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薩長同盟の軍事力に関して

 幕末期に薩長同盟が結ばれるや否や倒幕の動きは加速され、幕府はあっけなく倒されてしまいます。なぜ長州と薩摩2藩だけで幕府を倒すだけの力があったのでしょうか。どうしても分からないのです。  今の日本では二つの県が組んだだけで日本が転覆することなどとうてい考えられないのですが(ちなみに私は鹿児島県出身です)220項目までは調べたのですが、それ以上調べていません。類似の質問ならお許しください。  宜しくお願いいたします。

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  • ベストアンサー
  • been
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回答No.2

戦いの原理はただ一つ、「優勝劣敗」です。薩長は、幕府より優れていたから勝ったのです。以下、薩長側が優れていた点を説明します。 幕府の軍事力は、俗に「旗本八万騎」といわれる直轄兵力を中核とした武士団です。対する薩長両藩の軍事力も、基本的には両藩の家臣団=武士団です(長州の奇兵隊は異色の存在ですが、やはり武士の集団でした)。しかし、両者の間には、さまざまな差異がありました。 第一に、武士団の「質」について。 江戸時代初期までの武士は戦乱の世を実力で生き抜いてきた文字通りの「武士」でしたが、太平の世になると武士は平時の統治者≒官僚に変質しました。武芸は武士の「たしなみ」としてそれなりに盛んでしたが、最も大切なのは政治・経済・治安における実務能力であり、出世コースはこれらの実務に携わる「役方」で、武芸をもって出仕する「番方」は冷飯食いでした。幕府の武力の中核を担う旗本も例外ではなく、幕末ともなれば具足の準備すらない「事務屋旗本」も存在したようです。 このような時代にあって、維新の雄藩、特に薩摩藩には、武芸を事とする武士が「下士・郷士」という下級武士として多数保存されていました。 幕府の旗本八万旗が「事務屋」の集団に変質していたのに対し、雄藩の武士団は武士本来の武装集団としての実質を保っていたのです。 第二に、武士団の組織原理について。 幕府や諸藩の武士団は、家柄・身分によってその役割が固定されていました。これに対して薩長は、幕府や外国との戦闘に敗れることによって従来の組織の欠陥を認識し、軍制を改革して能力本位の要素を少しずつ取り入れました。長州の「奇兵隊」はその先駆けです。幕府側にも「新撰組」のような新時代の軍隊の芽生えはありましたが、所詮、使い捨ての道具に過ぎませんでした。 第三に、戦術・戦法について。 幕府軍の戦法は、旧態依然たる武士の戦法です。これに対して薩長側は、英仏流の新戦法を取り入れています。また、これを実行するに足る新しい装備(新式の鉄砲、大砲など)も導入しています。両者の優劣は、鳥羽・伏見の戦いで証明されたとおりです。 薩長側の質的優位は明らかですね。次に量的な問題です。 幕府の兵力は直轄兵力に譜代諸藩の兵力を加えたものです。幕府がこれらを完全に掌握すれば、多少質的に優位であっても薩長に勝ち目はありません。しかし薩長は、優れた政治力によって量的劣勢を克服しました。 薩長側は、幕府といえども表立っては逆らえない古い権威である「朝廷」の抱きこみに成功し、倒幕の大義名分を得ました。大義名分論は、当時の武士に染み付いた儒教の考え方です。これによって薩長の政治的主張(倒幕)は表立って逆らうことが難しいものとなり、日和見的な諸藩にしてみれば、幕府に対する忠誠を放棄する格好の口実となり得るものでした。 当時、幕府の権威は衰え、その威令も昔日の力を失っていました。譜代諸藩も直ちには幕府の命令に従わず、口実を設けて時間を稼ぎ、戦いの帰趨を見守っていたのです。そして、薩長側の優勢を確認すると、上記を口実として幕府を見限りました。 当時の薩長の戦略・戦術は、今日の目から見ても優れたものです。明治以降の日本の発展をみるとき、単に戦に勝ったということよりも、国家百年の計を案ずる優れた指導者が薩長側に輩出したことのほうが驚異ですね。

nucl2365q
質問者

お礼

 当時の武士団構成に関する詳細な説明本当に有難うございます。旗本は知っていましたが、徳川300年にそれだけ変質していたことについては理解していませんでした。  薩長が軍略政治両面から優れていた説明説得力があります。本当に参考になります。  でも維新時に「忠義」だけで殉じた幕府側の新撰組や会津藩などが、後で朝敵逆賊の汚名を被る。歴史の皮肉を感じてしまいます。

