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当時の長州について2

幕末の長州を読んでいて分からない事がちらほらと。 簡単に書きますので分かるところがあれば教えてください。 6、1865(慶応元年)9月21日に幕府は再征長令発布を出しますが 幕府が第二次長州征伐に踏み切った理由が分かりません。 第一次長州征伐は8・18の政変を経て禁門の政変があったので頷けるのですが、 第一次が終わって長州は内戦に入ってます。そして2月に終了したかと思いきや今度は幕府による再征。 しかも今度は諸藩も朝廷もあまり快く思っていないと言います。一体、第二次長州征伐は何故おきたのですか? そして第二次は小倉戦が長期間続いたのに、途中で将軍は死んで、指揮官は逃亡。 一体いつが終わりですか?またそれに関しての長州の処分は? 7、1866(慶応2年)1月22日に薩長同盟が締結されますが 長州はこれで武器などを薩摩名義で買うことが叶いましたが、薩摩は? 長州は薩摩に何をしたのでしょう? 8、1862(文久2年)に高杉は上海行きが決まってますが これは桂による斡旋のお蔭だと言います。 このとき彼は世子の小姓役(学習院用掛)だったはず。 そんな重役の彼が何故選ばれたのでしょうか? 9、1865(慶応元年)、長州藩内の内戦が終わった3月26日。 高杉は藩から洋行修学の許可を得、長崎へ行きましたが、商人・グラバーの説得で 下関開港に奔走すると読みました。 グラバーは何故洋行修学を断念させ下関開港を迫ったのですか? そして何故高杉はそれを素直に受け取ったのでしょうか? 以上どれか分かるものがあれば教えてください。

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  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.2

6.第一次長州征伐で責任者を処罰していわゆる俗論等(恭順派)の藩政府ができましたが、高杉をリーダーとする奇兵隊ほかが藩政府を倒して討幕派が政権を握り、武装強化をしたのが約束違反だということでここで長州を完膚なきまでにたたきのめしておこうというもくろみでした。 8.高杉晋作はまだ父親が現役でしたからあくまでも部屋住みにすぎず正式には死ぬまで藩の正式な役職にはついていないはずです。

shuri1213
質問者

お礼

ありがとうございます。 8に関して見た資料が間違っていたのでしょうか? 歴史読本にはそう書いてあったのですが・・・

その他の回答 (1)

  • Scull
  • ベストアンサー率26% (248/951)
回答No.1

7.について、  長州が薩摩名義で武器購入できるようになった見返りに、薩摩は亀山社中経由で長州の米を購入したと聞いています。薩摩の武器も、亀山社中経由で輸入したと聞いていますが。

shuri1213
質問者

お礼

そうだったんですね。 近代兵器と米。 つりあいが微妙ですが、人間が生きていくためにはお米は大事ですし。 ありがとうございました

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