• ベストアンサー

道徳教育とは

bn10000の回答

  • bn10000
  • ベストアンサー率7% (19/259)
回答No.5

そうですね。 学校で教える事じゃないですね本来は。 幼い頃の躾だったり、日々の生活の中で学習し身に付けていくもの だからね。 ただ、あまりにも馬鹿親が多すぎるので苦肉の策で 学校に頼らざる終えない状態かもね・・・ 意味も分からず覚えさせても意味ないんだけどね~ ま~今の20~30歳みたいなのが更に増えてくると 中国と遜色なくなるから・・教育現場も踏ん張り時ですね~

関連するQ&A

  • 学校の道徳教育は意味が無い?

    道徳を知っても、本人が”良いことをする人間をカッコいい”とか”悪いことをする人間はかっこ悪い”なんていう認識になれなければ、意味が無いと思うんです。 世の中を見渡してみると、カッコいい人は見当たりません。学校の先生がカッコ良く見えるなんて事が稀な様に、多くの子供は先生を尊敬できない。だから授業妨害とかされる。 昔は「教師の威厳」なりの恐怖心で支配できた。あるいは「内心点に響くから」という理由で将来への進路不安心を煽り支配できた。 しかし、不況で、誰しもが同じだけ努力しても報われるとは限らない世の中においては、「どうせ俺が努力したって駄目だし」と開き直りの精神から、授業妨害が起こる。 もしくは、単に楽しいからでしょうが、いずれにせよ、不安や恐怖心で子供を支配するという構造そのものが、そもそも道徳からして反してる訳です。 いわゆる”毒をもって毒を制す”ですが、毒は毒でしかない。 ボランティアをする様な人を尊敬しカッコいいと思い、その人を真似たいと思えないといけない。 それを考慮したとき、学校の先生は果たして、カッコいいのかと疑問に思う訳です。 将来役に立たないかもしれない勉強を(断言はしないが、勉強したことが生かせない人は居るという事実) 強要してる時点でまず尊敬されない。勉強できる子できない子の差がある不平等な時点で、不平等を受け入れる様に圧力をかけるその姿は、人としてはしたない。生徒にカッコいいと思わせられない。 だとすれば、学校の先生はどうすればいいのか? 理想論では教育できないが、理想を追求しなければ、発展性もない。 教師に課せられた使命は、生徒に見られる時間にどう振舞うかだと思う。 見られてる間、社会の規範となるような立ち振る舞いをし、またその時間を増やすのが子供にとっての真の意味での道徳教育になるのではないかと思う。 もちろん、普通の道徳授業の有効性があるのであれば、それをすればいい。 しかし、今の教師は道徳授業をする前段階から、授業外の仕事も追われてる。テストの採点やら、問題集つくりとかに手間がかかってる。生徒の前でボランティアして見せて誰かに感謝される様な光景(感動を子供に与えて手本にして貰う。あるいは尊敬される)を見せられる暇なんて勿論ない。 だから、学校での勉強やテストはすべてIPAD等でデジタルで統一し、採点チェックの仕事は、ネットを介して刑務所の囚人にさせたりして、教師の負担をできるだけ軽減させる。とする。 そういう様なことをしないと、たぶん、いけない。 しなくてもいいけど、したらもっと社会は良くなるかも? 実際にのところは私は神でないので判らないですが、一つの案としてココに提出してみた。 アンケート集計して、「7割以上の人がイケテル」と判断されたら、内容を詳細に煮詰めた後に国会に提出しようと思います。 ついでに今、アドバイスや指摘したい事があったら、よろしく書き込んで。。 と・・・上記な様な質問をアンケートカテゴリに投稿しようと思ったけれど、止めました。 「社会の構造で不平等な一面を解決するにはどうしたらいいか?」という質問にココから先に切り替えました。 子供たちの能力を適材適所に配分できる方法がなければ、道徳批判思想の根源的な部分は解決できないと思うので・・・ 努力に応じた分に見合う社会的地位、見合う仕事を割り当てるのが社会構造の理想とする。それに繋がる答えや議論は、おそらく既に語りつくされてるのでしょう。 語りつくされて尚、今の社会構造があるとして、そこを超えてくアイデア(実用性あるものに限り)を教えてください。 要するにノーベル賞になりそうな答えをこんな所で望んでるという訳です。 でもノーベル賞取れば1億円位の報酬がある訳で、やりがいのある問いの様にも思います。退屈で病んでる人は、チャレンジするのをお勧めします。

