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秩父札所について

 秩父札所は西国札所、坂東札所、と併せて日本百観音霊場となっております。 西国札所、坂東札所は立派な寺院が多いのですが秩父札所は質素な寺院がほとんどです。 また三十三観音霊場ではなく34観音霊場です。 このように秩父札所はなぜ日本百観音霊場にはいったのでしょうか。 また秩父札所以外に三十四カ所の観音霊場はあるのでしょうか。 教えてください。

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noname#224207
noname#224207
回答No.1

>西国札所、坂東札所は立派な寺院が多いのですが秩父札所は質素な寺院がほとんどです。 お寺が創建された時代の違いです。 お寺の規模の違いは仏教史に関係しています。 いわゆる鎌倉仏教と呼ばれるものが出てくる前の平安時代から鎌倉初期にかけては、末法思想に基づく浄土教などの影響で、公家などの上流階級の人間にとっては立派なお寺をつくることが極楽往生の条件でした。 結果として歴史的に一番古い西国三十三箇所のお寺が現在も観光地になるような立派なお寺が多いということになります。 西国三十三箇所は平安時代末期のお寺が中心です。 坂東三十三箇所の多くは鎌倉時代初期のお寺で宗派も浄土宗や天台宗、真言宗のものです 秩父三十四箇所は鎌倉時代末期以降のお寺で曹洞宗のものが主体です。 >また三十三観音霊場ではなく34観音霊場です。 三十三というのは観音経というのが元になった数字です。 百の観音様を巡るという言い伝えは平安時代のものです。 西国、坂東、秩父を日本百観音と一纏めにするようになったのは江戸時代からです。 平安時代の言い伝えにならって、百とするために最後の秩父を三十四として後から一つ追加しました。 >秩父札所はなぜ日本百観音霊場にはいったのでしょうか。 日本百観音めぐりが盛んになったのが江戸時代です。 江戸時代の秩父地方は春先の水温が低いことから稲作が今一つでした。 これを補うために養蚕が盛んでした。 江戸という一大消費地をひかえていたこともあり絹織物の生産が盛んに行われ現金収入が豊富な地域でした。 関東地方は他の地方とは異なり、城下町を中心とした大名領はなく、大名領、旗本領、代官支配の天領が入り乱れていました。 統治者が入り乱れていて、現金収入が豊富なことから博打を生業とするヤクザ者が上州に多いのもこの為です。 江戸時代の庶民はよく旅行をしました。 観光目的で、現在の山形県鶴岡から江戸、京、大阪、伊勢と全行程4000kmを旅した女性もいました。 江戸時代の一大娯楽が寺社詣でした。 大奥の女性も寺社詣であればお城の外へ出られました。 伊勢参りは年に数十万人と言われています。 関東では、成田山、大山詣りなどが手近でした。 江ノ島(弁天様)は女性陣に人気がありました 幕府の政策もあり仏教が庶民にまで浸透したのは江戸時代です。 当時のお寺は墓寺というよりも一つのカルチャーセンターでした。 現在よりも身近な存在でした。 坂東三十三箇所の札所はお互いの距離が離れていて巡るには相当な時間と費用がかかります。 このようなことが重なり、現在の秩父四十四箇所というネットワークが生まれました。 この際に選ばれたのが質素な禅宗の宗派である曹洞宗のお寺が選ばれました。 平安時代とは違いお寺を立派に建てる習慣が途絶えていた上に質素をモットーとする禅寺が主体だったために秩父四十四箇所は質素なお寺が多いということになりました。 >秩父札所以外に三十四カ所の観音霊場はあるのでしょうか。 ありません。 秩父を三十四としたのは、あくまでも日本百観音詣りが元で辻褄合わせに一つ追加しただけです。

2004nennse
質問者

お礼

早々と、またご丁寧なご説明、誠にありがとうございました。大変参考になりました。

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