• 締切済み

人の死が悲しくなくて困っています

lirinの回答

  • lirin
  • ベストアンサー率50% (1/2)
回答No.4

死生観は人それぞれです。 目一杯悲しんで、どん底まで落ち込んで、やがて癒されるまで時間がかかる人もいれば、案外ショックやダメージが少なく、現実的な対応ができる人。 その死や別れがあまりにもつらすぎて、現実逃避として感情が鈍くなり、目の前の事に逃げてしまう人。 死にゆく人の心を思い、せめて笑って送り出そうとする人。 本当にいろいろです。 私は、「自分が死んだらまた会えるなあ」と考えるタイプなので、あまり悲しみません。そうして悲しみを緩和している、ごまかしているとも言い換えられるでしょう。 さて、あなたは死を、悲しむべきもの、として捉えています。 イコール「悲しまなければならない」というルールを自分で作ってしまっています。 また、悲しんでいる人を見るとイライラしてしまう、という事ですが、これは、一般的な価値観から自分が自分で作ったルールを、自分が一緒に守れない事に対する怒りや焦りであり、簡単にそれができる周囲への八つ当たり的な気持ちなのではないかと感じます。 みんなといっしょに悲しめない=自分はおかしい? 最低? という疑問や自分へのショック、自分自信への不信感を、他人にぶつけているに過ぎません。 私も、祖母が亡くなった時、特に悲しみを感じませんでした。でも、母は号泣していました。その気持はもちろんわかります。母にとっては大好きな人ですからね。特にうちの母の時代は、戦後すぐだったこともあり、祖母は本当に苦労をして母を育てました。栄養失調になりながらも、親戚のかたの大手術の際に血をあげて、反対に祖母が危険な状態になり、視力を失いました。今度は祖母が手術をして、その後視力が戻りましたが、三日目でまた何も見えなくなりました。 母はそういう祖母の姿をずっと見つめて生きてきました。時代や親子のありかたが、今とは全く違ったのです。戦時中の雰囲気も色濃く残る時代です。背負っている命の重さ、その感じ方も違ったでしょう。 祖母の死は悲しめなくても、母の、祖母を思って泣く気持ちは理解が出来ます。これが共感というものです。共感はその人の姿を通して疑似体験をし、その人の気持になる事です。なんとなく理解ができれば、悲しむ姿を見てもイライラなんてしません。あなたが考えなければならないのは、死を悲しむ心がないことではなく、身近な人達に共感できない部分なのではないでしょうか。 亡くなった人の事を思えなくてもいい。 亡くなった人、亡くなりそうな人の周りで悲しんでいる人、つらく沈み込んでいる人の事を思いやる事ができれば、演技などせずとも、「悲しかったね」「つらいけど、がんばろう」「大丈夫、もう少し頑張ってくれるよ」などの思いが生まれ、それを言葉にしてあげる事ができる。 「こんな時なのに自分は悲しめない」 ならば、それを活用してみんなの役に立ちましょう。 いいんです。悲しめないなら悲しめないなりに、自分を責めるのではなくて今自分が何をすべきで、何が出来るかを考えると良いのではないでしょうか? 悲しみに暮れて動けなくなる人がいます。その人の代わりに、動けるあなたが動いてあげて、負担を少なくしてあげましょう。 それが、死を前にして冷静でいられる者の勤めではありませんか? あなたには、あなたのできる役割があります。

関連するQ&A

  • 身近な人の死

    高校の時に、一番の親友を失ってもうすぐ2年です。 死因も分かっていないし、死に顔も見ていない。それと事情があってお墓まいりもお線香ももうあげにいけません。そんな少し特殊な状況だったからか、どこかにまだ受け入れきれてない自分がいます。 時間が経ち、明らかに思い出すことも減ってきました。信じたくないけれど、悲しみも薄れてきてしまったのかもしれません。けれど、周りで誰かが亡くなったという知らせが入ったり、他の人のお葬式などに参列するたびにずっと封印してきてた、親友が亡くなった時の記憶が押し寄せてきて、胸が詰まって苦しくなります。 亡くなった時が受験間近で、思う存分悲しんだり泣けなかったから今に来ているのかもしれません。実際、大学に入った直後も忙しくて、でも、落ち着いた時に一気に悲しみが押し寄せてきました。 でも、もう2年前なのに…。心の底では彼女の死を受け入れられてないことが怖いです。彼女がもういないことはわかっています。会えないのも分かっているけれど、無意識に「あの子がいたら、こんな感じやったかなあ。あ、そうだ、こんどあそこに遊びに行こう」とか考えている自分が怖いです。 せめて、死因だけでも分かりたかった。最後に顔も見たかった…もうこれはいっても仕方ないことなので、突然死の受け入れ方を教えてください。親しい人や身内を突然死で亡くされた方は、どうやって乗り越えましたか。

