事件前に朝鮮政府に届られており、朝鮮には各地に周知させる義務があります。) 事件後、日朝間で大臣が会談を行っており、朝鮮側は以下の発言をしています。 7:事件前に朝鮮政府が日本国旗を受け取っていたのは確かである。 8:しかし、地方には見本・通達が届いていなかった。 9:日本の軍艦と分かっていたら,そんな無礼な事はしなかった。 台湾の領有ですが、 きっかけは、1871年に台湾(当時は清国の領土)に漂着した日本人が、原住民に殺戮された事です。 その後も、1873年に漂着した日本船が略奪された為、日本はそれらに対する清国の責任を追及して賠償を要求しました。 しかし、清国は台湾は未開の地であり統治不能の為に管轄外であるとして、拒否しています。(これは領土権の放棄と同義です)。 日本はこれを受け、島民への懲罰と報復の為に攻撃を行い占領しました。 当時の清国はこの日本の行動については抗議をしていません。(結果として日本の領有を認めたことになります) その後の日清戦争の下関条約で正式に植民地としました。(航路上に無法地帯があっては困ります) また、台湾や朝鮮に製品を売って設けたという意見もあるようですが、 日本は本来の意味での「植民地経営」(朝鮮は併合ですが)をして、教育を普及させたりインフラを整備した為に、全くの赤字でした。 (植民地とは、宗主国の国民を入植させつつ未開の地域を開発し文明を与え発展させる為のものです) 併合時の総督府の予算(1911年)は5,200万円ですが、その内の1,200万円は日本政府の補助金で、1,000万円は日本で調達した公債でした。 この補助金は終戦まで続いています。 それよって国内では東北地方の開発が遅れてしまい、それが現代にも影響しています。 それに対して当時から↓のように非難する意見すら出るほどでした。 「邦字新聞」日韓共鳴二千年史 名越ニ荒之助 韓国発行 「韓国人の安寧と幸福、その生活の向上を図るため、母国日本の財政負担は三年間に3,000万円に達している。日本及び日本人を益することを少しもやらない で、韓国及び韓国人のために図りてあまりにも忠実である。飽くまで韓国の主権を尊重するため、中央の各部大臣や地方長官はすべて韓国人を任用し、日本人は その下働きになっているに過ぎない。利権は韓国人のみに与えて、日本人には荒蕪地開発の第一号を与えただけではないか。なおその上、韓国通の大陸浪人を追 放するなど、日本及び日本人から孤立した政策を採ってきた伊藤総監の心事那辺にあるやを疑わしめるものがある。」 日露戦争~韓国併合までの日韓間の条約についてですが、 日本が武力で脅迫して締結させたという意見があるようですが、 ↓の資料からは、軍隊の警護は、朝鮮人の習性への用心と、暗殺や電線等の破壊活動を防止する為であったようです。 画像は1905年の「韓国保護条約締結」に関する軍司令官の報告書送付で、内容は↓です。 《アジア歴史資料センター(http://www.jacar.go.jp/)レファレンスコード: C03020423900》 内容ですが、 【韓国に固有なる雑輩の秘密運動、陰険手段、流言輩語等紾々として相踵き政界は一段の撹乱を加へ漢城府尹は参改の意を受けたりと踊して反対の布告文を城内各所に掲示し十三府の儒生等は緦大を京城に集め運動の中心を形成して熾んに反対運動を行い遂に林公使及び日本党と目せらるの大官等を暗殺せんとするものありとの風文を生じ我憲兵隊は嫌疑者数名を捕縛するに至れり 以為らく我にして断然保護条約を提出せは縦とへ群小の囂々たるものあるも其通過すへきは毫も疑を容れす 唯た韓廷の慣用する遷延の手段に依り数日を遅緩せしめらるることあらは 由来当面の責任を避くるを以て保身の秘訣とする各大臣等は辞職逃遁等を企て、若に尚ほ少しく警戒を怠らんか外館遷幸の旧劇も亦再演せらるることあるへく、漢城の秩序は益ゝ紊乱し暗闘殺戮の悲劇を現ることなきを期せす、 事此に至らは縦とへ調印を了せしむることを得たりとするも、甚たしく外人の視聴を驚かずのみならす、 事後永く韓人をして不快の念を抱かしむるの不利あり】 意訳すると↓となります。 【韓国内の不穏分子が反対運動を行っており、林公使や親日派の役人を暗殺するという情報を得たので、嫌疑者を逮捕した。 保護条約が締結される事は明らかだが、朝鮮人は引き伸ばし工作や責任逃れの辞職や逃走して隠れたりするかもしれない 警戒を怠ると、(高宗の時の様に)外国大使館に逃げ込まれるかも知れない。 そうなると、漢城の治安は悪化しているので、暗殺される怖れさえある。 そんな事が起った場合、外国からの評判が落ちるだけでなく、韓国人との関係も悪化してしまうだろう。】 【「日本外交文書」電信第551号、儒生派の排日行動に関する件】(1905年6月20日) 「第五四九号電報の儒生派の内容を探くりたるに、檄文を十三道に発せんとする外、同意味の通告文を当地駐在各国公使に送付する準備中にあり、且つ鉄道電線の破壊を企んとする等頗る不穏の意味を含み居れるに付、本官は本日韓帝に謁見の序を以て右儒生等の行動に対し厳重の取締方を奏請する心得なり。 玄界灘に於ける我輸送船の撃沈せられたる悲報は、宮中に出入りする雑輩にして我勢力の増加の為め失意の境遇に陥り居れる一派の利用する所となり、昨今宮中に於て諸般の政事改善に関する日本の忠告は内密に仏国公使に協議する必要を唱へ居れりとの報道あり。」 長くなるのですみません。ここまでで以下略します。日本がアジア侵略したのだという意見があるけれど、事実は資源確保の為にアジアに進出したら欧米の「植民地」を解放してしまったにすぎないと思います。 インドネシアの中学3年用の歴史教科書 「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい 規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた。」

