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日本の中世から近世における最大の木造荷船

Kittynoteの回答

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  • Kittynote
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回答No.6

丁寧にまとめていただき恐縮至極でございます。 …以下、文字数の割に新ネタはありません…m(_"_)m 角倉船に関しましては、論文等を含めWEB上では乗員「397人」の人数が記されてい ることが多いので、御指摘の「風俗画的表現に重点がおかれ、船の描写は二の次ぎ であるため、船舶画というにはほど遠いものでしかない」のとおり、絵馬以外に何 らかの記録類が有って然るべきとは思っていましたが、No.3&4投稿時点では手付か ずのまま、その後、盆関連の野暮用も一段落して、先ず『通航一覧』で確認します と手懸かりとなる引用文献が判明。 ・『通航一覧.第8/林韑編/国書刊行会/大正2.11』 ○「通航一覽附錄 卷之二十一」<274~279/294>(539頁上段~549頁上段) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949606/278 <278/294>(546頁下段6~8行目) 天竺へ乘渡候角倉與市唐船は、長さ二十五間、橫幅九間有之、乘船人數三百九十七 人乘渡候、[暹羅國風土軍記、渡天物語○…(後略)…] 上記の引用文献「渡天物語」から「天竺徳兵衛」なる江戸初期の貿易商が浮上。 彼は角倉与一船の船長前橋清兵衛の書役として、寛永3(1626)年10月16日、15歳の 時、長崎出航、暹羅方面へ渡海。宝永4(1707)年、96歳の時、外国渡航時の記憶を もとに見聞録を作成、長崎奉行へ提出したとか。 果たして80年前頃の記憶が鮮明なのかとの疑義もありますが、 役柄から各種情報を掌握出来る立場ではあったのでしょう。 直接「暹羅國風土軍記」「渡天物語」等に当たりたいところですがWEB上では無理 もあるため、二次情報ではありますが、 ・『朱印船貿易史/川島元次郎/内外出版出版/大正10』 ○「第二編 列伝/第四章 天竺德兵衞」<152~158/333>(256~268頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965692/152 <152/333>(257頁1~9行目) 寶永四年、年九十六、當時を追懐して見聞を錄し長崎奉行に呈せり、世稱して天竺 德兵衞物語、又天竺渡海物語、渡天物語と云ふ、其の書世に流布するもの頗る荒唐 無稽の説を載す今通航一覽長崎港草等に引く所を參照して信憑するに足るものを擧 げ、少し考證を試みんとす。…(中略)… 一 角藏與一殿商船長さ二十間橫幅九間の船にて人數三百九十七人乘、船仕立渡海 仕候、…(後略)… 何とも引用文献の堂々巡りの感も否めませんが、 前章の「第三章 角蔵了以及与一」には数値も建造地情報も無いことと併せ考えま すと、「(L)20間、(B)9間、397人」は船長書記役の記憶に基づく情報と言えそうです。 残念ながら、ここでも深さ(D)への言及はありません。 ただ、「20間(=120尺)×9間(=54尺)=6480」なので、大工間尺に倣えば、 便宜上「深さ(D)10尺÷定数10」「1000石=150トン」を目安として逆算してみますと、 6480石=1072トンなので、800トン<800/1072>で深さ(D)約7.46尺≒2.23m、 700トン<700/1072>で約6.53尺≒1.95m、500トン<500/1072>で約4.66尺≒1.39m。 確かに大工間尺の適否の問題は残ると思いますし、外洋船の堅牢な構造等を考慮 すれば定数は10~15などの高目の方になるのかもしれませんので、シビアな数値は 無理としましても、上記試算の如く一つの目安にはなるかと思います。 さて、角倉船の貨客の件。 