• ベストアンサー

幕末の薩長について

激動の幕末日本は薩長を中心に動いていましたが、薩長同盟若しくは薩長連合軍はなぜ毛利・島津連合軍と呼ばないのでしょうか?また藩主の毛利敬親が有能な若手を途用し表立って藩政に口を出さなかった理由は?

  • 歴史
  • 回答数5
  • ありがとう数0

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (807/3025)
回答No.4

それが毛利家の御家柄です。 会議に参列した藩士が自由に意見を言い合い、参加したものの多数決を取り、藩主はそれを採決するだけ、それが代々続いた毛利家の統治システムなんです。 もともと毛利家は元就の時代から周辺の諸侯を束ねることで大きくなりその結果家中政治を合議制で進めていた大名です。それが江戸時代になり文章化・システム化が進み、近代近くまで洗練され残っていたわけです。 信長・秀吉・家康みたいな武力で周辺の大名を制圧し強烈なリーダーシップをもちながら大きくなった大名とはスタート地点から毛色が違うと言えます。

その他の回答 (4)

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1959/9572)
回答No.5

sindengen9 さん、こんばんわ。 江戸時代になると、大名家は藩という一種の法人になってしまいます。だから、殿様のトップダウンで意思決定することは珍しくなります。また、毛利家は安芸の国人領主から戦国大名になったので、もともと重臣たちの中には同じ国人層の出身がいて、彼らの意見を聞いてから決める家風でした。毛利敬親の時代もその名残が残っていたのでしょう。薩長同盟ももともと形式上は殿様同士の取り決めでも、実際実務レベルは藩の重臣やその下クラスの人々が取り決めていました。

  • koiprin
  • ベストアンサー率23% (72/306)
回答No.3

毛利氏、島津氏は、薩摩藩、長州藩だけではないからです。 毛利という大名は、ほかに佐伯藩(毛利高謙)、長門清末藩(毛利元純)、長門長府藩(毛利元敏)、周防徳山藩(毛利元蕃)などがいます。島津は、他に日向差佐土原藩がありました。 分家のような存在ですが、十代前後続いた別の藩として存在しています。 藩政に口を出さないのは、旧態依然としたお殿様の特徴です。政治に口を出す大名のほうが珍しい。 若手を登用したのではなく、幕末の雰囲気で騒いでた若手に押されただけかと思います。藩主となってから政策を任せていた村田清風は、若手ではなかったですから。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

歴史的名辞において、職徳同盟くらいじゃないの?大名家の名前を使っているのは。 清洲同盟とか尾三同盟とかいう言い方もあるし。 実体的には、薩摩藩の西郷、小松と長州藩の木戸孝允が主導しているわけだし。 毛利敬親が有能な若手を途用し表立って藩政に口を出さなかった理由は ↓ ずっとやったことがなかったから。 ※ まえにテレビで磯田道史さんが言っていたのだが「残された文章を見るだけで、財政状態が全部わかるのは長州藩だけだ」とのこと、つまり文章主義による官僚組織が確立していたのは、江戸時代では長州藩だけなんだそうです。 そういった官僚主義が貫徹していたので、殿様は君臨すれども統治せずというのがシステム化されていたそうだ。

  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.1

同盟は国(組織)と国(組織)とが結ぶモノで、人と人とが結ぶモノではない

関連するQ&A

  • 今日、ふとした話で思ったのですが、幕末に薩摩・長州は討幕運動の大きな機

    今日、ふとした話で思ったのですが、幕末に薩摩・長州は討幕運動の大きな機運をつくったと 思うのですが、薩摩の島津は有名ですが、長州の毛利はイマイチその動きが目立ちません。 藩といえば藩主が盟主として目立つはずなのに、長州はなぜ藩主の存在がイマイチ目立たないのでしょうか? 吉田松陰から始まって、高杉晋作や伊藤博文、山形有朋とかは有名ですよね。

  • 幕末の会津藩

    歴史に詳しくない私は、単純に判官びいきで会津藩が好きでした。 ところが先日、歴史に詳しい知人から以下のような側面もあったと聞き愕然としました。 会津藩は幕末の最後の段階で政策を誤り、不義不忠?をして京都守護職のときの栄光を自ら汚した。 会津藩は薩長土のような広い視野を持っておらず、世界の現実や日本の将来が見えていなかった。 会津藩は長年、領民に対して差別意識が高く過酷な施策を採っていたので(京都守護の経費を賄う以前から?)、領民から恨みを買っており、会津戦争直後には領民から同情されなかったどころか政府軍を歓迎した領民が反藩政の一揆を起した。政府軍は一揆側の要求をことごとく容れた民主的な善政を敷いた。 戦死者の遺体放置の件は、会津側だけでなく政府軍側のそれも同様だった。 戦後の遺体処理の件は、それを取り仕切ったのは村役人や他の東北諸藩の役人たちで、薩長は誰も参加していないし関与していなかった。以前から藩当局や藩士たちに恨みを抱いていた領民による仕打ちの結果だった。(これは私には意味不明) 戦後、新政府、特に薩摩は会津に同情的で、改易することなく減封・転封処分で済ませた。また、会津藩の優秀な人材は新政府が重く用いた。普通なら会津藩がしてきたことは、藩主切腹、お家断絶、藩は取り潰しが当たり前だったのに。 これが本当なら、けっして会津藩が全て正しわけではなく、むしろ薩長のほうに分があることになります。 う~ん!ちょっと私には難しすぎるので、誰か解説してください。