  • 人の死の受け入れ方(長文です)

    そんなのあるわけないですが…。 皆さんは、身近な人に訪れた死をどうやって受け入れたでしょうか? 今祖父は末期がんで、余命幾ばくもありません(医師の余命の予想をとっくに越しています)。 とうとう何も食べれず、痛み止めを打ってはどうにかなっている状態です。 今週末、その祖父に会いに行きます。私は東京・祖父は奈良、仕事も夫もあるので、きっと最後の面会になると思います。 今でこそ年に1・2回しか会えませんが、子供の頃は大阪に住んでいたので よく家族でも1人でも泊まりに行ってよく遊んでもらった大好きな尊敬する祖父です。 私は26歳にもなって幸いにも祖父母が全員生きていて、友達や近い親類を亡くした事がありません。 だからこの年になって、人の死と言うものを知りません。 亡くなったら、母(祖父は母方です)や祖母を支えてやらなくてはならない!とは思っているのですが、 私が精神的に崩れてしまいそうです。今回会いに行くのも 「最後に顔見せに行くなんて嫌だ…帰るとき、笑顔で別れられない」なんて子供のような事を言ってます。 突然来る死も辛いでしょうが、次会うのが最後、と思ってすごすのも辛くて仕方ありません。 なくなったときのことを考えると、今から涙が出ます。 どうやって祖父を元気付けて笑顔で帰ってくるか? いざ亡くなった時、どうやって受け入れようか? 経験談でよいので、こんな人の死もわからない半人前な私に、アドバイスをください。(宗教的な話は勘弁してください) #やっぱり26にもなって人の死が怖いなんて、半人前ですよね…

  • 自分の死に対してどう折り合いをつければいいでしょうか?

    18歳男です。今月の初め頃に祖父が亡くなり、私は初めて人の死というものに触れました。 以前はたまにですが死んだらどうなるんだろう?ということを考えその度に恐怖を感じていましたが、自分が死ぬなんて事はどこか遠い世界の出来事のように感じあまり実感がわきませんでした。 しかし、祖父の死を通じて自分もいつか死ぬんだという事をはっきりと現実のこととして実感しました。 それ以来、特に夜寝る時に自分の死について考えてしまい、その度に抑えきれない恐怖(自分という存在がなくなってしまうことへの恐怖)を感じます。前は楽しんでみていたアクション映画等も人が死ぬシーンに過敏に反応してしまい、あまり楽しめなくなってしまいました。 以前は宗教なんて馬鹿馬鹿しくて下らないものだと思っていましたが、キリスト教式の祖父の葬儀を見て宗教も心の平安を得るためのひとつの手段なのかな?と、最近思いはじめました。 以前から寝つきが悪い方だったのですが、さらに悪化し辛いです。一日も早く心の平安が欲しいです。 みなさんの意見をお願いします。

  • 《第二の死》とは?

     《死が死ななくなった状態》を言うらしい。  死は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有りとして 死ぬものである。   わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして 死である。  これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。  このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的で限りある存在にとって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われに還るとき 死なしめられる。  つまり 《第一の死》は 死ぬことが出来る。  《第二の死》とは この第一の死が死ななくなることである。  あやまちをなぜ《第一の死》と言うか?   それは わが心にさからうあやまちの一瞬に わが存在としての時空間が経験存在であるそのままに実際に限られて来るからである。物ごころのつく前のわが広大な宇宙が 時間を見出しこの時間によってわが存在の歴史として限られることは 死によって限られることだからである。  あやまちは 心を失くしわれ無しとなる死である。ただし われに還るとき われ有りとして この死は死ぬ。ゆえに 第一の死と言う。  われわれは 人生において 第一の死に突っ込むようにして落ち入りそこから這い上がり再生するという死と生の循環のごとき繰り返しを生きる。  ところが この第一の死が死ななくなると言う。如何にか?  かんたんである。われに還ることがなくなるときである。  あやまちに気づいても それを認めなくなるときである。  われ有りの状態に復帰することがなくなるときである。  心にさからうわれ無しの状態が・つまり第一の死が 固まってしまうときである。  そのときには ひとは第一の死から再生しなくなる。    第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。    基本的に言って それは 心のたかぶりによって起こると思われる。のではないか?  ほんとうにそうか?  それだけで 第二の死が起こるものか?  果たして 第二の死は あるのか?