  • 道徳規範は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?  道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。  ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。  ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。  * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。

  • 今教育に求められること

    私は大学2年生で、教育学部に通っています。今度教育に関するディスカッションを授業中に行なうことになりました。そのお題が「今学校教育で、人間形成の上で必要とされるもの・いらないもの」というテーマと「現在の教師のあり方」というテーマと「教育基本法は改善すべきか」・・・3つもテーマがあります。↓ 2週間前から考えているのですが全く思いつきません。現在社会で「キレる」「情緒不安定」・・・そんな子供たちのためにもっと道徳の授業が必要なのと、勉強だけでなく、人間として生活していくうえで自らの身体を動かして、何かを作る(野菜の栽培・掃除など)ことが必要というのも考えましたが、何の根拠もないのでディスカッションまで持ち込めません。ほかのテーマについてもそうです。 お願いします。皆さんの根拠のある意見をお聞かせ下さい。自信がなくても全然かまいませんので、どうかお力添えいただきたいです。お願いします!!

  • 義務教育は寮制で

    元気な高齢者や共働き夫婦そして若者が安心して働ける環境作り、 それは義務教育(小学校・中学校)の児童及び学生は全国寮制と して教育する。人手不足の教師や不足している施設の解消などが 集中して管理でき、児童及び学生の能力アップに繋がり人間とし ての秩序と道徳心も含めて、教育出来ると思います。都道府県内 に各3ヶ所の施設わ設け、高等学校進学又は就職するときは自宅 に戻り家族と生活する事もアパートで暮らすことも選択が出来る。 これからの時代は「全国、都道府県内に3ヶ所の義務教育マンモ ス寮制学校を設立」です。支援組織として医師・警察・給食セン ター等」各施設の制服の供与と宿泊施設(入浴・娯楽)の提供等 質問です。将来、以上の様な画期的な案をどう思いますか。 ご意見をお待ちしています。

  • 教師にウンザリ。みなさんが思う教育とは?

    すみません、ただの愚痴になってしまいそうなのですが…みなさんの「教育とはこうあるべき」についてご意見お願いします。(多分、私は共感と同意が欲しいだけなのだと思いますが…) 教員です。担任も持っています。 私が思う教育とは、ある意味では「理想を追う」ものだと思っています。みんなが笑って明るく暮らせる社会の実現が最終目的と思っています。 人の生まれや育ちはそれぞれだし、能力にだって色々な種類があり、人それぞれだと思います。 家庭が貧しくて進学する金銭的な余裕の無い子どもだっています。だけどそれでも、その子が、周りの人間や自分を支えてくれる存在を大事にしながら自立していける道を一緒に探してあげて、色んな選択肢を示してあげるのが教師の仕事と思います。 「勉強しろ」とは言います。でもそれは、進学するだけが目的ではありません。勉強を通して「思考するという行為に慣れさせる」ことで、よく考える人間に育ち、忍耐力も養われるからです。もしその結果、学力も向上し、社会に対しても色々と考えるようになる生徒がいたならば、その子には「いっぱい勉強して偉くなれ」と進学を勧めます。 教育とは、未来の社会がより平和で、より明るくなるように、一人ひとりの人間が自分の人生を活き活きと生きていけるようになるために、ある種の「理想」を求めるものではないのですか? 他者を傷つけたり、人の迷惑になる行動をした生徒には生徒指導をする。悪いことは止めるよう躾をする。その一環としての道徳教育。 私はそう考えながら日々の業務に当たっています。 しかし一方で、進学率にのみ意識を傾け「勉強しろ」の一点張りで進学を強要する態度の教員、生徒の個別の事情を加味することなく一方的に抑圧するような指導をする教員、そのような教員が絶えないことに、酷い憤りを感じています…。 教員は、勉強ができない人間は負け犬「という現実」ではなく、自分と周りの人間を大切にして生きていくことが大事で、そのために自分が何をしたらいいのか「という現実」と向き合わせるべき職業だと思います。 自分自身の型にはまった価値観を他人に押し付ける人間がいることは理解もしています。しかし、表面上はそれを受け入れるようにしながらも、芯の部分では、その「理想」を持ち続けてこその教育だと思ってしまいます。 みなさんは、教育とはどうあるべきだと思いますか?

  • 憲法で、国の宗教教育を禁止している国家なんて日本以外にあるの??

