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韓国への恨みと薩長の恨み

どっちが大きいですか? 現在の韓国への日本人の恨みと幕末の長州が薩摩、または薩摩が長州に抱いていた恨みの気持ちはどちらが大きいですか? 幕末の薩長の険悪ぶりを知りたくてのしつもんです

  • gaitu
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  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

日本人で韓国を恨んでる人はいないと思いますよ。 ただ、韓国人は、民度が低いなぁーとあきれてはいます。 ようするに、韓国なんか、日本人は相手にしていない、、、ということです。 私も、No.2さんと同じで、どうして西郷隆盛が、銅像まで立てられるほど 人気があるのか理解に苦しむ一人です。 会津の味方をして、長州と戦ったかと思うと、今度は、会津を裏切って 長州と手を結ぶ。 全く、信頼出来ない人間です。 NHKの「八重の桜」は、鹿児島県民も見てますから、西郷隆盛が、さも、会津の人間に対して 情? があるような描き方をしていますが、、、。 実際の、西郷隆盛や長州人は、戦いで殺した会津の兵士の、目玉をくり抜いたり、 兵士の性器を切り取って、その兵士の口のなかに押し込んだりしてたようです。 (会津士魂 早乙女貢著) 薩摩兵士や長州の兵士が、殺略した会津兵にたいして、どういう行為をしてたか、、、と言うことぐらいは、 指揮官の西郷なら充分に分かっていて、素知らぬ顔をしていたのですから、 西郷隆盛がやらせていたのかもしれません。 いくら敵の兵士であっても、死体を侮辱してはならないことです。 十五代将軍 徳川慶喜は、「長州は、最初から反幕だったから恨みは無い。が、薩摩は、 途中で掌をかえして裏切った。薩摩だけは、絶対に許せない!! と語っていたそうです。

gaitu
質問者

お礼

面白い話しでした。正義は一体どこにあるのかもうこうなると分かりにく過ぎて思考ストップしてしまいますね・・・ 回答ありがとうございました

その他の回答 (2)

  • Nannette
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回答No.2

韓国への恨み・・・ありません。 反日教育を施され、やみくもに反日反日と騒ぎ立てる今の韓国国民には単にあきれかえり、哀れに 思い、時には軽蔑の念さえ覚えこそすれ、なにひとつ恨む感情などは持ち合わせていません。 彼らが何時の日か、国家が秘して国民に開示していない多くの真実を知り、気持ちをあらためるな ら、わたしは気持ちよく彼らを受け入れたいと思います。 薩長の恨み・・・ありません。 NHKのドラマ「八重の桜」で広く知られるようになった、戊辰戦争から発展したいわゆる会津戦 争。軽く見ていますと、あたかも薩長の暴挙と受け止められます。事実、今日ですら、福島県では 一部の人はことに鹿児島県の人を恨み嫌う傾向が見られます。 しかし、良く考えてみれば、会津藩があそこまで討幕派に狙われた背景には、やはり「ならぬこと はならぬ」といった家訓をあまりにも一途に守り過ぎた、いかにも東北人らしい、悪く言えば鈍重 さが感じられます。 しかし、薩長ともに、そうした東北ならではの鈍重さは理解できていたようです。ならばなぜあそ こまで行ってしまったのか。そこには西郷隆盛という人物の性格が見えてきます。 上野の山に立つ西郷隆盛像、しかしわたしはあの人を尊敬していません。世界の事情に通じ、政治 とはなんたるかをよく呑み込んでいた大久保利通などと違って、西郷隆盛は、極端に言えば、ただ 若手志士たちに人望があっただけの指揮官に過ぎなかったように感じるからです。 西郷はとかく若手志士たちのエネルギッシュで短絡的な突出に翻弄されています。世界規模の大き な視野や理念といったものを持たず、結局は薩摩の一頭目にすぎなかった、その西郷だからこそ、 会津攻略に際しても、はたしてその必要がありや…という答えを得ずして、ただ勇み立った兵士た ちを抑え込むことすらできなかった。わたしは西郷隆盛はただそんな人物にすきなかったと思って います。 鈍重で、世情に疎く、ましてや世界に目を開く時点が遅れていた、いかにも東北人らしい会津、だ からこそ、幕府崩壊、大政奉還、そうした大変な革命期に、それがどういうものかとの理解が遅れ、 早急にして適切な身の振り方を誤ってしまった、そうした会津藩にも騒乱の原因の一端は無いとは 言えない。 それを考えれば、あの戦争はただ不幸なものであったとは思うし、あえて薩長を恨む気持ちもあり ません。ただ、西郷隆盛がもうすこし知的であったらと悔やむだけです。

  • bgm38489
  • ベストアンサー率29% (633/2168)
回答No.1

幕末の長州と薩摩の間の確執は、現在のものとは比べ物にならないぐらい大きかった。その原因は、長州藩が尊王攘夷を唱えて京都の治安を乱したため、中川宮親王が薩摩藩・会津藩に征伐を命じたことによります。恨み、というより、政治的・感情的に激しく対立していた、というべきでしょうな。しかし、現実問題として、海外列強国の脅威を薩英戦争・下関戦争で感じた両藩は、開国論に傾いてゆき、やがては坂本龍馬らの説得により、薩長同盟へとつながるのです。坂本龍馬がいなくては、薩長同盟などありえなかった、とされますが、実際には、両藩ともきっかけを待っていたのかもしれません。 険悪というより、収まりがつかなかった、かな。

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