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江戸時代の南北町奉行の所属人事について
fujic-1990の回答
- fujic-1990
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手元の時代考証事典をちらっと見てみましたが、誰がどのタイミングで配属を決めたかは書いてありませんでしたね。 以下、私の知識ですが、割り振られたのは、たぶん、江戸に町奉行所ができた時でしょうね。決めたのは、おそらく老中か若年寄。 いったん配属が決まった後は、与力・同心は奉行所に付きます。 奉行の配下ではありますが、家臣ではありませんので、奉行が代わっても解雇されません。現代の官僚が大臣に付かないのと同じ。 基本的に南北の奉行所間も、ほかの役職とも、一切移動はしなかったようです。小説では懲罰として、伊勢の代官所の同心(心付けがないので貧乏)に飛ばされたという話もありますが・・・ 実際にそういうことがあったのかは不明です。 北町・南町の奉行所ごとに、出入りの商人が決まっていて奉行所への上納金を納めるなど、奉行所ごとに「秘密」があるので、その点からも奉行所間でも移動はしなかったと思われます。 与力・同心は建前では「世襲なし」なんですが、子供が13・4歳ころに「見習い」として奉行所に出仕させて仕事を覚えさせます。 与力の子の場合は、見習いが終わると「本勤並」となり、「本勤(ほんづとめ)」となって・・・ ということで、何年も訓練してやっと一人前になるので、捜査法や奉行所の習慣に無知な素人が割り込む余地がナイのだそうです。 同心は、一代かぎりの「御抱席」で、仕事ができなくなれば解雇される立場ですが、実際は与力と同じく子供を見習いにして学習させますので、新規採用とは言うものの事実上の世襲職。 ただ、同心になっても、毎年の年末に与力の家に行って「永年申しつける(来年も任務につけるぞ)」と言ってもらわないとお役御免になる(奉行所内の仕事を干される?)という建前だったようです。 ちなみに与力も同心も、どんなに功績をあげても出世はしません。与力が町奉行になったりせず、与力は終生与力。同心は同心で、同心が与力になったりはしません。 移動しないと言っても、奉行所内部での役割が変わることはあります(例えば町回りは若くて優秀な同心が選ばれ、年をとって動き回れなくなると他の仕事へ)し、それによって町人からの心付けなどが増減したりはしたようですが、それは出世ではないですよね。 なので、江戸幕府開闢以来、ずっと同じ家の代々がずっと同じ奉行所で、同じ仕事を世襲しているわけです。 そう言えば、同心の家々は八丁堀にまとまっていたので、俗に「八丁堀」と呼ばれていました。同じ場所に住んでもいたわけです。
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補足
大変に詳しく教えて頂きありがとうございました。南北の配属決めは表向き抱席一代、裏は世襲となると奉行所設置時点で振り分けが決まっていたと推測されますね。 遠山の金さんや大岡越前が有名ですが、金山は与力から奉行に成ったのではなかったでしょうか?私の記憶違いでしょうか。出世して奉行になったケースだとすると、記載とは違うので確認しておきたいところです。