    人間が、もし、偶然に単なるアメーバーの遺伝子エラーの 累積淘汰のなれの果てだと言うのなら、目的もなく 偶発的に突然変異で現れたのですから、人間には、生来 創造目的もなく、つまりは、存在目的もなく、結局、 存在価値もないということになりますが、そんなんで、 本当に、人権教育など出来るのでしょうか? 人権とは、生れながらに人間なら誰しもが持っている 自由権を中心とする生存権のことです。 生まれながらに・・・ということは生れる前からということになりますが、 とすると、アダムとエバが生れる前から・・・ということに なり、必然的に、人権を与えた方は、神ということになります。 つまり、これが、天賦人権論の根拠です。 神を否定するマルクス・レーニン主義の唯物的な思想に 洗脳されている「日教組」の教師達が、真の人権教育ができるとは 勿論、思っていませんが、果たして、日本の憲法第20条のように、 憲法で、国の「宗教教育」を禁止している国家などあるのでしょうか? 私は、この日本以外には、どうも考えられないのですが・・・ 子供の教育における宗教教育は、「政教分離」とは 違うような気がするのですが・・・ ご存知でしたら、教えて下さい。

  • 「厳しい教育」と「虐待」の違い

    24歳男性です。 質問です。 「児童虐待」と「厳しい教育」の違いとは何でしょうか。 良い子に育てようと「厳しい教育」を施してきたつもりが、蓋を開けてみれば実は「虐待だ!」と批判され、糾弾されるご時世じゃないですか。 私も私で、自分の子供に虐待と思われそうな教育をしてしまいそうで心配と不安でなりません。 私の幼少時代。両親は夜な夜な喧嘩が絶えず、あえなく離婚。母親に引き取られることになりましたが、このまま日本での生活は経済的に難しいということで、親戚のいるフィリピンにて小1~小6までの5年間滞在。その間はいとこらの嫉妬によるいじめを受ける。現地の小学校に入学することになり、そこでも「異端者」扱いされましたね。 やっと日本で生活できるようになったということで日本に連れ戻され、日本の学校に行くことになるも、普通の子供たちより遅れていることから厳しい教育を施されて今に至りました。 数年経って自我がはっきりして当時を振り返った時、「なんて幼少時代を送ってきたことだろうな」とぞっとしましたし、「よくも俺にあんなことしてくれたな」と母親に言い返してやりたいと強く思いました。 普通なら耐えかねて自殺してい筈ですが、私はそんなことしませんでした。何故なら、その大変な生活を送っていた私はその頃アニメやドラマ、映画をたくさん見ていて、死にたいどころか「あのアニメの続きが見たい」「あの映画面白かったな。続編が待ち遠しい」と未来に希望を膨らませて、それがいつの間に「明日も生きたい」「楽しみだ」と考えるようになっていました。 当時の私は、たまたま「アニメ」「映画」「ドラマ」「音楽」の存在が苦しい現実からの逃げ道というか癒し・心のオアシスとして身近にあってそのおかげで明日も生きたいと思えるようになりましたが、 似たような状況に置かれた他の子供たちはそうはいかないじゃないですか。 恐らく逃げ道すら与えられていないかもしれない。で、そういう子供たちに迫られる選択肢って「忍耐」か「自殺」の二つしかないと思うんですよ。例え自殺せずに生き延びたとしても、私みたいな、世の中を「斜め」から見るひねくれ者や殻に閉じこもる性格の人等、何らかの闇や傷を負った人間が大半を占めるでしょう。 で、そういう子供が大人になって結婚して子供が出来たとき、心の奥底で抑え込んでいたはずの虐待に近い厳しい親から押し付けられた「躾のトラウマ」が蘇って自分の子供にぶつけてしまう……の繰り返し。 大人になったら忘れている筈なのに、幼少の頃からそういう邪悪な一面をゆっくりじっくりインプットされて、どこかのタイミングで起動するようになっている。そして気が付いたら親と同じことをしていた…… 少なくとも私は自分の子供に自分と同じ苦しみを味わってほしくは無いので、育児には積極的にやりたいですし、私自身が経験した苦しみや、人間社会の良い面と邪悪な面、善と悪、倫理道徳規律規範を優しく丁寧に教えて心が綺麗で逞しい子に育ってくれればいいなと考えております。(その前にパートナー探しを頑張らないと……笑) しかし、自分の育児が上手くいかず、子供が非行に走って思わず手をかけてしまったら…… そう思うと怖いです。私の中にも同じような「爆弾」が仕掛けられていると思えてなりません。皆さんは「内なる爆弾」は取り除けましたか? 余談ですが、よく「そういうつらい経験をしてきた人は逆境に強くなれる」と言われますが、なぜそんな簡単にそういう無責任なことが言えるのだろうか、と思いますね。 じゃあ虐待に耐え切れず自殺した、虐待死してしまった子供はどうなるんですか? 「ああ、運が悪かったね」「弱かったね」で片付けるんでしょうか? よろしくお願い致します。

  • 社会的存在にする教育とは?