tomo9235740
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  • tyr134
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回答No.9

まずは,当時の中国・朝鮮半島・日本の関係性をまとめてみます。 中国と日本は昔から交流関係を築いてきましたが,壬申の乱以降日本は「中国と対等の国」という意識が芽生えていきます。 それまでは中国から冊封されていたわけですが,この辺りを境に対等の国と国ですよ~といい始めたわけですね。 中国は中華思想(つまり中国が世界の中心)から、日本は冊封されるべき蛮族の国だったわけです。 それが突然,対等に扱えって言ってきたのだから当然,中国側も反発しますしそれによって国交断絶状態になってた時期もあります。 まぁ,紆余曲折を経て日清戦争へと向かっていきます。 日本と朝鮮半島も中国と同様かそれ以上に密接な関係を持っています。 特に,4~7世紀の三国時代(高句麗・百済・新羅)は日朝関係史においても重要な時期でしょう。 この頃日本は百済と組んで朝鮮半島に進出していたようです。 また5~7世紀には「任那(にんな)」と呼ばれる大和朝廷の機関が南朝鮮に置かれていたようです。 そして,663年の白村江(はくすきのえ)の戦いでは,百済の援軍として新羅・唐連合軍と戦っています。(結果は百済・倭連合軍の敗北) この時期は,唐が高句麗を滅ぼし朝鮮半島の実権を握ろうとしていた時期でもあります。 百済に肩入れした日本は,唐とも対立を深めることになります。 その後,朝鮮通信使とのやり取りとか元寇とか豊臣秀吉の朝鮮出兵とか,日本が大陸から攻められたり逆に日本が大陸に進出するための重要な地域となります。 また,李氏朝鮮は中国に朝貢していますが,同じく日本(江戸幕府)にも朝貢しています。 さて,朝鮮半島を挟んで中国と対等に渡り合おうとしていたのが江戸時代までの日本だといえます。 そこに黒船来航で大いに刺激され,近代化の必要性と対外進出が急務となっていきます。 対外進出となれば,朝鮮半島が出てくるわけで,この朝鮮をしっかりと捕まえなければならない。 そこで生まれたのが板垣退助や西郷隆盛らの征韓論です。 結局,岩倉具視や大久保利通らの反対でこの時の朝鮮出兵は見送られます。 また,それが原因で西郷は下野,西南戦争へと転がり落ちていきます。 時代が下り,朝鮮半島で甲午農民戦争をきっかけに日清両国が,宗主国であることを主張し兵を出し合いました。 結果,朝鮮半島で衝突したのが日清戦争です。 つまり,日清戦争とは「朝鮮半島は俺たちのもの」と主張しあって戦われた戦争です。 時代が下り日露戦争の頃になると,中国は西洋列強や日本が激しく利権争いをしていました。 日本は満州支配を狙っており,ロシアは逆に不凍湖を求めて南下してきました。(ロシアは中国権益確保に乗り遅れてたのも背景の一つ) つまり,満州地方を巡っての日露の対立による戦争だったわけです。 日中戦争とは正式には戦争ではありません。(日本も中国側(国民党・共産党)ともに宣戦布告してないので) なので,正式名称は「シナ事変」といいます。 1937年7月の盧溝橋事件を発端に日中が軍事衝突した一連の事件でした。 日本は何としても満州の利権を確保しなければなりませんでした。 しかし,国民党・共産党ともバックに欧米露がついていて決定的な勝利に持って行けず,ずるずると状況は悪化する一方でした。 太平洋戦争へと突き進まざるを得なかったのは,シナ事変の幕引き(政治決着)出来なかったこと,米国が一転して対外進出に舵を切り出したこと,欧州では植民地主義が破綻しはじめたこと等など。 以上,かなり大雑把で回答になってないかもしれませんが,参考になれば幸いです。