  • 良かれと思ってしたことが裏目に出ても自分の非を認めないのでしょうか

    日本はかつて日独伊三国軍事同盟を結びましたが、同盟の際に中心となった松岡洋右と大島浩は戦後それぞれ「一生の不覚」、「国家をミスリードさせた」と自分の非を認めております。 それに対して、他の歴史上の人たちはどうなのでしょうか? 例えば、関が原の戦いでは毛利家のために毛利・安国寺軍の進路を阻んだ吉川広家は結果的に毛利家を転落させましたし、福島正則のように豊臣家のためを思って徳川方に味方したのに、結果的に豊臣家を滅亡に導いてしまいましたが、結果的に裏目となった自分たちの行いについては「自分の判断ミスだった」と嘆いたりしたのでしょうか?

  • 幕末薩長同盟について、

    幕末薩長同盟について、 いずれも、桂小五郎の日記に依ります。 (1)薩摩藩名義での武器購入は、長崎で桂小五郎自身が薩摩藩の某氏に依頼した。 (2)同盟締結前夜、龍馬来訪翌日陪席。 と有ります。 (1)龍馬が斡旋した資料? (2)龍馬が夜半隆盛説得した資料? 正誤問いませんが、 小説以外の資料お願いします。

  • 幕末の薩長土肥の殿様

    幕末に、徳川幕府と戦う薩長土肥の下級武士達(官軍)に対して、 それらの藩の殿様は、制止できなかったのでしょうか? 力がなくなったから止められなかったのか、逆に秘かに応援していたのか、 殿様はどのような状態・立場だったんでしょうか? 歴史に疎いので、単純な質問ですが、教えてください。

  • 西郷隆盛と倒幕運動

    長文ですが西郷隆盛についての質問です。 ずばり西郷隆盛は、いつ倒幕を決意したのでしょうか?? 元々は幕府を中心とした諸藩連合による政治を 実現する為に斉彬の下で働いていましたが、いつ幕府を見限ったの でしょうか?? 確かに将軍継子問題で、一橋派が破れ幕府を見限ったとも 考えられますが、それ以降も西郷とは不仲でありましたが跡継ぎの 久光は斉彬の意志を継いでいますし慶喜も健在でしたので、この案を 推し進めても良いのではないかと思うのですが、どうなんでしょ うか? ただ薩長同盟以後になりますが結局は久光も慶喜を見限りましたし 上手くいかない話だったのかもしれませんが西郷はいつ、尊敬する 斉彬の意志を裏切ってまでも徳川家(慶喜)への倒幕を決意したのか が疑問です。 家茂の頃には幕府保守派が多かったと思いますが慶喜が将軍となり 諸藩連合による政治を実現できるチャンスが生まれたのにも関わらず 西郷は坂本龍馬たちとは違い倒幕を決意しました。 これは結局、慶喜は斉彬が見込んだ程の人物では なかった(幕政改革は口実で徳川が主体になることしか考えていなかった) ということでしょうか? まとまりのない文で申し訳ありません。 回答お願いします

  • 天正10年 3月

    織田信長の親征による最後の征服戦争である天正10年の"甲州征伐"ですが、織田・徳川連合軍は一体どの位の規模の兵力を動員したのでしょうか? 資料によってマチマチで、1万5千から16万余までの開きがあります。 落ちぶれたとは言え甲信二カ国の大大名である武田家を討伐するのに1万5千では少な過ぎるし、大体侵攻経路である岩村口、木曾口、飛騨口、駿河口からの大規模な分進合撃作戦を成功させるにはそれなりの戦力が必要と思われます。 また、当時の織田家の石高はざっと800万石で常備兵20万人は動員可能と思われますが、毛利や上杉さらに四国遠征を控えていた信長にとって16万の動員は多すぎるように思われます。 "甲州征伐"は中世の終りを告げるエポック的な大事件であり、信長もそれを良く認識していたからこそ自ら出馬に及んだものと思います。 私の考えとしては5~6万余が妥当な線ではないかと思いますが、如何なものでしょうか?

  • 幕末時、薩長が不仲だった原因は?

    薩長の仲が悪かったのはどうしてでしょうか? 黒船来航以降の意見の違いはともかく、歴史的な問題があったのだと思います。 よろしくお願いします。

  • 薩長同盟について

    坂本竜馬は薩長同盟についてどういう働きをしたと考えられていますか。最新の動きをあわせて教えて下さい。よろしくお願いいたします。

  • 薩長土の方言

    こんにちは。 以前から不思議でたまらないのですが、幕末物のドラマには大抵『薩長土』が出てきますが、薩摩と土佐の人間を演じる場合は方言が全開なのに、長州は標準語が多いように思えます。 昨年の『新撰組!』もそうでした。 何が理由と思われますか? 長州の方言はインパクトが薄いからなのか・・・、長州人はインテリっぽいからなのか・・・、こんな考えしか思い浮かびません。(長州の方ごめんなさい、でも高杉晋作好きなんですよ) ご意見お願いしますm(__)m