日本の中世から近世における最大の木造荷船

遣明船や弁財船は、大きなものでは2千石以上積めたそうです。 2千石以上を積んだと推定される船を教えてください。 よろしく...

Kittynote さんからの 回答

  • 2015-08-11 06:58:09
  • 回答No.3
Kittynote

ベストアンサー率 84% (32/38)

・船の科学館>施設案内>別館展示場 出版資料/図書のご案内
http://www.funenokagakukan.or.jp/sc_01/mini_tosyo.html
○『船の科学館 資料ガイド10 弁才船 菱垣廻船/樽廻船
/(財)日本海事科学振興財団 船の科学館/平成22.3.30』
上記図書が参考になりましたが、直リンクが無い様子なので、
簡単アクセス方法は、Googleにてキーワード”[PDF]復元弁才船 - CANPAN”検索、
2番目に表示される「[PDF]復元弁才船-CANPAN」ファイルが上記図書と概ね同等の
ようですから、未読でしたら御覧になってみて下さい。

上記ファイル中<30・31/37>から得られた主な情報。
弘化3年(1846)に結成された九店仲間は安政4年(1857)には1600石ないし1900石積ク
ラスを39隻就航。ただ、石数で表現する規模はいささか不正確で、
吃水の取り方によって積石数はかなり変化したとかで、
例えば、幕末の菱垣廻船”歓晃丸”は航長51尺5寸(15.6m)、肩幅31尺(9.4m)、
肩深11尺5寸(3.5m)でこれらを掛け合わせて10で割って積石数を求める大工間尺に
よると1836石となりますが、実力は2300石余りあったようです。

※ 菱垣廻船”歓晃丸”情報は、下記などにも。
ただし、上記の大工間尺1836石(※51.5×31×11.5÷10=1835.975≒1836※)に対し、
下記では1569石5斗(※?51.5×31=1596.5?※)とあって計算根拠は?ですが、
実積2300石は玄米の場合とか。
・『大阪市史.第5/大阪市編/大阪市/昭和2』
○「菱垣廻船歡晃丸圖解略說」<235~264/588>(413~470頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1218282/237
<237・238/588>(417頁下段~418頁上段)
船歷 本船ハ慶應三年灘御影嘉納治作氏ノ注文ヲ受ケ、余ガ先々代武兵衞ノ製造セ
ル(※嘉永元申五月新造)所ニシテ、其船量ヲ示セバ、船長サ 五丈壹尺五寸 船幅
三丈一尺 深サ 壹丈壹尺五寸 五尺ヲ以テ壹尋ト稱ス 此才千五百六拾九石五斗
實積量貳千參百石余

貨物ノ性質ニ依テハ、積量ニ差異アリ、嵩高ニシテ輕キモノト、嵩低ニシテ重量ナ
ルモノトハ大差アリ、茲ニ實積量貳千參百石トセルハ、玄米ヲ積ミテノ事也、酒油
樽等ニ於テハ多クノ空隙ヲ生ズレバ、余リ多クヲ積ムコトヲ得ズ

九店差配廻船明覽安政五年四月改浪花菱丸軒著ニ
大津屋權右衞門定仕建
攝州御影 嘉納治作船 沖船頭砂太郎乘 生國藝州因ノ嶋本名米吉
嘉永元申五月新造 一千六百石積 觀晃丸 江戸利倉屋
トアリ、本船前代ノ廻船ニシテ、觀ハ歡ノ誤ナルベシ、…(後略)… ※

なお、「大和形船製造寸法書」に引用された「讃岐国小豆島造船書ノ抜粋」によると、
実在したかどうかは別として、船大工は弁才船の規模の上限=最大級の弁才船は
航長80尺(24.2m)、肩幅40尺(12.1m)、肩深14尺(4.2m)で大工間尺4480石の木割り
(船部材寸法書)を示していたようです。
※・『大和形船製造寸法書/逓信省管船局/明35.4』
「第二參考 讃岐國小豆島造船書ノ抜萃」<64/104>(122・123頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847251/64 ※

弁才船以外では、安宅船(軍船)に大規模なものが見られ、志州鳥羽で建造された
伊勢船形安宅船”太一丸”は航長93.8尺(28.4m)、肩幅35.5尺(10.8m)、肩深10.5尺
(3.2m)で大工間尺で表現すれば3496石。
また、最大の和船としては寛永8年(1631)に三代将軍家光の時代に大御所秀忠の発案
で向井将監忠勝に命じて作らせた軍船“安宅丸”、船体は洋式で弁才船構造とは異な
る点に注意を要しますが、竜骨長125尺(37.9m)、肩幅53.6尺(16.2m)、肩深11尺
(3.3m)、大工間尺で7370石と桁違いの大きさ。

続いて、幕末の状況を少し覗いてみますと、
〇「九店仲間の結成と廻船支配/柚木学」
『商學論究 22(3/4)/関西学院大学/1975-02』(63-77頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110001163629
<13/15>(75頁)
「第5表 九店差配廻船明覧」には、積石数1600~1900が並んでいることから、
17段目の大津屋権右衛門定仕建「観(※歓)晃丸 1600」と同様に何れも2300石積
あるいはそれ以上の石積の実力があったものと推定出来ます。

