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日本の中世から近世における最大の木造荷船

Kittynoteの回答

  • Kittynote
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回答No.3

・船の科学館>施設案内>別館展示場 出版資料/図書のご案内 http://www.funenokagakukan.or.jp/sc_01/mini_tosyo.html ○『船の科学館 資料ガイド10 弁才船 菱垣廻船/樽廻船 /(財)日本海事科学振興財団 船の科学館/平成22.3.30』 上記図書が参考になりましたが、直リンクが無い様子なので、 簡単アクセス方法は、Googleにてキーワード”[PDF]復元弁才船 - CANPAN”検索、 2番目に表示される「[PDF]復元弁才船-CANPAN」ファイルが上記図書と概ね同等の ようですから、未読でしたら御覧になってみて下さい。 上記ファイル中<30・31/37>から得られた主な情報。 弘化3年(1846)に結成された九店仲間は安政4年(1857)には1600石ないし1900石積ク ラスを39隻就航。ただ、石数で表現する規模はいささか不正確で、 吃水の取り方によって積石数はかなり変化したとかで、 例えば、幕末の菱垣廻船”歓晃丸”は航長51尺5寸(15.6m)、肩幅31尺(9.4m)、 肩深11尺5寸(3.5m)でこれらを掛け合わせて10で割って積石数を求める大工間尺に よると1836石となりますが、実力は2300石余りあったようです。 ※ 菱垣廻船”歓晃丸”情報は、下記などにも。 ただし、上記の大工間尺1836石(※51.5×31×11.5÷10=1835.975≒1836※)に対し、 下記では1569石5斗(※?51.5×31=1596.5?※)とあって計算根拠は?ですが、 実積2300石は玄米の場合とか。 ・『大阪市史.第5/大阪市編/大阪市/昭和2』 ○「菱垣廻船歡晃丸圖解略說」<235~264/588>(413~470頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1218282/237 <237・238/588>(417頁下段~418頁上段) 船歷 本船ハ慶應三年灘御影嘉納治作氏ノ注文ヲ受ケ、余ガ先々代武兵衞ノ製造セ ル(※嘉永元申五月新造)所ニシテ、其船量ヲ示セバ、船長サ 五丈壹尺五寸 船幅 三丈一尺 深サ 壹丈壹尺五寸 五尺ヲ以テ壹尋ト稱ス 此才千五百六拾九石五斗 實積量貳千參百石余 貨物ノ性質ニ依テハ、積量ニ差異アリ、嵩高ニシテ輕キモノト、嵩低ニシテ重量ナ ルモノトハ大差アリ、茲ニ實積量貳千參百石トセルハ、玄米ヲ積ミテノ事也、酒油 樽等ニ於テハ多クノ空隙ヲ生ズレバ、余リ多クヲ積ムコトヲ得ズ 九店差配廻船明覽安政五年四月改浪花菱丸軒著ニ 大津屋權右衞門定仕建 攝州御影 嘉納治作船 沖船頭砂太郎乘 生國藝州因ノ嶋本名米吉 嘉永元申五月新造 一千六百石積 觀晃丸 江戸利倉屋 トアリ、本船前代ノ廻船ニシテ、觀ハ歡ノ誤ナルベシ、…(後略)… ※ なお、「大和形船製造寸法書」に引用された「讃岐国小豆島造船書ノ抜粋」によると、 実在したかどうかは別として、船大工は弁才船の規模の上限=最大級の弁才船は 航長80尺(24.2m)、肩幅40尺(12.1m)、肩深14尺(4.2m)で大工間尺4480石の木割り (船部材寸法書)を示していたようです。 ※・『大和形船製造寸法書/逓信省管船局/明35.4』 「第二參考 讃岐國小豆島造船書ノ抜萃」<64/104>(122・123頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847251/64 ※ 弁才船以外では、安宅船(軍船)に大規模なものが見られ、志州鳥羽で建造された 伊勢船形安宅船”太一丸”は航長93.8尺(28.4m)、肩幅35.5尺(10.8m)、肩深10.5尺 (3.2m)で大工間尺で表現すれば3496石。 また、最大の和船としては寛永8年(1631)に三代将軍家光の時代に大御所秀忠の発案 で向井将監忠勝に命じて作らせた軍船“安宅丸”、船体は洋式で弁才船構造とは異な る点に注意を要しますが、竜骨長125尺(37.9m)、肩幅53.6尺(16.2m)、肩深11尺 (3.3m)、大工間尺で7370石と桁違いの大きさ。 続いて、幕末の状況を少し覗いてみますと、 〇「九店仲間の結成と廻船支配/柚木学」 『商學論究 22(3/4)/関西学院大学/1975-02』(63-77頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110001163629 <13/15>(75頁) 「第5表 九店差配廻船明覧」には、積石数1600~1900が並んでいることから、 17段目の大津屋権右衛門定仕建「観(※歓)晃丸 1600」と同様に何れも2300石積 あるいはそれ以上の石積の実力があったものと推定出来ます。 さて、幕末から一気に遡り2000石超の遣明船について、少し調べてみましたところ、 信濃国開善寺の僧天与清啓が、1468(応仁2)年に遣明使正使となって渡航した時の 記録を、天文期(1532‐55)に2度渡明した策彦周良が参考のために抄録したものと される「戊子入明記」によれば、1468(応仁2)年当時、使節船用に2500石の船は存 在したようですが、2500石船の和泉丸は「不渡唐也」とあってどうやら渡航には至 らなかったようです。 ・『続史籍集覧.第1冊/近藤瓶城編/近藤出版部/昭和5』 ○「戊子入明記」<238~255/315>(469~502頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1259144/248   <248/315>(488頁) 一  可(L)成(=)渡唐(-)船分  豊前國 門司 (※和)泉丸 二千五百斛(※石) 是ハ大舩ニテ不渡唐也 なお、電子辞書『ブリタニカ国際百科事典』「遣明船」項目には、 「15世紀後半以後は1500~2000石積みの大型船(民間船をチャーターして改装)が主」 と記述されていますが、個別具体的な時期・船名は?です。 あと、またまた江戸期に逆戻りです。 木造?仕様など詳細は明らかではありませんが、 「積載容量800トン」の気になる記述。 1000石≒150トン換算とすれば、積載容量800トンでは約5300石相当。 〇「ムガル朝時代のインド洋と日本/近藤治」 『追手門学院大学文学部紀要 29/1994-06-30』(137-153頁) <4/17>(140頁32・33行目) 1626年タイに向けて航海した別の朱印船は積載容量800トン、乗組員397人であった。 〇「角倉了以・素庵 : 世界に先駆け、経営倫理を実践(自由論題)/ 武藤信夫・佐藤陽一」・『日本経営倫理学会誌(9)/2002-03-31』(115-123頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110007889565 <3/9>(117頁左側9~14行目) 1626年の角倉船の資料によると、その商船は長さ20間(約36メートル)、横幅9間 (約16メートル)で約800トンとされている。乗員は397人で、水夫80人余、船長は角倉 一族で、航海士などオランダ人、中国人を雇っていた。残りの300人余が客商である。 以上 断片情報の寄せ集めに過ぎませんが、 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