その他の回答 (4)

noname#113260
noname#113260
回答No.5

もう1点書いておきたいのですが、幕末まで日本人は自分が日本人であるという意識がありませんでした。 「おいどんは薩摩人でごわす」とか「わしは尾張のにんげんだぎゃ~」とか「南部もんは・・」とか、今で言う県人意識はあっても国民意識はありませんでした。 ところが黒船により「日本人」という意識が芽生え、同時に幕閣が開国について本来蚊帳の外であるべき朝廷や外様大名に意見を求めた為、政治意識が高まります。 これにより藩政改革に成功した越前・土佐・薩摩などの藩が政治に口を出し、その影響で一般武士も政治に関心を持ちます。 その中で特に力を持っていったのが薩摩・長州になります。 ところで幕末の幕府の軍事力ですが、かなりありました。 また徳川慶喜も英明な人間で、非常に的確な判断をしたと思われます。 まず海軍力は完全に幕府が上であり、兵力もフランスの軍事顧問に指導され近代的なもので、薩長に引けを取るものではありません。 しかし当時の国際情勢を考えると、短期決戦で失敗すると幕府対薩長からフランス対イギリスの戦いになり、慶喜の的確な判断で戦を回避しなければ、あるいは現在の朝鮮半島のように、イギリスの租界のある西日本政権とフランス租界のある東日本政権、それに北海道はロシアの一部になっていた危険性もあります。 織田信長も越前攻めでは勝利のファクターが消えたとみると恥も外聞も無く朽木谷を京都に逃げ帰りますが、将たるものはこうした全体的な視野を持つべきでしょうね。 こうした事は鉄血宰相ビスマルクと名将モルトケとの対立など、ヨーロッパ史でも出ますが、有利であってもあえて大極的見地から負ける事は立派なことと思います。

nucl2365q
質問者

お礼

丁寧な説明有難うございます。徳川慶喜の役割について、今まで理解していませんでした。明治維新の複雑さを感じます。同時に日本は幸運なのかも知れません。回答を頂きましてそう感じました。

  • mitunai
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回答No.4

 みなさんが言っておられることも多いにその理由となりますが、やはり将たる者が、逃げては到底勝ち得ません。  将軍が逃げてしまっては、残された者たちのモチベーションも下がります。そんな状態では勝てませんよね。  織田信長が何度も勝利したように将足るものが、しっかりしていたら不可能と思えるときでも勝つことができるのです(必ず勝てるとは言いませんが、勝つ確立は高いですね)。将のいない集団は所詮烏合の衆、そんな集団が勝てるはずないです。