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  • Nebu3
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回答No.8

 事実を積み重ねると真実が見えてくるものだと思います。  明治時代、岩倉具視遣欧使節(政府の主立った人々こぞって参加)が 日本に戻ると、西郷隆盛らの留守政府と大激論となります。いわゆる 「征韓論」の是非をめぐるもので、西郷隆盛らがすでに軍を朝鮮に派兵 する準備をしていたのを帰国した大久保利通らがそれをやめさせた。  この時に大久保らが主張したのは「出兵反対」ではなくて「出兵後回し」 だということ。今は日本の近代化が先、出兵は後で良いとの考えどちらに しろ朝鮮に出兵し日本軍の力で開国させる方針に違いはなかった。 1875年、江華島事件・・日本軍艦が朝鮮首都間近の江華島で測量を開始、    それを抗議し砲撃した反撃に島を占領。朝鮮に謝罪させた。    (これは幕末に起きたイギリスと清国との間のアヘン戦争の模倣) 1894~05年 日清戦争・・この後、日本は台湾を領有し、朝鮮を清国の    保護から離して、日本の影響を強める(日本製品が大量に売れる) 1904~05年 日露戦争・・この後、ロシアは朝鮮から手を引き日本の    優先権を認めること、ロシアが敷設した鉄道を譲渡(南満州鉄道へ)    サハリン島南半分を譲渡など。朝鮮半島植民地化が「公認」された。 1910年 韓国併合。いくつかの段階をへてこの年に完全併合。日本政府の    保守的な人は「対等な合併」「韓国(朝鮮)政府も合意」したと言うが    韓国の大臣に拳銃をつきつけ周囲を日本軍が包囲した中で何の対等か?  長くなるのですみません。ここまでで以下略します。欧米がアジア侵略  したから日本は「解放」の戦争をしたのだという意見があるけれど、事実  は日本が欧米にならって「植民地」を拡大しようとしたにすぎない。  人物名を忘れてしまったけれど「大東亜共栄圏」の理念を純粋に信奉した  人が政府と軍に騙されたと無念に思うできごとを見た記憶があります。  アメリカは日露戦争ですでに日本の拡張策に危険を感じ、調停役になります。 以後は日本が勢力を拡大しないよう見張りながら東南アジア・南アジアへの 進出を妨害しつつも、ついに日・米英の太平洋戦争に突入しました。 (開戦時海軍は消極的だったが陸軍が対ソ連と対米英の二正面作戦に決まる) ※ 大局で見れば近代の流れは、植民地を多く持つ帝国主義国に少ししかもた  ない帝国主義国が反抗し起こした戦争といえます。ただ同時に支配される  小国が独立をかけた闘いを抑えるのに四苦八苦した時代とも言えます。

tomo9235740
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noname#192862
noname#192862
回答No.7

帝国時代、日本の仮想敵国はロシアであり、大東亜戦争(シナ事変)は防共のための自衛です。大東亜戦争へ進んだ理由を「白人からの東南アジアの植民地解放」などと述べる方がおりますが結果的に確立しただけで「大東亜戦争へ進んだ理由」とするのは全くの出鱈目で間違いです。シナ事変勃発の昭和12年には不拡大方針を厳守して北進か南進かすら決定していなかった事、満洲事変の関東軍石原完爾が不拡大方針を厳守していた事が根拠です。

tomo9235740
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  • jagd4
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回答No.6

