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関ヶ原の戦いと倒幕のエネルギー

ボーっと、幕末のことを考えていて、ふと、薩長土肥の活躍って、何だったんだろう、という疑問が湧いてきました。まさに、「幕末・維新」を動かした中心的な藩だったのだと思いますが、鍋島藩の態度は別にしても、関ヶ原の戦いの負け組です。 初歩的な疑問なのですが、「倒幕のエネルギーは、関ヶ原の戦いに負けたことと関係しているのだろうか???」ということです。もし関係しているとすれば、260年間も、そのエネルギーを保ち続けたものは何だったのか???」という疑問です。 それと、とは言っても、例えば、薩摩と長州が倒幕に向けて一枚岩だったのかというと、そうでもなさそうだし。関ヶ原の戦いの恨みつらみとは関係なく、単に時代の流れであって、「薩長土肥」が主役にならなくても、「徳川幕府は、つぶれた」と考えるべきなのでしょうか???

noname#247736
noname#247736
  • 歴史
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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3030)
回答No.4

薩長が倒幕の首魁だったのは、第一に経済力(大藩で且つ産業がある)、第二に密貿易含め外国の情報に詳しくいち早く危機感を持ったことです。 その他倒幕勢力は土佐・肥前・尾張・芸洲などで関が原では勝ち組が並びます。 この時代となると関が原からは時代が遠すぎて(吉宗の擁立・所業も影響してますが)、譜代・外様や関が原の勝ち負けと幕府との距離感は関係なくなってます。 仙台はじめ各地の外様に将軍縁者が養子として送り込まれ親幕に、一方尾張は反幕、紀州は中立と親藩譜代でも血の遠いところは完全に距離感が生まれてます。 幕府がつぶれたのは幕府が近代国家を率いる力を完全に失っていたのが原因ですので、相手が誰であろうと結局倒れていたか傀儡化していたと思われます。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。お礼が遅くなりました。M(__)m 第一に経済力(大藩で且つ産業がある)……薩長に経済力があったのですか。私の認識は間違っていました。 やはり260年の年月というのは長すぎますかねぇ。それにしても、尾張と紀州は、家康公の意向に全く反してしまったというか、西からの防波堤の役割をすっかり忘れてしまっていたような。

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2183/4836)
回答No.3

>「倒幕のエネルギーは、関ヶ原の戦いに負けたことと関係しているのだろうか???」ということです。 嘘か真か・・・。 長州藩の新年の挨拶は「今年は、どうですか?」だったそうです。 この藩士の問いかけに対して、「しばし待て」と殿さんが答えていたとの逸話が残っています。 薩摩藩では、西郷隆盛が「あわよくば、徳川に代わって島津が将軍として」との逸話が残っています。 ただ、両藩ともに「イギリス帝国などとの戦火で敗北」していますよね。 結果として、攘夷を止めて天皇を名目の頂点にして薩長の明治新政府が誕生します。 >260年間も、そのエネルギーを保ち続けたものは何だったのか???」という疑問です。 精神的な根柢の確認と、藩内の不都合を外敵に向かう事でのガス抜きです。 大韓民主主義人民共和国(架空)などの国家が「反日政策・反日扇動」を官民挙げて行っていますよね。 これも、独占的な国内政策に対する反政府運動の矛先を日本に向けてガス抜きをする為です。 江戸時代でも、士農工商という名目的な身分が存在しましたよね。 が、百姓には「未だ、士農工商にも属さない人達が多く存在しているんだ」とガス抜きをしていました。 >「薩長土肥」が主役にならなくても、「徳川幕府は、つぶれた」と考えるべきなのでしょうか??? 田沼意次時代から、幕藩体制の矛盾が大きくなってきました。 そこで、将軍・老中は「重農主義から重商主義へ」と改革を目指したのです。 が、「前例がない事はしない」のが昔も今も同じ事。 重農主義(米を基本とした経済)に縛られていた、保守派の反撃を受けました。 将軍吉宗の孫である「老中・松平定信」によって、元の米経済が復活。 ますます、経済が破綻し封建体制は崩壊が進みます。 武士階級でも、武士株の売買が行われていますからね。 同心階級だと、約200両。与力階級で約1000両です。 幕末の偉人である坂本龍馬家も、本家の才谷屋が土佐の郷士株を購入したので郷士なんです。 幕府崩壊を一番理解していたのは、他でもなく徳川慶喜だったのでしよう。 討幕側にイギリス。幕府側にはフランス。 両陣営ともに、外国勢力の軍事力を頼らなかった事が植民地を免れたのです。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。お礼が遅くなりました。M(__)m 「しばし待て」と「うん、そうせい」で、あのエネルギーが生まれてきたのが、面白いですね。殿様はボーとしていたほうが部下にはよかったのですかねぇ。現代の社会や組織には、そんな側面があるのかも。笑 私は、まったく政治オンチですが、「ガス抜き」の政治学というのは、政治を理解する上では重要な視点なのかもしれませんね。 田沼意次時代から、~~幕藩体制の矛盾が大きくなってきました。 そこで、将軍・老中は「重農主義から重商主義へ」と改革を目指したのです。 が、「前例がない事はしない」のが昔も今も同じ事。…… まだ勉強はしていませんが、江戸時代の改革と田沼意次の評価ということについては、関心を持っています。 幕府崩壊を一番理解していたのは、他でもなく徳川慶喜だったのでしよう。……英明な人だったらしいから、そうだったかもしれないという気持ちはありますが、私個人的には、慶喜の生き方というのは評価していません。常に「保身」ということが頭をよぎるのです。仮に慶喜に「保身」ということがなかったとしたら、「戊辰戦争を防ぐ、あるいはもう少し犠牲を少なくする手立てというのは講じることができたのではないか???」という気持ちが生じるのです。もっとも、幕末・維新史しっかり勉強したことはありませんが。