nucl2365q
質問者

お礼

 回答有難うございます。将軍も影響も大きかったのですね。

noname#118466
noname#118466
回答No.3

簡潔に言えば次のようなことかと思います。 1.280年続いた徳川体制の統治システムが破綻しつつあった。世界史的に見ても同じ王朝が3世紀続くのは珍しい方です。 2.大きな潮流としてアメリカ合衆国の台頭。合衆国は 東部の13州からスタートして人口増と国力の充実と共に西進を始め、インディアンの土地を奪いフランスの領土を買い取りながら遂に旧スペイン領土(当時はメキシコ領)と対立。今日のテキサスを巧妙に奪取。国境紛争を利用して内政混乱中のメキシコに戦争をしかけ今日の ニューメキシコ州、アリゾナ州、カリフォルニア州などの南西部一帯を奪取(1846-1848)ペリー提督は対メキシコ戦争に準備された軍艦でアジアを訪問、日本へ開国の圧力をかける。途中にあるハワイ王国も後に アメリカ合衆国の巧妙な政治工作に会い、王制崩壊、共和国を経て合衆国に併合(1898)1865年南北戦争終結。武器が世界市場に大量に出回る。 3.薩長は香港市場でこれらの武器やイギリスの武器を 直接、間接的に入手。 4.薩長土連合が明治維新に成功したのは他藩に勝る近代的な武器と政治的にうまく立ち回り天皇を担ぐことに成功し、薩長土に反抗する藩は賊軍の汚名を被ることになり、徳川幕府そのものがいち早く恭順の意思表示を行い、政権を天皇へ返上したためです。徳川幕府の直属軍はフランスの支援を受けて近代化していた(薩長以上に)ので、内戦になれば悲惨な結果(国土、人心の荒廃と欧州列強の介入)になっていたことでしょう。 歴史にIFが許されるなら、もし当時の強国メキシコが 内紛を起こしていなければアメリカとの戦争はなく、仮に戦争が避けられなくても互角か勝っていた可能性があり、ペリーが日本に来るのは10年ぐらい遅れ、その間に幕府は自然崩壊し、日本はイギリスかフランスの支援を受けて共和国になっていた可能性があります。新撰組も誕生していないでしょう。 アメリカは後に(1898年)スペイン領キューバの独立運動を利用してスペインと戦争、プエルトリコやフイリッピンを獲得しました。彼らの西進は止むことがなく、現代ではアフガニスタン・イラクまで行っていると見ることも出来ます。恐ろしきかなDNAです。

nucl2365q
質問者

お礼

 回答有難うございます。メキシコまでが絡むとは想像しえませんでした。幕府の英断は優れたものということが分かりました。幕府や藩の枠をこえて日本という観点から15代将軍徳川慶喜は判断したような気もします。

noname#113260
noname#113260
回答No.1

「天下人は天が決める」という言葉があります。 つまり時代の終末に来ると様々な矛盾が出てどうにも行かなくなり、それを壊す勢力が出現し、世の中の流れが一気にその人物(勢力)に集中します。 幕末になると武士階級に矛盾が生じます。 武士とは本来は軍人ですが、現在の各国の軍隊を見ても判るように平時と非常時では人員規模が全く違います。 ところが幕藩制度では、関が原の合戦の時の兵力を「士農工商」という身分を固定した事により、そのままの規模で平時になってしまいました。 その為、本来一人でやるべき仕事を数人でやるので、週に1度登城すればよいというような「非生産的」システムになりました。 その上収入は米ですから、豊作なら価格が下がって収入が減り、不作だと絶対的に収入が減る事になります。 悪い事に武士の生活は義理事が多く、長男が生まれるとお祝いに数両、元服で数両、結婚で、葬式で・・と、義理ごとで借金がどんどん嵩んでいきます。 庶民であれば道路工事の人足や旅館の飯炊きでもやってパート収入がありますが、武士は身分柄難しい。 ある資料によれば、100石程度の武士の主よりそこで働く下男の方が決まった給金が出るので楽な生活ができるというものまであります。 つまり武士は生活できないため、体制が崩壊して欲しいと思う武士も多かった事が1つ。 もう1点は、徳川幕府が「士農工商」と農民を武士の次に置いたことで判るように、農民の利益代表・・つまり農協の票を当てにしてるどこかの国の政党と同じという事です。 ところが世の中、実際に力があるのは商人ですから、商人の利益代表を応援したくなります。 経団連の推薦候補が出れば、世の中の浮動票が一気に経団連の支持する政党に流れる可能性があったわけです。 さて幕末。 地球全体が冷夏になり、幕府の支持基盤である東日本は不作になり、逆に暖かい西日本は豊作になります。 薩摩・長州は商人と結び商業型大名となります。 他の武士は喰えないから、体制の変革を望みます。 ここまで条件が揃えば後は動くだけですから、必然性として坂本竜馬や西郷隆盛などの諸氏が出てきて体制の打破に向かう事になります。

nucl2365q
質問者

お礼

 幕藩体制時に武士がそれだけ困窮しているとは、しりませんでした。また現代の政情と関連して説明いただきよく理解できます。  ところで、今後日本には、坂本竜馬、西郷隆盛、桂小五郎、高杉晋作などのような傑出した人材が必要となる時代が来るのでしょうか。  本当に有難うございました。

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