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多様性
多様性な世の中になると普遍的な美は駆逐されていくんですか? 多様性とは悪い事?
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美は人それぞれだから、主観的です。 カントはそれを「判断力批判」で、美を趣味と言っています。 人によって趣味は多様で、様々だから。 ある人はフィギャーが趣味で、フィギャーが美しいといい、ある人は鉄男でSLが走る姿が美しいといい、生け花を趣味にしている人は、花の姿が美しいといい、・・・・・・etc こうして多様な世の中になるほど、趣味もいろいろに分かれてきます。 そして美も、趣味がいろいろ分かれるにつれ、美もいろいろ分かれてきます。 何が美であるかという見解も、様々になります。 しかし、カントは同時に、美は主観的だけど、普遍性もある、と言っています。 主観的でありながら、普遍性がある、というのは一見すると矛盾するように見えますが、必ずしも矛盾しません。 というのは、趣味に美を見いだしている人は、自分だけで満足せず、他人の同意を求めるものだからです。 「ねえ、ねえ、これって美しいと思わない?美しいでしょ?」と言って他人の同意を求めないではいられません。 そうやって仲間を募ろうとします。 趣味の会を作って、同調する人をどんどん増やそうとします。 普遍的であることを目指します。 しかし、普遍とは理念だから、いつまでたっても、普遍には到達しません。 そうなるとますます焦って、もっと、もっと仲間を募り、全国団体を結成しようとします。 日本だけでは飽き足らず、全世界に呼びかけて、各国に支部を作り、本部から指令を発します。 こうして美は、政治的になります。 あなたは「多様な世の中になると普遍的な美は駆逐されてゆくんですか?」と言いますが、逆です! 多様な世の中になるほど、自分の趣味と同じ趣味を持つ人々をどんどん募って行き、普遍性を求めて行くようになります。 カントが言うように、美は主観的で、人それぞれで、多様ではあるけれど、普遍性でもあります。
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- hue2011
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20世紀初めにピカソを見た人は、狂気の人間かと思ったのが多かった。 彼らにとっての普遍的な美じゃなかったから。 同じころ、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の初演を聴いた某夫人は逆上して大混乱をきたしました。自分にたいする侮辱だという意味不明の攻撃に感じたらしいのです。これも普遍的な美とは思わなかった。 しかし、いまピカソを見ると、1面の中におっそろしく多様な視点からの観察が同時に描かれてることが誰にもわかる。それはある瞬間の前後である場合もある。多様性を認めた瞬間、普遍的な美の中にこの天才が入ってきたのです。 春の祭典は、リズムが発生し、展開し相互に絡み合い巨大な方向に成長した上、また最初の視点まで戻ってこれるというような原始的な構造が分かったので、演奏者指揮者によって演出が多様であることが理解された。そしてムーティで驚いた人間がドゥダメルでまたびっくりする、そういう底の深い、多様な源であることが共有されています。 これも普遍的な美に加わっていると思います。 多様性を認めることができる感性に社会が育ったら必ず実りがあり、普遍性が肉付けをされるものではないでしょうか。