• 締切済み

江戸時代の南北町奉行の所属人事について

ichikawa2017の回答

回答No.6

No.4です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 お礼にいろいろ記載されておられますが補足の説明をさせていただきます。 「江戸の町百万の民を」とされておられますが南北両奉行所の管轄は江戸市中の町民(およそ50万人)だけでした。 残る50万人は武家層で管轄外でした。 江戸市中には全国の大名が江戸屋敷を持っていた関係もあり面積的には約60%以上の土地が武家地でした。 さらに約 20%程度の土地が寺社地でした。 つまり町人は江戸市中のおよそ20%程度の地域で暮らしていたことになります。 大名は老中の管轄でした。 大名屋敷というのは領国と同じ扱いで治外法権を持っていました。 家臣は大名の管轄にありました。 幕府といえども大名の屋敷内へは大名の許可なしに踏み込むことができない上に家臣の言動には口出しができませんでした。 家臣が市中で騒動を起こした場合は市中には取り押さえる人間はおらず大名屋敷に連絡をして大名家から家臣の取り締まりを勤める人物が出張ってきて屋敷へ連れ帰って処罰していました。 万が一家臣が市中で騒動を起こしたことが老中の耳に入ると家内取り締まり不行き届きとされて大名が叱責されました。 下手な対応をすると国替えや減歩(領地の一部取り上げ)されてしまいました。 旗本や御家人などの幕臣の武士は若年寄の管轄でした。 寺社地は寺社奉行の管轄でした。 初期には南北両奉行所の人間は敷地内にも入れませんでしたが罪人が逃げ込むなどということがあったことから中期以降は寺社の建物に踏み込まない限り寺社内でも取り締まりができるようになりました。 江戸時代には博打は重大犯罪でした。常習者は死罪になることもありました。 この為に町奉行所が手を出せない大名の下屋敷や寺社の境内などで開かれていました。 町人は町役人という自治組織が編成されていました。 町名主とされた人が担当地区の一切の行政の実務を請け負っていました。 両奉行所はこの町役人の筆頭である町年寄りに通達したり報告を受けるだけでした。 実務の中の治安維持を専門に請け負う岡っ引とか御用聞と呼ばれる人がいて、奉行所の治安維持を担当する同心と私的な契約を結んでいました。 犯罪者の探索や捕縛はこの町人である御用聞がやっていました。 奉行所の同心はこの御用聞を指揮したり役所として必要な書類を作成していました。 つまり南北両奉行所という役所は江戸市中全域を管轄していたわけでも総人口100万人といわれる人々を管轄していた訳ではありませんでした。 「士農工商など超えた町民あっての幕府と言う考えに基づいて」とありますが士農工商などという職業で人を区分するような制度はありませんでした。 秀吉が兵農分離を行う際に中国の制度を小耳にはさんで言い出したものです。 日本で慣用的に武士の意味に使われますが中国での士は士大夫という官僚や知識層に属する人達のことでした。 士農工商という言葉が広く使われるようになったのは明治以降のことです。 明治政府が戸籍制度を設ける際に四民平等というスローガンを使いましたがこの際の四民というのが士農工商のことでした。 江戸時代の身分制度は公家、武家、町人、百姓というおおまかなものでした。 町人と百姓の違いも城下町や大都市に暮らす人を町人、郊外の農漁村地帯に住む人を百姓とするという極めて大まかなものでどのような仕事に従事しているかなどということは問題にされませんでした。 武家と百姓の境界も曖昧で郷士とされる人達もいました。 戸籍上は百姓であっても両刀を差して袴を着用して市中を闊歩することを認められた人達がいました。 幕末の有名な新選組はこの郷士の集団でした。 近藤勇が板橋で処刑されたさいに切腹ではなく斬首だったのは身分が百姓だったためです。 >与力同人の方々にスポットライトを当てるべきかなと感じます。 スポットライトをあてようにも上記しましたような実態ですので、地位の低い官僚として説明することになります。 TVの時代劇のように華々しい話にはなりません。 >遠山の金さんがそうなのかなとおぼろげに思いますが、 遠山の金さんなどともてはやされるようになったのは名裁きなどではなく天保の改革の際に急激な改革に反対して穏便に進めることを主張したことが町人にとっては町人を擁護してくれる人と受け取られたのが最大の原因です。 特に天保の改革を唱えて成果を急いだ水野忠邦に忠実だった南町奉行の鳥居耀蔵の評判が悪かったことも影響して、巷間に悪玉=鳥居 耀蔵 善玉=遠山景元という図式が出来上がりました。 在任中に鳥居耀蔵によって失脚させられたことも後年の評判に影響しているかと思います。 当時の制度上判決は奉行一人では下せませんでした。 南北両奉行をはじめ勘定奉行なども含めて合議の上で決めていました。 重大犯罪の場合には将軍の認可が必要でした。 先の回答でも説明しましたように奉行所の役人は奉行の家臣ではなく独自の役職でしたので奉行が断りもなく無頼の徒に紛れて捜査をするなどということは不可能でした。 奉行一人の才覚で名裁きなどということはできませんでした。 この辺が鬼平で有名な火付盗賊改方と違う点です。 >彼もまた妻が幕府の御目見得の役付の家の娘だと聞いたことがあり、やはり家柄と結婚が力を持つのだとも感じました。 結婚時には確かに両家の禄高に差はありましたが景元の父親で遠山家の当主であった景晋は長崎奉行でした。 家格はともあれ役職としては見劣りするものではありませんでした。 西の丸の小納戸役を振り出しに務めるようになりましたが、この小納戸役の際につかえたのが幼少時代の徳川家慶でした。 嫁の実家の影響よりもこのことの方が影響していると思われます。 組織のトップである将軍と顔なじみだということは何かにつけて有利です。 現在の霞が関の官僚の世界でも変わらないでしょう。

sinon5
質問者

お礼

ありがとうございます。当時の組織構成や時代劇で取り上げられる人物の等身大が理解できました。時の町奉行により人々がどうその人物や在り方を捉えたかにより伝え聞く内容も違うのだと実感しました。

関連するQ&A

  • 町奉行所について

    江戸時代で町奉行所に勤める与力、同心は不浄役人・サンピンとか不評だったのに奉行は好評(人にもよるが)で同じ町奉行所勤めでも旗本となると評判もまっ逆様になってたのですか?