    社会的存在にする教育とは何なのでしょうか? 例えば、生徒に寄り添う形の教員のドラマ「3年B組金八先生」から「GTO」の 様な教師や、水谷修や義家弘介(議員になり思想転向変な方向に今は行っていると 思うが)や尾木直樹、内藤朝雄等の生徒に寄り添う形の教師も、生徒を野放しにするのではなく、生徒を自立した社会で通用する人間に育てようとしているという事は 解るのですが、彼等は 例えば いじめや非行の問題があると、 1 人間としていじめはいけない 2 教師と生徒という関係はあるが、そこを超えて人と人という関係がある。 (このタイプの教師も尾木のように優しく諭すタイプや(教員時代は尾木ママも  手こそ出さないが怒らせると怖かったといわれたという話もある)  教師時代の義家や山口良治等の様に時には手を出す事もある。  金八も鬼塚も昔の青春ドラマの教師も手を出す事もあるが)  その優しさや熱意を生徒に伝え、それで社会的存在になる  (いじめや非行の減少 底辺校の生徒にやる気を出させる)  という事であると思います。 3 世の中不平等な事もあるが、その矛盾をできる限り薄める様にする。  だから、野放しにするのではなく一定の秩序が守れば(いじめや非行が減少になる と)、理不尽な事は変えていっても良いという事であると思います。 もう一方で映画「ザ中学教師」やドラマ「女王の教室」や 戸塚宏等スパルタ教育的な感覚を信奉する人は 1 お上は絶対である。 2 その権限を強くして、何であろうと、そこに従わなければならない。 3 その権限により、人は従う、従っておれば、その枠組みでは「いじめ」も  許容される。「いじめもなくならない 弱いから苛められる、でもいじめに より「集団の秩序」を乱すとお上に背いたと罰則を受ける」 4 社会的存在にするといっても「所詮社会は矛盾だらけ」  それを自覚しろ、それが嫌なら社会での上位を目指せ  (戸塚ヨットスクールではいじめや喧嘩でスクール内でのボスを  (所詮スクール内でのルールだが)   それを少し薄め暴力的描写を除き、クラスが一丸と協力して行った   「ザ中学教師」の駅伝大会の成功例(どちらかというとこれは「金八」や   「スクールウオーズ」「GTO」等でも 教師が「お前たちにはできる頑張れ」  といい団結させるので、やっている事は変わらないとも思えるのですが)   (その枠組みで部活動では「全国大会」を目指す 学力を延ばすという道が   開かれてくるのだと思います。) 前者は道徳的に人間の育成 後者は国家や権力を教える形かと思いますが、 どちらかというと纏めて思うままに動かせるのは後者の方なのでしょうか? ご回答お願いいたします。

  • 道徳教育において

    道徳教育において 皆さんが教師だった場合、道徳教育をする上で最も重要なことは何だと思いますか? どんなことを生徒に教えていきたいと思いますか? 私は他人の気持ちを考えることが重要だと思います。 いじめや不登校になる生徒が多いので・・・。 また、昔と比べて最近の子供達は、言うことややること(裏学校掲示板など)がひどいと思います・・・。

  • 道徳教育?

    心のノート…安倍総理はぜひご自分のお心を振り返っていただいて、原発事故のA級戦犯であるご自分の責任について(人のせいにばかりせず!)きちんと謝れるようにがんばっていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか? 2005年12月13日、小泉政権下において、日本共産党の吉井英勝から「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を内閣に提出され、後の福島第一原子力発電所事故で現実のものとなる電源喪失のケースなどの対策に注意を促されたが、当時内閣官房長官であった安倍は「我が国において、非常用ディーゼル発電機のトラブルにより原子炉が停止した事例はなく、また、必要な電源が確保できずに冷却機能が失われた事例はない」「原子炉施設の安全を図る上で重要な設備については、法令に基づく審査、検査等を厳正に行っている」とし、今後も原子力の安全確保に万全をつくすことを回答したものの、具体的な対策はなされなかった。(Wikipediaより)