>私は歴史がすきなのですが、近代史がいまいち分かっていません。 確かに、学校ではこの辺りになると端折るようです(私のときもそうでした) 歴史教育で最重要なのは近代史なのですが、サヨク教師が歪曲して教えるので、古代史から順に教えさせることで、故意にそうなるようにしているという噂もあります。 明治以降の日本の戦争ですが、 無知は人は、日本の領土的野心による侵略と断定して思考停止します。 しかし、それらは安全保障上必要であり自衛の為のものです。 日清戦争 発端は朝鮮の内乱に中国が介入したことです。 (当時の朝鮮は中国の属国状態でした。当時の朝鮮の状態については、動画をご覧ください。) これに対して日本は邦人保護の為に出兵しましたが、これにより中国との関係が悪化したことが原因です。 日本は、極東アジア情勢が不安定なである一因は、中国と朝鮮の関係にあると判断して、 朝鮮を独立させる為に、中国に宣戦布告をします。 日露戦争 日清戦争により朝鮮は独立しましたが、世界的にも最貧国だったので日本が支援・指導していました。 日本は、自分が独立させたという事もあり、露骨な内政干渉や介入は控えていました。 しかし、朝鮮の政治腐敗は派閥による権力闘争は改善されず、 これをロシアに利用されて介入を許してしまいます。 日本がこれを放置すればシアが朝鮮を併呑することは明白であり、 そうなった場合、次は日本が攻められる事は必然でした。 日本は、朝鮮への影響力を排除する為にロシアと開戦しました。 日中戦争 日本は、日露戦争の勝利によって、満州地方の権益を得ました。 朝鮮については、日露戦争の後も自力で独立を維持できず、失政で国家は破綻状態でした。 その為に、日本の保護国になり、最終的には日本に併合を要請し、日本はこれを受け入れ併合します。 これにより、日本と朝鮮は一つの国になりました。 (無知な人が喚いている 侵略して植民地にした というのは嘘です) 一方、中国は清国が滅び、各地で軍閥が地方政府を宣言して、独自に統治と行うという混乱状態でした。 その中の国民党(蒋介石)が、満州地方や朝鮮地方(当時は日本)に侵入して、テロや破壊活動を行います。 それに対して、大陸にいた日本の軍隊が動き、「満州国」を建国しました。 満州国は、日本が統治・開発し、それにより治安が維持され行政もまともに機能していた為に、 他の軍閥政権下の地域から人口が流入し、大きく発展します。 しかし、国民党は満州を狙って、軍事的な挑発行動を繰り返しました。 日本軍は、この事態は中国奥地にある彼等の本拠地を叩かないと解決しないと判断して、中国内に軍隊を進めます。 これが日中戦争になります。 (実は真珠湾攻撃までどちらも宣戦布告はしていないので、「戦争」ではありません) アメリカは>↑に対して、中国には物資を支援する一方で、日本の行為は侵略であると非難し様々な経済制裁を行いました。 これらのアメリカの行為ですが、日本を中国市場から排除して、自分が参入する為です。 日清戦争の原因と、戦争に至る少し詳しい経緯は、↓の通りです。 当時の朝鮮の政治は腐敗しており、実権は朝鮮王(高宗)の妃の閔妃が握っていました。 1882年、閔妃暗殺を目的とする反乱が起ります(壬午軍乱)。 (この事件で日本は大使館を焼かれ、日本人が多数殺されています) これに対して日本は朝鮮に補償と日本軍の駐留を求め、承認されました。 同時に清国の軍も駐屯することになりました。 1884年、朝鮮でクーデターが起こりましたが、清国軍に鎮圧されます。 この時、高宗の依頼で警備指導をしていた30名の日本軍が、清軍に非常に残虐な方法で殺害されました。 翌1885年、この問題について、日本と中国は交渉し両軍の朝鮮半島からの撤退を決定しました。 その後、朝鮮でまた反乱(東学党の乱)が起こり、閔妃は清に派兵を要請しました。 新たに朝鮮に入る口実を得た清は、喜んで侵攻し反乱者を虐殺していきました。 日本は邦人保護の為に、400名の軍隊と公使を漢城に派遣しています。 その後暴動は鎮圧されたので日本軍は撤兵しましたが、清軍は日本との約束を守らず、軍隊を帰還させずに牙山に上陸させ、その後も増強を続けました。 7月25日、朝鮮沖で日本の巡洋艦が、無警告で清国巡洋艦から砲撃を受けました。 この海戦の2日後、閔妃から日本軍に、牙山の清国軍を撃退せよという要請が出されました。 (拒否した場合、在朝日本人に危害を加えると言っています) 日本はこれを拒否できず、7月29日、清軍の攻撃を実行しました。 日本はこの戦闘に勝利しましたが、後日清国軍は12,000人の大軍を平壌に集結させます。 日本は交渉で開戦を避けようとしましたが、清は応じませんでした。 やむなく日本は、けじめとして、8月1日に清国に宣戦布告文を発します。 内容は、「日本は朝鮮の意思を尊重する、清国が兵を引かないなら、日本は戦う」という詔です。 その後も、日本は外交で解決しようと努力しましたが、事態は改善せず、日本は1ヵ月半後に、平壌の清軍基地を攻撃します。 これが日清戦争のはじまりです。 日中戦争・大東亜戦争については↓をご覧下さい。 【太平洋戦争はやはり自衛戦争だった】(私の回答はNo10) http://okwave.jp/qa/q8361572.html

