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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:内戦回避の西郷どんが倒幕の訳け)

内戦回避の西郷どんが倒幕の訳け

kitsunetonekoの回答

回答No.2

D;幕末時点で,西日本の各藩には,勤皇・倒幕気運が高く,勤皇家の脱藩・浪士達が,京や江戸などで,過激な対幕・反幕府活動などを,繰り広げていましたが,藩内での弾圧や,内部抗争などにより,最後まで意見などが,バラバラの藩なども,ありましたが,薩摩や長州藩などの,いわゆる戦国時代から続く雄藩では,藩内の結束が,比較的強く,兼ねてからの,反幕・倒幕気運なども高まり,欧米など海外との交流・交易による,最新兵器の獲得などにも成功し,自信があり,京では,開明的な公家の岩倉具視や,~宮熾仁親王(m(__)m)などの活躍も有り,優柔不断で,戦嫌い,権威主義的な,徳川慶喜氏や,幕府の重役などを一掃し,薩・長・土・肥などの西国雄藩達が,立ち上がり,今まで,幕府にないがしろにされていた境遇などの,京の公家衆達と共に,日本を,天皇のもとに一つにし,欧米などの,列強諸国などに,積極的に対抗しようとしたのだと思います..内戦を回避したのは,幕臣の勝海舟氏や,神戸港から東下した徳川慶喜氏,天障院篤姫氏などの尽力が大きいかもしれません..

whaihansei
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 ん~ 幕末も関ケ原も同じではないでしょうか。 つまり各藩「二股」。 公武合体を進めた薩摩久光に対し、西郷大久保は 倒幕を進めた。 土佐も公武合体を進めたが、薩長の「倒幕」が 優勢になると、藩内の倒幕派が参戦。 こうして藩の多くは幕末を乗り切った。

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