  • 心が死んでいるの?

     先月、私の祖父が亡くなりました。その時私は「とうとうきたんだな」と感じただけでした。特に涙が止まらなかったり、落ち込んだりしませんでした。  私の祖父は2~3年ほど前から食事もあまりしなくなっててて、半年前くらいから入院していました。私は遠くに離れて住んでいて、お見舞いには一度しか行ったことありませんでした。そういう状態だったので、‘死’といものをかなり意識していましたが、亡くなったとき、私の家族は泣いていました。私は心の中で「もうかなり衰弱してて、こんな時が来るってこと分かってたのに、何で泣くの?」って思いました。確かに悲しいけど、仕方のないことだと感じていました。  私はむしろ、たくさんのことを教えてくれた祖父に、今までよく生きてくれたね、という気持ちでいっぱいでした。   もし、これが急な死だったとしたら、泣きまくっていたと思うのですが、私自身いつか人間は死ぬものだし、高齢になるにつれてその確率が高くなってくるものだと考えていて、人の死について、ちょっとドライな考え方(?)なのかと思います。  そこで、私は人の‘死’というものを、心ではなく頭で理解しているように感じます。普通の人の様に感じていない気がします。こんな私の心は腐っているのでしょうか?何かご意見のある方、どうかお願いします。  最後に、この質問に対して憤りや不快な思いを与えてしまったら申し訳ないと思います。      

  • 人に共感したり身近な人の死を悲しめない

    私は18歳の女です。最近悩んでいることがあり、それは自分が人でなしなのではないかということです。長文になりますが、読んでいただけると嬉しいです。 中学生の頃父方の祖父が亡くなったのですが、正直全く悲しくありませんでした。祖父とは年に1回くらいしか会っていなかったし、私は親戚づきあいが苦手で、よそよそしい態度しかとれず親しくはなかったからです。 祖父がいよいよ危ない、という時に両親に連れられて病室に行きましたが、涙は全くでませんでした。死の瞬間には立ち会っていませんが、祖父の死体を前にしても重い気分になるだけでした。 地方に住んでいる姉が葬式に帰ってきて、祖父の遺体を見て泣き出したのにびっくりしました。私は遺体を見ても、化粧をしてるからきれいになってるなぁぐらいにしか思えなかったからです。 ほぼ同時期に、母方の祖父が倒れました。私は中学1年くらいまで、放課後から夕飯まで祖父の家に預けられていて、父方の祖父より近い存在でした。 母と姉と病院に行くと、祖父はげっそり痩せていて、また姉は泣き出しました。私はその場で自分が泣けないことに気まずくなって、暗い気持ちになりました。 また私は誰かに共感することができません。 人の気持ちを推測することは難しくありませんが、しかしこんな酷いことがあった、と友達に話されても、解決策を提示することしかできず、慰めの言葉が出てきません。「それは悲しいね、辛いね」などと一切思っていないのだから、口にも出せないのです。 本当は慰めなきゃいけない場面なのにできなくて、友達にびっくりされたり傷ついた顔をされたこともあります。 そもそも怒り以外の感情をあまり表に出せなくて(怒りも家族や全くの他人にしか出せない)、悲しいとか嬉しいとか話すのは恥ずかしいと感じます。たまに感情が爆発して、悲しみを怒りに消化してから泣きわめくことはあります。そういうとき家族に無視されただなんてことはなく、大抵慰められてきました。 だからか一部の友達が悲しいことや嬉しいことも自分の感情すべてをべらべら話すことに理解できない部分があります。一方でそういう友達は些細なことにも感動したり、見ず知らずの他人に同情できて、人間的に豊かだと驚きます。 私は割と過保護で中流な家で育ったし、あまりにお涙頂戴なものでなければ映画や小説に感動して泣くこともあります。異性を好きになったこともあれば友達に好かれたくて気を遣うことも、嫌なことを言われて傷つくこともあります。 最近また母方の祖父の具合が悪くなり、もしかしたら葬式があるのかな……病院行かなきゃいけないのかな……と考えるばかりで、まったく悲しめない自分がいるのに気づきました。 祖父が死んだことや葬式で感じる憂鬱な気分は、根底では悲しんでいるということではなく、人並みに悲しめない人とは違う自分を自覚するからだと思います。 私は人としておかしいでしょうか。

  • 私はいつ死を迎えるのでしょうか?