さて、幕末から一気に遡り2000石超の遣明船について、少し調べてみましたところ、
信濃国開善寺の僧天与清啓が、1468(応仁2)年に遣明使正使となって渡航した時の
記録を、天文期(1532‐55)に2度渡明した策彦周良が参考のために抄録したものと
される「戊子入明記」によれば、1468(応仁2)年当時、使節船用に2500石の船は存
在したようですが、2500石船の和泉丸は「不渡唐也」とあってどうやら渡航には至
らなかったようです。
・『続史籍集覧.第1冊/近藤瓶城編/近藤出版部/昭和5』
○「戊子入明記」<238~255/315>(469~502頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1259144/248  
<248/315>(488頁)
一  可(L)成(=)渡唐(-)船分
 豊前國 門司 (※和)泉丸 二千五百斛(※石) 是ハ大舩ニテ不渡唐也

なお、電子辞書『ブリタニカ国際百科事典』「遣明船」項目には、
「15世紀後半以後は1500~2000石積みの大型船(民間船をチャーターして改装)が主」
と記述されていますが、個別具体的な時期・船名は?です。

あと、またまた江戸期に逆戻りです。
木造?仕様など詳細は明らかではありませんが、
「積載容量800トン」の気になる記述。
1000石≒150トン換算とすれば、積載容量800トンでは約5300石相当。

〇「ムガル朝時代のインド洋と日本/近藤治」
『追手門学院大学文学部紀要 29/1994-06-30』(137-153頁)
<4/17>(140頁32・33行目)
1626年タイに向けて航海した別の朱印船は積載容量800トン、乗組員397人であった。

〇「角倉了以・素庵 : 世界に先駆け、経営倫理を実践(自由論題)/
武藤信夫・佐藤陽一」・『日本経営倫理学会誌(9)/2002-03-31』(115-123頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007889565
<3/9>(117頁左側9~14行目)
1626年の角倉船の資料によると、その商船は長さ20間(約36メートル)、横幅9間
(約16メートル)で約800トンとされている。乗員は397人で、水夫80人余、船長は角倉
一族で、航海士などオランダ人、中国人を雇っていた。残りの300人余が客商である。

以上 断片情報の寄せ集めに過ぎませんが、
少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼コメント
kouki-koureisya

お礼率 94% (1264/1337)

詳しく調べて下さって真にありがとうございます。
なかなか難しいですね。
知らない用語がいっぱい出てくるので、前進しません。
「大工間尺」も知らなかったのですが、これを基準に考えるとよさそうです。
「実積石数」とは差がありますが、“数値”として明確ですから。

ご回答の中から「大工間尺」を指標にして最大の木造荷船を選ぶと「嘉永元申五月新造 一千六百石積 觀晃丸」ですね。

『大阪市史.第5/大阪市編/昭和2』の「菱垣廻船歡晃丸圖解略說」によれば、
「船長サ 五丈壹尺五寸 船幅三丈一尺 深サ 壹丈壹尺五寸 五尺ヲ以テ壹尋ト稱ス 
此才千五百六拾九石五斗實積量貳千參百石余」とあります。

ところが、『船の科学館 資料ガイド10 弁才船 菱垣廻船/樽廻船』によれば、
「航長51尺5寸(15.6m)、肩幅31尺(9.4m)、肩深11尺5寸(3.5m)でこれらを掛け合わせて
10で割って積石数を求める大工間尺によると1836石となりますが、(以下略)」とあります。

同じ船でも何故か約3百石近い差があります。
一方は、「船長サ 五丈壹尺五寸」であり、他方は「航長51尺5寸」です。
「船長さ」は、見た目で分かる“全長”だと思います。
「航長」は、船底の前後方向の長さですから、全長よりはかなり短いです。
どちらかの記録(計算)が正しいのですが、おそらく大阪市史の「船長さ」は「航長」を指していると思います。
下記の「大弊丸」と比較すると、一千六百石積だと推定します。

私がネットで調べた中では、舞鶴市神崎の湊十二社に奉納された「大弊丸」の雛形から推定した
「実船に換算して、航長さ五九・一尺、肩二七・九尺、深さ九・○尺で、大工間尺石数は一四八四石」が最大です。
因みに、この船の全長は121.1尺です。

日本海事科学振興財団「雛形から見た弁才船 下 付録」
http://fields.canpan.info/report/detail/16319


しかし、大弊丸よりはるかに大きな船が、たくさんあったのですね。
「九店仲間の結成と廻船支配/柚木学」
『商學論究 22(3/4)/関西学院大学/1975-02』(63-77頁)
には、積石数1600~1900が並んでいます。


>なお、「大和形船製造寸法書」に引用された「讃岐国小豆島造船書ノ抜粋」によると、
>実在したかどうかは別として、船大工は弁才船の規模の上限=最大級の弁才船は
>航長80尺(24.2m)、肩幅40尺(12.1m)、肩深14尺(4.2m)で大工間尺4480石の木割り
>(船部材寸法書)を示していたようです。

こんなに大きな船を作る技術があったと言うことでしょうね。
接岸できる湊があったのか、沖合いでの荷積み・荷降ろしの作業性を考え始めると、またまた深みにはまってしまいそうです。
先送りしておきます。


次に、遣明船。
Wiki「遣明船」には次のように「500~2500石の船」と記載されており、これが質問の発端です。

「また、『入明諸要例』では同次遣明船について500~2500石の船が門司、富田、上関、柳井、尾道、鞆、田島、因島、牛窓に配されたとしている。いずれにせよ、遣明船には相当の大型船が用いられたと考えられる。」

「戊子入明記」に2500石の船の記録があるのですね。
記録の上では、これが史上最大の木造荷船になるのでは、と思います。
『続史籍集覧.第1冊/近藤瓶城編/近藤出版部/昭和5』を見つけ出してこられるのは、私には及びもつかぬことで、大変参考になりました。

数々のご教示、真にありがとうございました。
投稿日時 - 2015-08-14 20:14:24
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