tomo9235740
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回答No.5

白人至上主義の打破 東南アジアの植民地解放です 日本は敗れましたが 戦後15年以内に東南アジアの植民地はすべて解放されました そして今アジアが欧米と対等に対話できるのは日本のおかげなのです

tomo9235740
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  • yotsuba_k
  • ベストアンサー率6% (9/148)
回答No.4

明治維新から他国の猿真似で帝国主義を始めましたが、戦略を練る中で重要なファクターを弁えず考え無しだったから負けたのです。

tomo9235740
質問者

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回答No.3

西南戦争が終わったあたりまではいいのですが、、、とのことですが、 明治維新、西南戦争がわかるなら日清戦争、日露戦争の背景がわからない ということはないでしょ。 また、日露戦争がわかれば大東亜戦争はわかります。 明治維新についての理解が間違っているのでしょうね。

tomo9235740
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  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.2

日本の戦国時代もそうですけど、アジアやヨーロッパの過去においても、「力こそが正義」「強いものが領土を広げる、負けた国の人々は、皆殺しにされるとか、奴隷になって売買される、一生、こき使われる、植民地支配されるってのが当然でした。 大東亜戦争は、そういう帝国主義が当たり前、人種差別が当たり前の時代におこったことです。 そして、その戦いは、兵器が未熟で、剣や弓矢、鉄砲があっても、30mも離れてしまえば、弾がどこに当たるかわからない命中精度で、1発撃てば、次の弾を撃つまで30秒くらいかかるっていう時代から、高性能爆弾やマシンガンの発明によって、あっという間に1万人を撃ち殺すことが可能な時代になっていました。 こうなると、武力での戦いをすると双方の損失が大きくなります。 なので、実際に武器を使っての戦いよりも、経済力を武器にする戦いのほうがメリットがあります。 そして、大東亜戦争が始まる直前には、日本は石油の90%くらいを米国から輸入していました。それ以外の資源も、資源の無い日本は海外から輸入していたのです。 そういう状況において、米国はABCD包囲網を作って、日本への輸出を禁止しました。 もちろん、そうなると日本は干上がってしまいます。つまり、武器を使うことなく日本を倒すことが可能になるわけですね。 日本は、戦わなかったとしても、戦争に負けたのと同じ条件を米国から突きつけられていました。 ですので、「戦って負けたとしても、その意気込みを感じて、将来、日本は子孫が頑張って日本を復活させると信じる!」として大東亜戦争を始めたわけです。 ちなみに、中国戦線は、中国が日本や欧米によって分割統治されて、それなりに安定していたのですけど、中国軍である蒋介石が上海爆撃を突然に行い、日本や欧米の一般人や軍人を殺したことが始まりといえるようです。それまで日本軍は、中国軍の襲撃にも我慢をしていたのですけど、それを見て中国にいた日本人は、「腰の刀は竹光か!」と日本軍の不甲斐なさを嘆いていたとか。 まあ、先の回答にもありますけど、その当時は、武力がある国は、日本・欧米など、どこの国も力によって支配する領土・領海を広げたいと考えていて、力が強いところがその野心を満たすことができたっていう見方も可能でしょう。

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LBT-TWS10 無線イヤホン PC接続
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  • LBT-TWS10無線イヤホンのマイク機能がWindows10で正常に動作しない問題について相談です
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