    私はいつ死を迎えるのでしょうか? どんなふうにして? その時の日常生活過程で周りにいる人は誰? その時、直前の気持ちは、如何様なものでしょうか。

  • 人の死が悲しくない

    高校2年の女子です 余談ですが、私は反抗期ではないのになぜか親の前で苦笑いしかできなかったり一生懸命なにかを頑張っていたり友達と楽しんでいる所を見られたくなかったり、他の家族を見ていたら何か他の子と自分では親への考え方が違うのかなと思っていました。 特に親からの暴力などはなく、どちらかというと習い事も学校も門限も自由にって感じで、親は自分に冷たいとかもなく、私が一方的に..って感じで。 長くなりましたが、 他にも思っていることがあって、一言で言うと人の死が悲しくないというか何も感じません。 まずは小4の頃に祖母が亡くなりました。小さいころからよく可愛がってもらっていたのは今でも覚えています。しかし、涙1つでず、葬式の場でも周りが悲しんでいる中、気まずく早く帰りたいとしか思いませんでした。 そして中2の時に小学校の頃から一緒に休み時間外でドッヂボールしたり、中学になっても同じクラスになったりと、結構仲の良い男友達?が川で溺れて亡くなりました。 それは学校の朝礼の時に先生から皆に伝えられ、周りのクラスメイトは泣いている人、号泣している人がいました。 だけどそこでも そっか、亡くなったんや。程度でした。 その人の葬式でもやはり、周りの友達が悲しんで、泣いている中私はどういう表情をすればいいのかわからず、とても気まずく早くここから出たいと考えていました。 おかしい話ですが、実際に親が亡くなった時のことを考えみました。悲しい感情が一切湧きませんでした。自分の考えがおかしいとは思っていませんでしたが、周りの人の考え方と比べると自分は何か考え方、感情が冷めている、おかしいと思うようになりました。 誰かに相談したいけど、冷たい人と思われるのは分かっていたのでずっと周りに合わせて悲しい表情をしてきました。 人なんやけんいつかは死ぬやろ。 そう思う時もありました。 私は周りからしたら冷たい、変な人ですか?

  • 死が分かったとき、何を思いますか?

    こんにちは 人は、今は元気だけど病院で、近い時期の死を宣告されたとき、そして残りをホスピスで過ごすことになるとき、何を思うのでしょうか。残りをどう生きるのでしょうか。そして何を悟るのでしょうか。 今、ホスピスにいる女性と入退院を繰り返す女性の物語を読んでいて(知ってる方は知っていると思いますが)、その物語のホスピスの女性は足掻くでもなく、でも絶望するでもなく、ささやかな「やりたいこと」を淡々とやっていきます。そして、最後には自分に関わる人が悲しまないよう祈りながら死んでいきます。 また、入退院を繰り返す女性も、結局はホスピスに入ることになり、最初は「諦め」が心を支配していましたが、最後は穏やかに死んでいきます。 人は、死を目の前にしたとき何を思うのでしょうか?自分はまだ生きており死も宣告されておりません。 ですが、「生きている」と言う実感がありません。 逆に、絶対に避けられない『死』を突きつけられるすることにより初めて『生』を実感するのでしょうか?

  • 死だけが救いです

    死だけが救いです 希望だの、楽しみだの、生きがいだの、それなりに求めたり前向き方向に努力してみたり、ですが、結局は空虚感と無力感にたどり着き、毎日辛いので(特に朝起きたときの辛さはこの世が地獄であることを確認するだけのような尋常でない辛さ)、 救いは 死ぬことだけです。そう考える時だけが心が晴れます。 全ての苦しみや葛藤から解放されることを考えると 「死」って最高の幸せですよね。 お返事は共感意見を多く望みます。きれいごとのお説教や前向き人生指南は私自身「またか・・」「ばかばかしい」としか思えないので。