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江戸時代の南北町奉行の所属人事について

ryuji_sの回答

  • ryuji_s
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回答No.5

 まずは大前提となるお話から。  町方の組与力同心たちは御目見以下の御家人でした。  御家人の家格には大別して、譜代席、譜代准席(二半場)、抱席の三つがあり、前二者には家禄があり、隠居・家督相続(当主死亡時は跡目相続)も認められていました。しかし大半の御家人は一代限りの抱席で、退職すれば御家人の身分を失いました。ただし空席となった跡には、その子を新規に召抱える(=抱入)のが慣例となっていましたから、事実上の世襲が行われていました。  町方の組与力同心は譜代筋と抱筋の混在する場所でしたが、ほとんどは抱席の御家人でした。なお、ごく稀なケースですが、多年の精勤が認められ、抱席から譜代に家格が上昇したケースもあります。 Q1)彼らが南町か北町どちらかの配属になるのは、誰がどのタイミングで配属を決めていたのか  町方与力のほとんどは抱席でしたから、親が暇(退職)になると、倅が新規に抱入となりました。したがって、北か南かは最初から決まっていたといえます。実子がいない場合でも、組与力同心間で養子を出し合っていたため、ほとんどの組与力同心は、互いに縁戚関係にあったという元町方与力の証言もあります。  それでも、何らかの事情で、与力の定員に空席が出来、小普請組その他から転任(=入人)してくる場合がありました。この場合、採用の決定は人事権者である町奉行が行ったものと思われます(ただし同心の人事は年番方与力の担当でしたから、実際の同心の人選には彼らが関与していただろうと思います)。また、数は非常に少ないものの、同心から与力へ昇進したケースもいくつかあります。 Q2)また南町→北町またはその逆の配属転換はあったのか、あるとしたらどんな理由でなのか教えてください。  基本的には、南北間の異動はありません。しかし、なにごとにも例外はあるものです。  天保年間、南町奉行の鳥居甲斐守が北町奉行の遠山左衛門尉に対し、北の吟味方与力・東條八太夫を貰い受けたいと掛け合ったという話が記録に残っています。このときの理由は「南町奉行所詮議方(※)之内には御用立候者これ無き事の由を以」とあります。これに対して遠山は「引替候先例これ無き訳を以」、断ったといいます。 ※吟味方に同じ  その後、、  遠山は 北町奉行⇒大目付⇒南町奉行(鳥居の後任)  鳥居は、悪事が露見し、南町奉行を罷免(後に丸亀へ永預)  東條八太夫は、鳥居の失脚後に先手組へ左遷 となっていました。八太夫は、先手組へ組替となった後、南の遠山に町方与力への復帰を運動していたようです。遠山も八太夫の能力を非常に高く買っていたためでしょうか。嘉永二年、南の与力・生田澄三郎が「宜しからざる廉」によって先手組へ左遷された際、その明跡へ入れ替わりで復帰します。八太夫は「先手組」のワンクッションを経て、北から南へ異動したことになります。この他にも、南組⇒先手組⇒北組のルートで異動したと思われる与力の家もあります。  また、八太夫の倅・八太郎は、天保十五年に、鳥居の進達で内与力が廃止となった際、分家独立して与力となっていました。このため、八太夫が先手組に組替となった後も、分家の当主(与力)として、北に残っていました。ところが、八太夫が南の与力に復帰すると、八太郎も南の与力・中村又右衛門との交換で南へ異動しています。遠山の従前の「引替候先例これ無き」が事実であるならば、前代未聞の人事であったということになりますが、東條父子を信頼する遠山の意向が強く働いていたものと思われます。  安政四年、東條父子は二人そろって先手組へ左遷されます(奉行所内の政争が原因と思われます)  その後、二人は長崎奉行所へ異動となり、倅・八太郎は最後は旗本にまで昇進しています。 蛇足)ちょうどいま、町方の組与力同心たちの給与や転勤に関する記事をまとめており、近日中にはブログ(参考URL)にアップしたいと考えておりますので、ご興味があれば、ぜひご覧ください。

参考URL:
http://edo.ashigaru.net/
sinon5
質問者

お礼

大変詳細な文献を教えて頂きありがとうございました。引き続き関連するものがございましたらお知らせ下さい。ありがとうございました。

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