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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:内戦回避の西郷どんが倒幕の訳け)

内戦回避の西郷どんが倒幕の訳け

jkpawapuroの回答

  • jkpawapuro
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回答No.1

先週の西郷さんは私まだ見てないんですよね。 D、イギリスに勧められた(そそのかされた) この時代の意思決定の主体が薩摩では西郷なのか小松なのか、イギリスは誰なのか、主語の置き方が難しい時代です。 薩摩の方針転換ですが、これはフランスによる日本の植民地化に強く反応したのだと思います。この時代幕府はフランスに借金をし、横須賀製鉄所・ドック・仏式陸軍など近代化を始めています。(巷間蝦夷地を担保にしたと言われてますがその部分は私はよく調べていません。)この状況は逐一イギリスから警告されたはずです、イギリスとしても日本が自国が食い込むことなくフランスの植民地になるのは面白くないですから。 この外国に借金をさせ近代化というのが列強が植民地化をする常套手段です。開港による幕府の管理貿易もあいまって、薩摩から見ると幕府と藩の力関係をつよく幕府に引き戻すと共に、日本全体が衰退・植民地化して幕府だけ生き延びる構図になります。幕府は第二次長州征討で長州を滅ぼしその領地の資金でさらに近代化をはかるわけですから、第二次長州征討を成功させてしまうと逆らう藩は幕府に力ずくで潰され日本の衰退と幕府の強大化が進むことになるわけです。薩摩としては容認できないでしょう。 さらに歴史上この動きは特になかったわけですが、横浜開港で外国商人により砂糖が江戸にもたらされると薩摩藩の商売が派手に吹っ飛ぶことになります。実際に危機感を感じてたのはほんの数名でしょうが、状況を考えれば藩の存亡をかけてでも放置はできなかったでしょう。

whaihansei
質問者

お礼

お答え、ありがとうございます。 当時の人が植民地化への危惧を持っていたのは やむをえないものでしょう。 しかしながら客観的には以下の理由から不可能 だといえるのではないでしょうか。 1)日本は武器が劣るものの軍事大国であり   植民地化は容易ではない。 2)当時最強の英国が「インド経営」を始めた   ばかりであり、もはやアジアでの植民地化   には限界が来た。   仏も東南アジアで手一杯。 >幕府は第二次長州征討で長州を滅ぼしその領地の資金で >さらに近代化をはかるわけですから、第二次長州征討を >成功させてしまうと逆らう藩は幕府に力ずくで潰され >日本の衰退と幕府の強大化が進むことになる と幕府が考えたとしても、それは「薩摩」がいることが前提。 ここで一つの事実をお知らせします。 1862年、幕府は海の守りを強化するため、各藩に海軍力 強化を奨励します。 この結果は以下です。 幕府21隻強化 薩摩18隻強化 長州 5隻強化 つまり薩摩の力は幕府並みということ。 更には薩英戦争で英国に近づいた結果、アームストロング砲等 最新兵器を購入。 そして薩長密約でこれを用いた長州は幕府軍を圧倒したので、 薩摩は軍事NO1を確認したものです。 あとは政治NO1を手にいれるだけ。 それが朝敵長州が動けない「倒幕」策だと思われるのです。 公武合体派だった岩倉は尻馬に乗ります。公家のNO1を 目指し。 結局のところ幕末は関ケ原に変わらず、各藩は二股を掛け 生き残りを模索。 当初は「公武合体」を支持し、薩長が天皇を握るや「倒幕」。 公武合体を根強く進めた土佐も藩内の倒幕派がすぐ呼応。都合の よいこと。 なお大河ドラマは西郷どんをよく見せようとしているので 史実とは異なると思います。

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