  • 町奉行所の与力、同心

    町奉行所の与力、同心は御家人なのでしょうか?

  • 江戸時代の町方などの与力・同心

    江戸時代の町奉行所などの与力や同心について教えてください。 同心よりも与力の方が地位は上ですが、どちらも世襲制ですか? 私が聞いたことがあるのは、どちらか忘れたのですが、どちらかが株で売買できるというもので、 どちらかが世襲制だというのですが、どうなのでしょうか? また、世襲制であれば、与力は若い人であっても与力として経験豊かな中年以上の同心よりも 高い役職であったということですか? ※支離滅裂な文章で申しわけありません。 ご指摘いただければ、補足いたします。

  • 南北奉行

    江戸の町奉行は南北で月交代というのは 奉行以下の役人も南北二組いたのでしょうか? それは権力の集中による腐敗を防止するためだったのでしょうか? また休みの月は何をしてるんでしょうか?

  • 町奉行所の与力について

    町奉行所で奉行の下はなぜ小頭とか組頭とかと言わず与力って言うのですか?部下の武士が少ないからですか?

  • 江戸時代の町方などの階級などについて

    1. 町の治安などを担当する役所は奉行所ですね。 その役職の階級としては奉行、吟味与力、与力、同心、そして岡っ引となっていたのでしょうか? 2. 江戸時代のこの階級は今の警察制度の階級のどれにあたるでしょうか? (現在の警察官の階級って、警視総監、警視監、警視長、警部、警部補、巡査部長、巡査長、巡査となりますよね。江戸時代の奉行所って警察とは職務が違うでしょうが) 3. 武士としては足軽が一番下で、その下に武士ではない中間、さらにその下に小者とかがいたのでしょうか? 4. 足軽の上にはどんな階級があったのでしょうか? 5. 奉行、吟味与力、与力、同心には武士のどんな階級が就いたのでしょうか?

  • 江戸時代の厳罰主義について

    このカテでいいかどうか分からないのですが、質問させて頂きます。 江戸時代の警視庁、すなわち南北の両奉行に勤める与力は50騎、同心でもわずか250人の人数で、当時の100万都市の治安を担っていたと聞きます。 今では、警視庁の警察官の数も4万5000人に上るそうです。 江戸時代の100倍以上ですね。 当時と比べて人口は10倍にしかならないのに、それでも検挙率が落ちているとの報道があります。 なぜ江戸の町奉行がそんな少人数で治安を保つ事ができたか、その理由は、厳罰主義に徹底していたからと聞きます。 10両の金を盗めば打ち首とはよく言われていますよね。 その他にも、真犯人に間違いないが物的証拠に欠ける時は拷問にかけて白状させる事が許されていました。  入獄すればしたで、釈免されるまで地獄のような毎日をおくっていた事と思います。 一方、極刑が言い渡されれば、市中引き回しや、はりつけ、獄門など、犯罪者にはとても厳しい時代だったと思います。 現在、厳罰主義を訴えると必ずと言っていいほど 「人権蹂躙、警察による管理社会の再来、自由に物が言えない暗黒社会」 と言って、いわゆる人権派団体から大反対されるのがオチです。  つまり 「厳罰主義 = 悪」 という考え方なのですが、それでは当時の江戸市民は実際どのような生活をおくっていたのでしょうか? 結構、江戸文化が花開いた時代だったように思うのですが、やはり人権派の人たちが言うように暗黒社会だったのでしょうか?  一般市民でも与力や同心に監視や圧迫を受けていたのでしょうか? 警視庁と東京都民、町奉行と江戸市民、この二つの関係に決定的な違いは何かあるのでしょうか?

  • 江戸時代の吉原の治安管轄は?

    江戸時代中期、特に明和から安永の頃、吉原遊郭の治安はどのようになっていたのでしょうか。南、北の町奉行所の管轄だったとしたら、どの部署だったのでしょうか?例えば吉原で傷害や殺人事件などが生じたさいに、実際に探索や吟味を行うのは誰なのでしょう?また、町奉行所の定町廻り同心がパトロールする範囲なども教えていただければ有難いです。

  • 江戸時代 府外の治安維持は誰が担当しましたか?

    いわゆる朱引き外の事件の探索、捕縛などは誰が(どんな組織)が担当したのでしょう。江戸府内は南北合わせても300名ほどしか同心がいなかったとのことですが、田舎で事件が起きた場合にはまずどこが担当するのですか?犯人が捕まった場合は奉行所に送られ裁きを受けるのでしょうか。 具体的には江戸で事件を起こした者が、府外に逃げた場合です。奉行所の同心が探索に向かうのか、あるいはその町か村にある組織に早馬などで情報を流し現地で探させるのかを教えていただきたいです。

  • 与力と同心

    江戸幕藩制下で、町奉行の配下に与力同心っていう職がありました。 与力は同心の上席ですね。 1. その関係は与力集団と同心集団という、個人ではない関係でしょうか? 2.それとも一人の与力が何人かの同心の上席になっているという関係でしょうか? もしそうであるなら、一人の与力の下に何人の同心がいたのでしょう? 以前の質問:http://okwave.jp/qa/q8861482.html