詳しく調べて下さって真にありがとうございます。 なかなか難しいですね。 知らない用語がいっぱい出てくるので、前進しません。 「大工間尺」も知らなかったのですが、これを基準に考えるとよさそうです。 「実積石数」とは差がありますが、“数値”として明確ですから。 ご回答の中から「大工間尺」を指標にして最大の木造荷船を選ぶと「嘉永元申五月新造 一千六百石積 觀晃丸」ですね。 『大阪市史.第5/大阪市編/昭和2』の「菱垣廻船歡晃丸圖解略說」によれば、 「船長サ 五丈壹尺五寸 船幅三丈一尺 深サ 壹丈壹尺五寸 五尺ヲ以テ壹尋ト稱ス  此才千五百六拾九石五斗實積量貳千參百石余」とあります。 ところが、『船の科学館 資料ガイド10 弁才船 菱垣廻船/樽廻船』によれば、 「航長51尺5寸(15.6m)、肩幅31尺(9.4m)、肩深11尺5寸(3.5m)でこれらを掛け合わせて 10で割って積石数を求める大工間尺によると1836石となりますが、(以下略)」とあります。 同じ船でも何故か約3百石近い差があります。 一方は、「船長サ 五丈壹尺五寸」であり、他方は「航長51尺5寸」です。 「船長さ」は、見た目で分かる“全長”だと思います。 「航長」は、船底の前後方向の長さですから、全長よりはかなり短いです。 どちらかの記録(計算)が正しいのですが、おそらく大阪市史の「船長さ」は「航長」を指していると思います。 下記の「大弊丸」と比較すると、一千六百石積だと推定します。 私がネットで調べた中では、舞鶴市神崎の湊十二社に奉納された「大弊丸」の雛形から推定した 「実船に換算して、航長さ五九・一尺、肩二七・九尺、深さ九・○尺で、大工間尺石数は一四八四石」が最大です。 因みに、この船の全長は121.1尺です。 日本海事科学振興財団「雛形から見た弁才船 下 付録」 http://fields.canpan.info/report/detail/16319 しかし、大弊丸よりはるかに大きな船が、たくさんあったのですね。 「九店仲間の結成と廻船支配/柚木学」 『商學論究 22(3/4)/関西学院大学/1975-02』(63-77頁) には、積石数1600~1900が並んでいます。 >なお、「大和形船製造寸法書」に引用された「讃岐国小豆島造船書ノ抜粋」によると、 >実在したかどうかは別として、船大工は弁才船の規模の上限=最大級の弁才船は >航長80尺(24.2m)、肩幅40尺(12.1m)、肩深14尺(4.2m)で大工間尺4480石の木割り >(船部材寸法書)を示していたようです。 こんなに大きな船を作る技術があったと言うことでしょうね。 接岸できる湊があったのか、沖合いでの荷積み・荷降ろしの作業性を考え始めると、またまた深みにはまってしまいそうです。 先送りしておきます。 次に、遣明船。 Wiki「遣明船」には次のように「500~2500石の船」と記載されており、これが質問の発端です。 「また、『入明諸要例』では同次遣明船について500~2500石の船が門司、富田、上関、柳井、尾道、鞆、田島、因島、牛窓に配されたとしている。いずれにせよ、遣明船には相当の大型船が用いられたと考えられる。」 「戊子入明記」に2500石の船の記録があるのですね。 記録の上では、これが史上最大の木造荷船になるのでは、と思います。 『続史籍集覧.第1冊/近藤瓶城編/近藤出版部/昭和5』を見つけ出してこられるのは、私には及びもつかぬことで、大変参考になりました。 数々のご教示、真にありがとうございました。

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