実際には、途中寄港地で補給をしたでしょうから、30~60日分は多過ぎでしょうが… 400人×(体重)60kg=24000kg=24t 400人×(一畳)30kg=12000kg=12t 400人×(その他)10kg=4000kg=4t 400人×(飲水2L)2kg×(日数)30=24000=24t ~ 400人×2kg×60=48000=48t 400人×(米5合)0.75kg×(日数)30=9000=9t ~ 400人×0.75kg×60=18000=18t 400人×(他食糧)0.75kg×(日数)30=9000=9t ~ 400人×0.75kg×60=18000=18t 以上、大雑把で且つ極端な試算ではありますが、乗員・客員計400人として、 30日で82t、60日では134t、他にも航海に必需の道具・備品等を加算すれば、 商売貨物以外で30日計算では約100t≒666石、60日計算では150t=1000石を超えて いたのかもしれませんね^^ 再び『朱印船貿易史/川島元次郎/内外出版出版/大正10』に逆戻り、 ○「第二編 列伝/第五章 亀井茲矩」<158~171/333>(268~295頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965692/158 60萬斤(360トン)の国内建造を計画したり、シャムから80萬斤(480トン)の大船購入 の交渉をしたりと、この当時は一部の大名・役人・商人等に限られるとは言え、 60~80萬斤が当然のように語られる時代ではあったようですね。 あと、大工間尺より多い積石数の件。 〇「明治の北前船(石井謙治)」 http://kaijishi.jp/kuchie1.pdf …嘉永以降の北前船の多くは大工間尺(標準的な計算石数)六百石足らずの船体で 千石積に匹敵する荷を積んでいた。つまり二倍近くの積荷をしたわけで、…(中略) …明治十年北海道開拓使は、この積み過ぎを海難の主因とみて鑑札面の積石数(明 治四年の石数改方法則によるもので大工間尺の約四割増)以上の積荷を禁じたが、 …(後略)… 「大工間尺の約四割増以上の積荷を禁じた」などと、明治期のお話ではありますが、 逆に言えば「大工間尺の約四割増」まではOKと解され、 この限度はNo.3投稿の幕末の大工間尺1600石船の実力2300石<2300/1600≒1.43>とも 概ね一致することから、幕末の1600~1900石船を単純に1.4倍することで、 2240~2660石相当の実力を有したと見なすことが出来そうです。 以上 ネタ不足のため、今回は荒唐無稽な試算で遊んでみました^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答真にありがとうございます。 「天竺徳兵衛」についてはよく分かりました。 小まめに何やかやと書き残していたでしょうから、96歳であっても、船の寸法に関しては間違いないと思います。 疑問点は、いくつかありますが、何かの機会に調べてみようと思います。 以下は、質問ではありません。 1.「長さ」について。 『通航一覧.第8/林韑編/国書刊行会/大正2.11』の「通航一覽附錄 卷之二十一」によれば、二十五間。 『朱印船貿易史/川島元次郎/内外出版/大正10』の「第二編 列伝/第四章 天竺德兵衞」によれば、 二十間。 2.造船地について。 『通航一覧.第8/林韑編/国書刊行会/大正2.11』の「通航一覽附錄 卷之二十一」には、 ○ 天竺へ乘渡候角倉與市“唐船”は、長さ二十五間、(以下略) ○ 三本檣船禁制 按するに、文禄慶長の比より、京、堺、長崎の大商等御朱印を拝賜し、“唐造”三本檣の船にて、渡海商売せしなり、其船を御朱印船と称し(以下略)。 3.同じ船にもかかわらず「積載容量800トン」「500t級」の解釈。 #4のご回答をコピペします。 改めて手持ちの電子辞書『ブリタニカ国際百科事典』「角倉船」項目を覗いてみますと、 「17世紀初め、京都の商人角倉了以とその子与一が朱印状を受けて、安南国の東京 (トンキン)などとの貿易に従事させたいわゆる御朱印船の一つ。 京都の清水寺に寛永11(1634)年奉納された絵馬によると、3本マストの日本前型の 船とみられる。同3(1626)年にシャムへ渡航した船は、乗客、船員ともで397人、 およそ500t級の大型船と推定される。」と記述されていました。 後日、調べてみようと思います。 >以上、大雑把で且つ極端な試算ではありますが、乗員・客員計400人として、 >30日で82t、60日では134t、他にも航海に必需の道具・備品等を加算すれば、 >商売貨物以外で30日計算では約100t≒666石、60日計算では150t=1000石を超えて >いたのかもしれませんね^^ 私も千石を超えていたと思います。 お世話になりました。感謝申し上げます。

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