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (379/1171)
回答No.2

>「薩長土肥」が主役にならなくても、「徳川幕府は、つぶれた」 そう、考えられます、一番の要因は財政の悪化です。 金銀鉱山の枯渇は時間の問題でした、5代将軍綱吉は、これを見越して 現在の様な、紙幣による為替を考えて、実践しましたが、猛反発を受け頓挫して、大量の金が流出して、返って財政を悪化させました。 300年早かったのですね。 この後、田沼意次と水野忠邦が、商人から税金を取ろうとして、 売上税に近い事をしましたが、何れも頓挫して失脚しました。 売上税が導入され、米中心の税収政策が見直されれば、もう少し 続いたかも・・・ 更に、幕末に置いて、金銀の交換レートの違いを利用され、大量の 小判が欧州に流出して、超インフレ状態に、成りました。 南北戦争で不要になった旧式の銃を大量に売った、お金で米国は、 ロシアよりアラスカを買い取ったという話があるくらいです。 -------------------------------------------------------------------------------------------- 廃藩置県で藩の借金をチャラにされた、大阪の商人が短期間で、 立ち直ったパワーには敬服しますね。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。お礼が遅くなりました。M(__)m >「薩長土肥」が主役にならなくても、「徳川幕府は、つぶれた」 そう、考えられます、一番の要因は財政の悪化です。……もう少し、経済的な視点から歴史を観察することも必要だろうという気持ちは持っているのですが、まだそこまで到達していません。もっとも「歴史=経済」という見方もあるのかもしれませんが。ただ、主役のいかんにかかわらず、どんな政権であっても、おしとどめることのできない時代の潮流というのはあるのかな??という気もしてきました。 南北戦争で不要になった旧式の銃を大量に売った、お金で米国は、 ロシアよりアラスカを買い取ったという話があるくらいです。……そんな話もあるのですか。 大阪の商人が短期間で、立ち直ったパワーには敬服しますね。……私は、関西には、まったくなじみがありませんが、関西には、京都も含めて、何か得体のしれない「したたかさ」といったような印象があります。

noname#247529
noname#247529
回答No.1

260年前の影響で言えば、外様大名となったことで、江戸から地理的に遠く、心理的に幕府に恩義を感じる要素は少ないというように、江戸の影響が全般的に薄いことがあげられます。忠誠心が小さかったことで倒幕しようとする考え方を生みやすかったことの大きな素地ではあるかもしれません。 鎖国はあまり徹底はできなかったようですから、特に薩摩なんかは海外との貿易で力を蓄えたりできたことがありましたね。鍋島藩がかなりの技術などを蓄えられた理由でもあるかと思います。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。お礼が遅くなりました。M(__)m 皆さんからのご回答を考えているうちに、「薩長土肥」とはいいながら、その倒幕のエネルギーの背景というのは、同一ではない、むしろ、それぞれの藩が抱えていた、もっと複雑な事情があったのではないかという気がしてきました。また、この4藩に限らず。

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