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当時の長州について1
幕末の長州を読んでいて分からない事がちらほらと。 簡単に書きますので分かるところがあれば教えてください。 1、1862(文久2年)11月13日、攘夷のため異人殺害計(失敗に終わる)、 12月12日・・・イギリス公使館焼き討ちを決行 ↑の二つの攘夷に関してですが、これ以前に高杉は上海に渡り清が外国に侵略されている ところを見ていて、外国には敵わないということを分かっていたはずなのですが、 なのに何故日本に帰って来てこの様な攘夷に走ったのですか? 2、1863(文久3年)4月20日、に将軍家茂が攘夷の決行日を5月10日に決定するのですが、 何故幕府は攘夷をすることを決めたのですか? 3、1863(文久3年)8・18の政変の政変は何故起きたのですか? 会津はいいとして、薩摩は長州と同じ尊攘派だったはず。 なのに何故いきなり長州を裏切るような真似をしたですか?経緯を教えてください。 4、1864(元治元年)6月15日に長州では京都進発論が高まり、遊撃隊が最初に京に向けて 出発しますが、先の8・18の政変で京都を追い出されたのに何故また京都進発論が高まったのですか? 5、1864(元治元年)7月19日・・・禁門の政変(蛤御門の変)は 4の進発論と関係ありますか?この事件自体よく分かりません。
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こんばんは、1・2についてですが 1、高杉が攘夷に奔るにさきだつ1862(文久2年)4月13日、朝廷は、公武合体派の老中安藤信正の退陣(11日)後、幕府に対し「攘夷の期限を10年」とする内勅を下しています。幕府のように、西欧諸国に押し切られた形での開国は禍根を残す。その前に西欧諸国に対し一撃を加えて力を示す、というものです。したがって、全面攘夷=鎖国ではなく「一時攘夷」というわけです。 この「開国を前提とした一時攘夷」=「破約攘夷」(条約を破棄する)は、狂信的攘夷主義者は別として、多くの藩、志士に影響を与えます。 長州藩でも、周布や桂によって藩論を「奉勅攘夷」に決し、多くの者が「一時攘夷」に奔ります。高杉もこの流れに乗った、ということでしょう。ところで、「破約攘夷」=幕府批判でもありますから、長州の攘夷は、幕府を追い詰めるための方便、という色彩が濃いといえます。 2、何故幕府は攘夷をすることを決めたのですか? この時点での朝廷は、まったく長州が掌握していました。したがって、攘夷決行を迫る朝廷に対し、幕府は人物、方針ともに欠き対抗策を打ち出せないままでした。そのような中で、家茂に対し勅命で上洛を命じ(3月)、半ば脅迫めいた形で攘夷決行を上奏させます(4月)。(幕府=家茂が攘夷決行を上奏するまでは、家茂を江戸に帰さない、という圧力を加えたといわれます。)
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- 6dou_rinne
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3.この時点における薩摩は、まだ急進攘夷派(討幕派)ではなく実験者である島津久光の意向を受けた公武合体派でありその点では会津と同じであり、あまり急進的な攘夷論をとなえる長州とは相容れなかったということです。 4.天皇が公武合体派に主導権が移って公武合体が真意といわれたので、急進攘夷派のよりどころがなくなり、天皇を自分たちの手中に取り戻さなければということで急進派が京都進発論をとなえて、桂小五郎らは反対しましたが、藩政府は急進派に引きづられて出兵してしまいました。 5.当然関係あります。天皇を自分たちが確保しようとして御所を制圧しようとして警備の薩摩や会津兵と公選したのが禁門(蛤御門)の変です。
お礼
ありがとうございました。 やっぱりこの時期は難しいですね(汗)
お礼
よく分かりました。 ありがとうございます!!